世界史の転換

 

世界史の転換

 

グローバリゼーションの波がうねっている今日この頃であっても、世の中の思考の仕方、理念・原則の実践の仕方、嗜好、生活様式などは、いくら「世界は一つ」と謳歌しても一様には成らなかった。非ヨーロッパ世界の独立により高山岩男のいう「世界史の転換」が起こったのだ。 

1839年から始まったアヘン戦争はアジアと西洋との100年戦争の始まりと呼ばれた戦争だった。それは、高山岩男のいうように「自己の特殊な歴史的世界の原理」、つまりヨーロッパという一個の特殊的世界の原理を「そのまま連続的に延長拡大して、普遍的原理でもあるかの如く考える[世界]一元論」の実践であった。15世紀中ばから17世紀へと繋がった「The Age of Discovery/大発見時代」と18世紀19世紀の「帝国主義時代」へと延長拡大されてきた。そもそも日本で「The Age of Discovery」というヨーロッパの特殊的世界の立ち位置からの見方を退け、別に「大航海時代」という新たな名称を用いることこそがヨーロッパ的世界一元論に対する非ヨーロッパ国家日本からのささやかな抵抗であった。

国際連合の創設時点、1945年における加盟国、つまり主権国家として認められている国の数はたった51カ国であったのだが、2013年現在の数は193カ国にもなったのだ。どこにこの差が出てきたのかというと、その多くの国はかつては欧米の植民地であったという歴史的事実だ。そこには、高山が云う新たな「世界史の転換」を求める動きがあったのだ。それが大東亜戦争という植民地宗主国英国、米国、オランダを相手にした戦いである。アジアに焦点を定めれば1940年時点の真の独立国は日本、タイの二カ国だけだった。フィリピンは米国の植民地、ミャンマー(ビルマ)、マレーシア、シンガポール、香港、インド、パキスタン、スリランカ(セイロン)は英国の植民地、インドネシアはオランダの植民地だったのだ。カンボジア、ラオス、ヴェトナムはフランスの植民地であったので、時のヴィッシー政権との合意の下で仏印に進駐したのだ。

 当時のアジア諸国の実情は、ヨーロッパ中心の世界一元論の下で、欧米諸国は宗主国として自国の姿を植民地に移植し自国との同一化をしたのが実状であった。これは、高山が云う「無自覚な世界一元論」の原理を「連続的に延長拡大」してきた結果であった。日本が世界史の転換を求めたのは、多元的な世界史的世界の構築には、ヨーロッパという特殊的世界とは別に非ヨーロッパの一つの別な特殊的世界の創造が必要であった。何故ならば、「特殊性の自覚は同時に普遍性の目覚め」であり、「普遍的世界或は世界史的世界の成立には、却ってその半面に特殊的世界の確立」が供わなければならないからだ。そこに創り出された地域秩序が「大東亜共栄圏」というものであった。そしてその大義のために戦ったのが「大東亜戦争」だった。しかし、多元的な世界史的世界を追求する「世界新秩序の原理」は欧米の一元論的な「帝国主義」ではないと言いつつも、英国の植民地が英語を話し、オランダの植民地でオランダ語が使用され、米国の植民地で英語が以前の支配言語であったスペイン語に取って代ったのと同じように日本の占領下においても日本語教育が強制されたのだった。つまり、日本も欧米の植民地宗主国と同じように自国の「万世一系」と「八紘一宇」の世界観を強制的に押し付けるという「帝国主義」を実践し、欧米宗主国からの独立を求めて日本に協力した被統治者の希望や期待は踏みにじられたのだった。

 それでも大東亜戦争の大義は大東亜共同宣言に掲げてあるようにアジアの解放と人種差別撤廃を目指したものだった。日本が大東亜共栄圏を謳い、大東亜新秩序というものを建設することを明らかにした大東亜共同宣言は、欧米宗主国の植民地に対する主権の回復を唱えた米英の「大西洋憲章」に対抗するために出されたものだったにも拘らず、その作成過程においては「植民地に生きる」当事者である大東亜会議の参加者のさまざまな修正案を悉く退けたという日本の独善的な宣言であった。それが満場一致で採択されたわけだった。だからといって、ビルマのバー・モウ首相、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースにしても、南京政府汪兆銘(おうちょうめい)にしても、その全ての人が各々確固たる政治信念を持っていた立派な人物であり、たんに傀儡政権と切り捨てられるものではなかった。日本が彼らを利用したと同じように彼らも日本を自分の国の独立のために利用したのだった。そこには基本的な共通意識として、ヨーロッパ的一元論の世界への非ヨーロッパ世界の従属からの解放と漸次対等な存立を求める行動があった。

 日本は、幕末以来、怒涛の如く押し寄せる帝国主義から身を護るため帝国主義を身につけ、独立を維持してきた。その結果として帝国主義国家となってしまったのだ。そして「世界史の転換」の戦いに無残にも敗れたのだった。 

 歴史は勝者が自らの行為を正当化するものだ。田原総一郎が言うように、「敗戦というのは決定的な結果であり弁明のしようのない致命的な失敗なのである。どうも私たち日本人には、連合軍がきめつけた“侵略戦争”というよりは敗れる戦争をしたことこそが致命的な失敗という認識が希薄なようだ。」その勝者の歴史認識を徹底的に敗者である日本人に“洗脳”させたのが敗戦後の日本を占領支配したGHQだった。GHQの政策の第一弾が民間情報教育局の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の一環として作成され「『太平洋戦争史』が「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した」のだということを認識すべきだ。この『太平洋戦争史』は昭和20年(1945年)128日から全国の新聞紙上に10回にわたって掲載された占領政策用の宣伝記事であった。そして、その一週間後、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)は、1215日に出された神道の国家からの分離、神道教義から軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除を目的としたGHQ覚書、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(所謂「神道指令」によって、「『大東亜戦争』、『八紘一宇』ノ如キ言葉及日本語ニ於ケル意味カ国家神道、軍国主義、超国家主義ニ緊密ニ関連セル其他一切ノ言葉ヲ公文書ニ使用スル事ヲ禁ス、依テ直チニ之ヲ中止スヘシ」とした。これによって大東亜戦争」という用語の使用が禁止されたのだ。 同時に、徹底した言語統制を実施した。連合国の占領下のことであるからこの指令に服すことは致し方ないことだった。

 ここで「大東亜戦争」という名称について一つ確認しておこう。「大東亜戦争」は1941年(昭和16年)1212日に、以下のような文面で閣議決定されたものだ。

 

   「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事           変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス。」

 これを受けて、内閣情報局は「大東亜戦争と称する所以は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」と同日発表した。この呼称が政府の公式名称であり、前記のGHQの指令が出るまで使用されていたのだ。