「正しい歴史認識」とは何か?

「正しい歴史認識」とは何か?

  同じ民族間の争いであっても、その戦いの原因、戦いを遂行するための目的、その戦いが持つ意義、そして争いが終焉した後に生じた変化を踏まえた上での歴史的な評価も、それぞれの戦争の当事者は異なった歴史観や歴史認識を持っているのが自然であり、お互いの生活慣習・環境、風土、気候、地勢、宗教、伝統、歴史など、そのすべてを抱えている地域や国の違いを考えれば当然なことだ。  

 1951年に勃発した朝鮮戦争に対する韓国と北朝鮮とのそれぞれの歴史観は同じである筈がなく、むしろ正反対であるに違いない。にも拘らず、相手に対して「正しい歴史認識」が欠如しているなどと批判はしていない。同じようなことは、南北戦争を経験したアメリカについても、セルビアから内戦を通じて独立した「コソボ共和国」についても云える。ましてや、われわれ自身の経験も例外ではない。

  明治維新に対する歴史認識は、会津の人の認識と長州・薩摩の人が持つ認識との間には埋めることができないほどの差があるはずだ。京都守護職の職務を勤め上げた松平容保が抱く長州・薩摩の手法に対する義憤は計り知れないものがあるはずだ。鳥羽・伏見の戦いが、もとをただせば岩倉具視による勅書捏造と、それに乗じた薩長の出兵と、その出陣を正当化する「錦の御旗」を岩倉具視が創作したことによって始まったものだった。「王政復古」の名の下に「新政府」が宣言された時には、まさに、坂口安吾が言うように、薩摩・長州・公家の倒幕指導者は「天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」のだ。そこには、会津が長年の京都守護職の務めを通じ、孝明天皇の厚い信任を得てきたことも、会津が薩摩と共に長州と戦ったことも勝手に忘れ去られていた。度重なる理不尽な要求を会津に突きつけることこそ、会津に「朝敵」という烙印を押しつけるためだった。ひとことで云うならば、「勝てば官軍。敗れば賊軍」なのだ。そして、勝利者の歴史が書かれたのだ。

「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのだ。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではない。今、流行りの「正しい歴史認識」とは、相手側と同じ歴史認識を持つことであろう。まして一国の歴史認識を他国との歴史認識との交渉の対象とすることなど言語道断だ。   そんな理不尽なことはありえないのだ。従って、日本の教科書編纂に当たって近隣諸国の主張に配慮するという所謂「近隣諸国条項」などという代物を採択したことは一大失策であった。過去の出来事を現在の道徳観念の正悪基準から判断・評価すべきではないし、ましてや、「過去の真実の探求」のための知的作業のプロセスの中に政治が介入して、何が歴史的真実であるかを時の政治的都合により決定されることなどは、思想・言論・表現の自由がない全体主義国家がやることであって、自由を尊ぶ民主主義国家がやるべきことではない。