集団的自衛権と「一体化論」の矛盾

 

集団的自衛権と「一体化論」の矛盾

鈴木英輔

  政府の統一見解によると、「集団的自衛権」の定義は「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利を有するとされている」と規定されています。この定義では、主権国家として日本も集団的自衛権を保持しているように見せかけていますが、実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法は集団的自衛権の存在を認めていないのです。今までの集団的自衛権の論議は、攻撃の対象が「自国」であるか「外国」であるかによって決定されるという二元論に立脚するものです。つまり、「自衛権」というものは「自国」を防衛するものであって、「外国」の防衛にはせ参じるということは、憲法第9条第1項で許されている「必要最小限度の実力の行使」の目的であるべき「自衛のため」に合わないので「集団的自衛権」は行使できないという論理です。ここに政府統一見解の最初の欺瞞があります。「行使できない」というと、集団的自衛権を保持しているが、自らの意思でその権利を使わないことを決定したという響きがあります。実際に、政府はそのような説明をしてきました。しかし、現実には政府の統一解釈には「集団的自衛」という概念が存在しないのです。政府の二元論では、守るべき自分自身の「主体」が外国をも含め複合的に又は集合的に、より大きな「主体」に発展的に拡大する可能性すら否定しているからです。

政府の「集団的自衛権」の定義が混乱しているのは、この「自国・外国」の二元論では「個」が「全体」の「一部」であり「一部」の利益が「全体」の利益を構成しており、その逆も同じであるということが認識されていないからです。まず、政府が「集団的自衛権」をどのように理解しているのか、『防衛白書』にある以下のような「集団的自衛権」に対する政府の基本的な考えを見てみましょう。

「わが国は、主権国家である以上、国際法上、当然に集団的自衛権を有しているが、これを行使して、わが国が直接攻撃されていないにもかかわらず他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することは、憲法第9条の下で許容される実力の行使の範囲を超えるものであり、許されないと考えている」。

この政府見解は基本的には2003年度の『国防白書』から定式化されたものです。「集団的自衛権の行使」の是非に関するもろもろの論議が混乱するのはこの定義に問題があるからです。「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という形容句が「自国」と「他国」に峻別することによって「集団的自衛権」の本質を見逃すことになるからです。200198日サン・フランシスコ講和条約締結50周年式典が催されたとき、宮沢喜一元首相が「平和と繁栄をもたらした50年間の同盟関係」と題した講演の中で「日米同盟をより効果的なものにするために、・・・日本が自衛権の論理的延長として集団的自衛権を位置づける」ことを提案したのは、まさに「個」の拡大のことです。内閣法制局による憲法第9条の解釈には、日本以外の諸外国とともに共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際主義に不可欠な基本的な認識が欠けていることです。その結末が国連の武力行使を伴う制裁措置やPKOへの参加と集団的自衛権の憲法上での否認なのです。この基本的な認識の欠如により導かれたものが、驚くこと無かれ、独善的な「一体化」論です。

 集団的自衛権の基本的な概念は、「自己同一認識」、セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)、という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することにあります。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的にまたは集合的に、新たな、より大きな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される一蓮托生の「共同体」なのです。それが「自己」の展開的拡大といわれるものです。「地球はひとつ」という「プラネット・アース (Planet Earth)」が宇宙から日本以外の国が攻撃されたとき、日本は「自国が直接攻撃されていない」ので地球防衛のためでも自国に留まって何もしないでいるのでしょうか。まさに、集団的自衛権の基になるものは、他者への「一体化」を通して複合的な主体としての「自己」を展開的に拡大するものであるのに、政府の統一見解は、必須条件であるその「一体化」を否定するのです。

 現在論じられている「集団的自衛権」の論理は根本的にその基本概念が間違っているのです。「自己同一認識」の展開的拡大は別に新しい概念ではなく、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由としていますし、第37条でも、緊急避難の対象として「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、他人と共に危機感を共有して「一体化」するからこそ惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をする行為を対象にしているのです。したがって、『防衛白書』で記述すべき形容句は、より能動的に「あたかも自国が直接攻撃されたのと同等とみなして」と書くべきであって、受動的な「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」ではないのです。

 このように「自己同一認識」の下に「自衛のため」を理解すれば、「自衛」の「自」は「自国と密接な関係にある外国」とも「一体化」した発展的に拡大した主体としての自国と同じものとみなすべきなのです。同じように、国連の安保理の決議に基づく武力の行使を伴う制裁措置や平和維持活動に関しても、「一体化」すべき対象が「国際の平和及び安全の維持」に関する主要な責任を持つ安保理の決議に基づく行動であり、自国が直接的な当事者である「国際紛争を解決」するために「武力」を行使するのではないことは明白です。この様に「武力の行使」の「一体化」の対象が合法であり、その合法適切な活動を遂行する主体との「一体化」は、国際主義を主唱する日本にとって当然のことだと考えます。なのに、どうして積極的に捉えるべき「一体化」を、内閣法制局の「一体化」論は武力行使を伴う活動だけでなく、その活動を遂行する主体との「一体化」までも違憲だと大なぎなたを振り下ろすのでしょうか。

 簡単にいえば、内閣法制局の解釈は、憲法第9条では、「武力行使」の目的として「自衛のための」つまり個別的自衛権を超えるものは許されていないという硬直した論理が導く「一体化」論なのです。これも「非武装平和主義」の呪縛から解放されずに、アプリオリな「自衛力限定論」と同じ線上にある「一体化」論なのです。安保理の決議に基づく制裁措置に関しても、これは「国際紛争を解決する手段であるということには変わりはない」などと平然といえるものは、組織の先例や解釈の一貫性を国益よりも大事にするという自己保全の論理です。カントがそんな論理を『啓蒙とは何か』で「理性の私的使用」だと戒めています。そういう人こそ、カントの「自分自身の悟性を使用する勇気を持て!」と叱咤激励したことを想起すべきでしょう。###