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大東亜戦争と「太平洋戦争」: GHQの言論統制と政府の不作為

 

大東亜戦争と「太平洋戦争」: GHQ言論統制と政府の不作為

「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのだ。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではない。しかし、所詮、「勝てば官軍、敗れば賊軍」の世界。GHQの熾烈な事前検閲によって強制的に勝利者の「太平洋戦争史」のみを許すという「閉ざされた言語空間」の中で育まれてきた「特異」な歴史観が醸成されてきた訳だ。熾烈かつ執拗なGHQの事前検閲の下で、時がたつに従って、強制的に押し付けられた歴史観は不思議なもので「自発的な」もの、「習慣的な」ものに成ってしまった。事前検閲は既に述べたように(201354日の「世界史の転換」)、194510月から実行され19487月まで続いたのだが、それ以降は「事後検閲」に移行した。

  検閲が「事前」に行なわれるのか、「事後」に執行されるのかは、大きな差があった。「事前検閲」は発行・出版以前の編集者としてのゲラ刷りの最終校正を検閲に提出するので、たとえバッサリ切られても、その箇所を再度校正し直せば済む事で、それに掛かるコストも時間も我慢できるものだった。それに比べ、「事後検閲」は最終校正を済ませ、その最終校を実際に印刷し、発行・出版した後に検閲に差し出すのだ。その場合のリスクは計り知れないものがあった。従って、本来のGHQの検閲官の判断を忖度しながら「自己検閲」をするわけだ。リスクを出来るかぎり排除しようとすれば、それだけ「自己検閲」を通過させるためのバーは高くならざるを得ない。つまり、自らGHQの掲げた検閲基準よりも厳しい基準を設定し、その基準に恭順したのだ。そしてその習慣が新聞、雑誌、その他のマスコミ・メディアに従事する記者、報道者、編集者のみならず、学術研究者の脳裏にも内在化されていった。上山春平はその原因を以下のように説明した。

         "私たち日本人は、自分の思想や行動が社会に安全なものとして通用するかどうかという点について、じつ   に鋭敏な感覚をもつ国民ですから、ときの権力がいわば言論活動の枠として示したものにたいしては、驚くべきほど忠実にふるまったのです。そしていつのまにか、その枠が占領軍によって強制されたものであるということを忘れて、自分の考えであるかのように思いこむようになっているむきが多いのではあるまいか、という気もいたします。"(上山春平『大東亜戦争の意味――現代史分析の視点』)

 そのような状況の下で、勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が「追放をまぬがれた言論人の虎の巻となり言論界の常識となって、今日にいたっている」のだ(同上)。その傾向に拍車を掛けたものは云うまでもなく、GHQの検閲のために日本語を英語に翻訳する仕事に高給で雇われた、一時8000名を越える日本の知識人たちで、その多くの人が後にマスコミや大学の職場に戻ったり、あらたに参加して行ったことだった。こうして世代を超えて勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が今でも受け告げられている訳だ。

 従って、サン・フランシスコ講和条約の発効と共に主権を回復した時点で、「神道指令」の強制力は既に失効したのだが政府はなんら手を打たず、あたかも「神道指令」が効力を持つ如く「今次の戦争」、「先の戦争」、或は「第二次世界大戦」など、「太平洋戦争」という名称は使用してなくとも自らの歴史観を取り戻すことはしなかったのだ。

  異色な歴史作家、関祐二によると、近代日本は、二回過去を捨て去っているという。最初は明治維新であり、二度目は「第二次大戦後のことだ」という(関祐二『呪う天皇の暗号』)。関によれば、明治維新が創りだした「『王政復古』は、純粋な古代天皇制への復古ではなく、実際には西洋的で一神教的な天皇への変貌であった」という二度目に過去を捨て去ったのは、「戦後のインテリ層は、連合国が押し付けた『すべての責任は日本にある』という歴史観に『迎合』し、過去の日本を拒絶してしまった」からだという結果として「大東亜戦争」という名称は日陰者めいた扱いを受けてきたのだ。この扱いは、自衛隊を「日陰者」扱いするのと同じであった。そこには、上山春平によると「『太平洋戦争』史観を鵜のみにする反面、「『大東亜戦争』史観には一顧だにあたえようとしないという二重の錯誤の根」があるという(上山春平『大東亜戦争の意味―現代史分析の視点』)つまり、「大東亜戦争」史観とその国家利益との関係は克明に検証され批判されてきたにも拘らず、その批判の基準として持ちいれられた「太平洋戦争」史観や「帝国主義戦争」史観などはに対しては、それらの各々の戦争が当然持っている国家利益との結合に関しては真摯な批判的考察はなされる事なく、「額面どうり普遍的な人類的価値尺度」として受け入れられてきた結果、「大東亜戦争」史観とそれに対峙する「太平洋戦争」史観等に対する評価がゆがんだことによって「二重の錯誤」が生じたという。 

  従って歴史というものが、覇者の行為の正当性と、その大義の正統性を世に広く知らしめることであり、それが覇者の権威・権力の維持に繋がることは明らかだ。『日本書紀』の編纂を通して如何に藤原氏が千数百年もの間日本に君臨してきたか、そして「為政者が過去の自家の『犯罪行為』を隠蔽するためにも、歴史書の編纂は必要なもの」(関祐二『藤原氏の正体』)であることを誰よりもよく熟知しているはずの関祐二すら、「大東亜戦争」という名称は使わずに、あえて「第二次大戦」という用語を使用するのだ。その原因は、単に上山の言う「二重の錯誤」が在るためだけではないのだろう。占領時代にGHQの統治に服している間に、やむを得ざる処世術として「太平洋戦争」という名称を採用しているのなら理解も出来よう。しかし、独立を講和条約締結後に取り戻したにも拘らず、その後62年もの間いまだにその「錯誤」を認識せず、「太平洋戦争」史観の「覇者の論理」をそのまま後生大事に抱え込んでいるのは異常だ。なぜこのような異常な状態が継続しているのだろうか。 

  それは、ちょうど藤原氏が「華の貴族」として権威・権力を欲しいままにし、現在も「エスタブリッシュメントとして、日本社会に隠然たる影響力を及ぼしつづけている」ことを許すような空間が存在するのだ。関はそれを「藤原の呪縛」と呼んだ。それと同じようにGHQが占領政策を成功裏に遂行するために強いた言論統制こそ、「大東亜戦争」史観や「太平洋戦争」史観の客観的な批判・考察を許さない環境を創りだした元凶であり、それは、「いうまでもなく現行憲法、とくにその第9条は、今日にいたるまで『一切の批判』を拒絶する不可侵の “タブー”として、日本の国民心理を拘束しつづけている」のだ(江藤淳1946年憲法―その拘束 その他』)。この「タブーの呪縛」こそが日本の歴史観を歪めてきたのだ。まして、そのような「閉ざされた言語空間」の下で日常生活を敗戦の凄惨さから取り戻そうと苦労している多くの人の心の片隅には、「あのように頑迷な独善主義の陸軍が温存され、戦時中病的に異常な様相へと高められた神国史観、天皇史観も残り、旧民法のもとに旧家族制度が存続し、農地改革も婦人参政権も行われない戦後の日本を想定した場合、無条件降伏のもったプラス面」もあるという思いを実感として持っていたことは否定できないであろう(大島康正「大東亜戦争と京都学派―知識人の政治参加について―」、西田幾多郎西谷啓治、他『世界史の理論―京都学派の歴史哲学論考』)。そういう状況の下で、多くの人は戦時の苦しみからの解放感とともに、その惨めな結果をもたらした国の政策に加担したことを慙愧した結果としての「平和主義」であり、「民主主義」であり、国家の否定としての「世界」であり「個人」だった(坂本多加雄坂本多加雄選集 I-近代日本精神史』)。敗戦後の知的混乱と既存の価値体系の否定から生じる精神的衝撃と動揺は、「一億総懺悔」という無責任の論理を以って戦時の各界の指導者層(政府、政界、官僚、軍部、学会、新聞等)が持つ責任は、中堅層や一般市民が持つ責任との間には雲泥の差が存在することをまったく無視し、「その責任の感じ方、または引責の方法についての考へ方は、各人に信ずるところがあり、それを、とやかくあげつらふべきでない」と自ら取るべき責任を包み隠した(『朝日新聞』「天声人語」、1945年(昭和20年)96日)。まして、「一億総懺悔」論理の実践者は本来ならば自ら取るべき責任を他に転嫁し、その責任追及の役割を極東国際軍事裁判(東京裁判)に委ねたのだ。日本の指導者層が責任を取らないということは、「覇者の論理」に乗ることであった。 その結果は、必然的に「太平洋戦争」史観は砂地に水が流れるように浸透していったのだった。この間、「覇者の論理」を押し付けられた当事者である日本政府の方からは別にこれという意見は出されず、以前と同じように「今次の戦争」、「先の大戦」または「第二次世界大戦」という呼称をあたかも第三者の如く使用することに甘んじていたに過ぎなかった。無作為の受け入れである。(無作為といえば、余談だが、橋下大阪市長のいわゆる「慰安婦問題」発言に関して、政府は米軍当局の占領開始直後に出された“慰安婦”の提供施設の設置を要求に「特殊慰安施設協会」を設立した事実に第三者のごとく沈黙を保つのと同じだ。)  

  それでも「太平洋戦争」という呼称は定着したように見えたが、革新勢力の方からの異論は「15年戦争」に始まり、今や「アジア・太平洋戦争」という呼称にまで発展した。しかし、最も衝撃的であったのは、信夫清三郎の論文「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」だ(『世界』19838月号)。信夫は、「日本の歴史学者は、『太平洋戦争』という呼称で何を見据えようとしているのであろうか」と疑問を呈した。もし、それが大東亜戦争」の呼称から逃れるために、「太平洋戦争」の呼称を「科学的に必ずしも正確な名称とはいえない」と認識しつつも、「次善の方法」として「便宜的」に使用するのは、「怠慢」、「怯懦」であると、家永三郎歴史学研究会編『太平洋戦争史』などを批判したのだ。そのうえで、ドナルド・キーンの論文「日本の作家と大東亜戦争」(Donald Keene, Japanese Writers and the Greater East Asia War, Journal of Asian Studies, Vol. 23, No.2, 1963に言及して、信夫は大東亜戦争」という呼称の使用が戦争の肯定・支持を意味するものではないとし、「私は、過去には『太平洋戦争』の呼称を用いたこともあるが、目下は戦争の実体を最も広く蔽いうるものとして『大東亜戦争』の呼称を用いている」と主張した。もっとも、それ以前に信夫は、「日本の歴史学は、通例、『大東亜戦争』のことを『太平洋戦争』と呼んでいる。 [中略] 対米英戦争は、まさしく『支那事変』の矛盾のなかから日本が突入した戦争だから、戦争の歴史的性質を正しく把握するためには、『太平洋戦争』というよりは『大東亜戦争』と呼ぶ方が正確である」と1982年の著書『大東亜戦争への道』で説明していた。 信夫の論文に啓発されたのか、「15年戦争」という呼称を創りだした鶴見俊輔も、最近ではもっぱら「大東亜戦争」と自然に呼んでいる。

  大東亜戦争」という名称を使用することは、それが歴史なのだ、という事実を、善かれ、悪しかれ、総体として受け止めることだ。この戦争を「大東亜戦争」と議論の末に決定した軍部の指導者、その戦争の遂行にさまざまの政策決定をしてきた政治家・官僚、その戦争に参加した又はさせられた将兵、兵士を送り出した家族、戦況を日々報道した新聞、ラジオの記者・編集者、その報道に一喜一憂した一般市民、その戦争の現代的意義と歴史的重要性を論じた一般・学術雑誌・書籍の著者・編集者など、その時代を生きた人の実体験として、その戦争は政府の公式文書でも民間の一般文書でも例外なく「大東亜戦争」と呼ばれれていたのだ。その事実に蓋をして、「太平洋戦争」という呼称を使うことが「正しい歴史認識」であり、「正義」であるというのは、単に戦勝国の論理をそのまま請け負っていることと同じだ。たどり着く所は、悪いのは軍部、特に陸軍であり、国民は無辜の犠牲者だという詭弁を恥じもなく都合よく受け入れたのだ。ドナルド・キーンの嘆きをもう一度吟味するのも価値がある(『日本人の戦争――作家の日記を読む』)

        "この本(『日本人の戦争――作家の日記を読む』)が生まれるきっかけとなった数々の日記はすべて公刊さ れていて、戦前戦中戦後の時代史の研究家にはよく知られたものである。しかし意外にもこれらの日記は、日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨極まりない三年間について語る人々によって、時代の一級資料として使われたことがほとんどない。"

  上山春平は戦勝国の「太平洋戦争」の解釈を無条件で受け入れ、反対に「大東亜戦争」の解釈を悉く否定する論理を「二重の錯誤」と呼んだ(上山春平『大東亜戦争の意味』)。何故ならば、「大東亜戦争」史観と国家利益との関係に関しては克明な批判がなされたが、その批判の根拠又は考察の基準となった「『太平洋戦争』史観」や「『帝国主義戦争』史観」などは「普遍的な人類的価値尺度」として額面どうりに受け入れられてきたが、それらとの史観と「特定の国家利益との暗黙の結合」については批判的な考察がなされてこなかったという。そこにそれぞれの史観に対する「評価のアンバランス」が生じ「二重の錯誤」につながったという。さらに上山は、このような「二重の錯誤」を打破せねばならぬとする根拠を六つの要点にまとめた。以下に引用する。

 

     1.国家が人類社会における最高の政治単位をなすかぎり、二つ以上の国家の利益が妥協の余地なき対立に追いこまれたばあい、戦争という暴力的解決の道をえらぶほかはない。

            2.こうした状況のもとでは、武装自衛権ないし交戦権は国家主権の不可欠の要素をなす。

            3.そのかぎりにおいて、国家は暴力装置をそなえた潜在的戦争勢力にほかならない。

            4.戦争勢力としての国家が、戦争行為のゆえに他国を倫理的に非難したり法的に処罰したりするのは背理である。

            5.しかるに、核兵器の発達にともなって、国家利益の暴力的貫徹の手段としての戦争が人類絶滅の危険をはらむにいたり、国家利益を人類全体の利益に従属させることが緊急の課題となってきた。

            6.この課題を解決するには、それぞれの国民が自国の国家利益を粉飾するイデオロギーの虚偽にめざめ、国家的価値尺度の相対性を確認することが先決問題である。

  最も重要な教訓は「大東亜戦争」にしても「太平洋戦争」にしても、それぞれの国家利益に密接に繋がる価値・理念や世界観をあたかも普遍的な価値・理念であると考え、それを第三者の国々・民族に押し付けたことだ。日本の価値・理念や世界観もアメリカの価値・理念や世界観もそれぞれ相対的であって特殊的なものなのだ。まして、現代の世界秩序が主権平等の原則に基づき互恵の関係の上に成り立っているわけであるから、各々の国家は相互に相手国の価値・理念や世界観に対して尊敬と対等な権利を認めるといううことだ。