内閣法制局の「集団的自衛権」の解釈とその「無謬性」の神話

 

内閣法制局の「集団的自衛権」の解釈とその「無謬性」の神話

 

鈴木英輔 

日本の安全保障の政策方針と内容に対して決定的な影響力を行使するアクター(行動主体)は、対外的には米国であり、「安保条約を軸とした戦後の日米関係を根幹で規定してきた」ものは、日本側が「基本的に“情緒的”なレベルで対米関係に臨んでいるのに対し」、米国側は「常にリアルなパワーポリティクスで対応している」という“不均衡”によるものです豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』岩波新書。国内的には、驚くなかれ、「日本の憲法の権威、解釈の一貫性を支える」と自負する内閣法制局であり大森政輔・元内閣法制局長官、その組織内に流れる先例と論理の一貫性と、その一貫性を担保するために連綿と踏襲される人事慣行が創りだす「当然の法理」に政府内外の政策立案当事者が押し黙ってしまうからです。「当然の法理」とは「内閣法制局が生み出した一種の“隠れ蓑”“逃げの論理”」なのです。それでも、「国会論議の中でこれが持ち出されると、政府を追求する側も二の句が継げず、押し黙ってしまうのが実態である」といわれています(中村明『戦後政治に揺れた憲法九条内閣法制局の自信と強さ』西海出版)。特に日本の安全保障の枠組みの法的な根拠となる憲法第9条に対する解釈は内閣法制局の独擅場になっています。

集団的自衛権の行使が国際司法裁判所の事件の争点となった最初の事件である1986年の「ニカラグアに対する軍事的活動事件」の判決で示された判断は、国連憲章51条の「武力攻撃が発生した場合には、すべての国家が保持する固有な権利は集団的と個別的自衛双方に及ぶ」ことから「集団的自衛権の存在を憲章自体が慣習国際法にあると認めている」ことです。その判決はグローバル・スタンダードとして日本以外の国際社会では受容されています。このことは日本の多くの学者の否定的、批判的な見解とには、大きな認識の隔たりが存在しています。そこに、日本だけで「集団的自衛権」がこれほど異様な「問題」となる理由があります。その一つの大きな原因は、国連憲章51条の草案作成・交渉のプロセスの中で出された主張・発言は一つの過程の中の出来事であって、他のさまざまな条約と同じように条約作成中の発言や提案は最終的に合意された成果とは異なることが多々ありますので、必ずしも最終合意時点において共有されている期待とは同一ではないということを認識しないからです。まして、条約成立後の慣行によってでもその期待もさらに時の通過と共に修正されていくことも事実です。肝心なのは現在の共有されている期待なのです。憲章第51条の集団的自衛権に関する共有されている期待を国際司法裁判所は「ニカラグア事件」で判断をだしたのです。このような混乱した日本の集団的自衛権の概念の形成にどれほど内閣法制局独善的な解釈が貢献しているのか計り知れないものがあります。

本稿の目的は、国連憲章下で国際の平和及び安全を維持または回復するための国連PKO活動への参加や国連憲章下の集団的安全保障の維持に対して補完的な役割を果たす加盟国の固有な集団的自衛権や国連PKOへの参加に対する内閣法制局の解釈がいかに理不尽で限定的なものであるかを明らかにし、その「無謬性」の神話を暴くことにあります。 

                                                                     I. 

日本国憲法9条には、「自衛権」への言及はどこにもないどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、「自衛権」という言葉は存在しないのです。したがって、「非武装・平和主義」に陶酔していた新憲法採択時において、吉田茂首相をも含む多くの人が、日本は「自衛権」も放棄したと考えていたということがあったのです。現在でも「日本国憲法は国家自衛権を否定し、平和的生存権と国家主権を認めている」と主張する人もいるのです(浦田一郎『自衛力論の論理と歴史―憲法解釈と憲法改正のあいだ』日本評論社。憲法公布の時点ですら、その主体である日本国は敗戦国として連合国の占領下に置かれており、日本国政府のすべての権威・権限は連合国最高司令官の権威・権限に従属していたのですから、あえて政府の首相が連合国最高司令官の意向に反するような意見を述べることは考えられなかったのでしょう。日本側から積極的な意味で「自衛権」なる言葉が発せられたのは、マッカーサー連合国最高司令官が1950年元旦に出した「年頭声明」の中で、日本国憲法自衛権を否定したものではない、と表明した時点からです。 

 この変化は、対日講和条約の作成過程におけるマッカーサー元帥と米国政府内での国務省と軍部との間に生じた対日政策に対する見解の相違がもたらしたものであったのです。ますます米ソの冷戦の激化が進み始め、それまでの対日占領政策(非武装化・弱体化)に全面的な修正をなさざるを得なくなったのです。その結果として具体的に明示されたのが、独立を回復した主権国家として日本国が保持する国際法上の「自衛権」の認定でありました。第二次世界大戦後の世界秩序を構築した基本法である国連憲章に基づく慣習国際法を踏まえた権利です。19519月に署名されたサン・フランシスコ講和条約第5(c)項は以下のように国際法上の自衛権を規定しました。 

   連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極めを自発的に締結することができることを承認する。 

ここで大事なことは、戦争放棄条項と言われる憲法第9条第1項は1928年のパリ不戦条約と同じように国際法上の「自衛権」を日本が主権国家として保持することを講和条約の締結によって確認したことです。国連憲章の成立以前では、主権国家の権利として自力による救済の手段に訴えることが当然であると考えられてました。その自助の手段というのは武力による威嚇から報復・復仇と自衛戦争に至るまでの様々な強制手段であったのです。それが国連憲章2条第4項によって「戦争に至らざる手段」としての武力による強制手段も禁止されたのです。そこには、すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」という「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じる一般規範が国連創設とともに成立したのです。ただし、国連憲章51条は、その例外として、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を以下のように残したのです。 

  この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。   

 この憲章第51条に組み入れられた「自衛権」は慣習法として確立していた主権国家の権利をそのまま導入し、並存させたものです。 そして、その適正な自衛権行使の条件は「必要性」と「均衡性」原則を満たすことにより憲章第2条第4項で本来禁止されている「武力の行使」を執ったとしても、その違法性が阻却されるわけです。それと同じ論理が憲法第9条の解釈にも適用されているわけです。1951年に、大橋武夫法務総裁は「わが憲法第九條は、正義と秩序を基調とする国際平和を念願として、戦争並びに武力による威嚇または武力の行使を放棄いたしまするとともに、陸海空軍その他の戦力の保持と国の交戦権とを否認いたしております。しかしながらこれをもつて国際法上国家の保有する自衛権を否定しておるものではない」と言明し、憲法第9条は自衛権の発動を否定していないと結論づけていました。国内社会では法制度が整備されており、国内法に基づき係争関係を裁く第三者の裁判所とその判決を執行する警察という強制力を備えた公権力組織が存在することによって国内公秩序を維持しています。それでも、その国内法ですら刑法第36条(正当防衛)では以下のように自力救済を容認しているのです。 

1.  急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした   行為は、罰しない。 

2.  防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。  

そして第37条(緊急避難)でも、同じように以下の自力救済規定を設けているのです。 

1.  自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。 

2.  前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。  

 従って、法整備が確立している国内法公秩序の中にでも「正当防衛」と「緊急避難」の手段が備えられていることを考えれば、ましてや国際社会には、「世界統一政府」などという中央集権的統治機構も、国際法違反国に対して第三者的な客観的判断を下す公権力と強制力を備えた超国家的国際組織も存在していないのです。そのような社会での国と国との関係は古代から人の行動を規律してきた自助と相互依存の原則とそれを補完する互恵と威嚇・報復の原則によって維持されていくのです。今起きている尖閣諸島をめぐる日中間の対応の仕方をみれば良く分かるはずです。かつて京都大学の田岡良一教授が、国連創設以降、「武力による威嚇又は武力の行使」が禁止され国際紛争は平和的手段以外に解決を求めないことになったために、所謂「戦時国際法」は無用であるなどという国際法学者の思考方法を戒めて、「国際社会の紛争解決手段の現在の状態をありのままに」吟味し、この状態では「強制的手段を国際社会から駆逐し得たとは言えないことを、明からさまに説く」必要性を指摘した見識を(田岡良一『改訂 国際法』勁草書房、今こそもう一度想起すべきでしょう。村瀬信也が言うように、「自衛権それ自体は平時の制度であり、国連憲章では戦争概念が止揚され、平時に一元化されたとも言われるが、自衛権行使が武力衝突を前提としている以上、武力紛争法の適用は不可避となる」のです(自衛権の現代的展開』東信堂)。従って、現在の国際社会でその国際公秩序を維持していく上で、国連PKOへの参加と自衛権の行使」をある一定の条件の下で許すことは必要なことなのです。これが「違法性阻却事由」を満たした行為として罰されない訳なのです。

 

II. 

 国連憲章2条第4項は一方で、すべての加盟国に対して、その国際関係において「武力による威嚇又は武力の行使」をいかなる国の領土保全又は政治的独立に対するもの」と「国際連合の目的と両立しないいかなる方法によるもの」に対して執るのを禁じる事によって国際公秩序を維持するようになってます。他方で、憲章第7章(平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動)は、その39条の下で安全保障理事会が「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第四十一条及び第四十二条に従つていかなる措置をとるかを決定する」と定めて、国連のみが違反国に対する対応措置を軍事的強制行動を伴う制裁措置をとる主体と成ることによって国際秩序の維持・回復を図るという仕組みを創設したのす。これが一般的に国連憲章の下での「集団的安全保障」と呼ばれるものです。

  憲章第51条の「自衛権」の行使も憲章7章の中に組み入れられているわけですから、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という時間的規制が自衛権の執行期間に課せられているのです。自衛権を行使する加盟国は、その自衛権行使の許容期間中は加盟国として集団的安全保障の一翼を担うことにもなっているわけです。それと同時に、「この自衛権の行使に当つて加盟国がとつた措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない」と自衛権を行使した当事国に対して報告義務を課しています。この二つの拘束は自衛権の行使に関する「必要性と均衡性」原則という慣習国際法の条件とは別に新たに憲章の中に加えられたものです。自衛行動は事前に安保理の認可を求める必要のないことは明らかですが、集団的自衛権の発動には、さらに、他国から武力攻撃をうけた「被害国が攻撃を受けたことを自ら宣言する」こと、と「その武力攻撃の被害国からの要請」が必要なのです(ニカラグア事件)。国際司法裁判所は、「自らを攻撃の被害国と見なす国からの要請なしに」第三国が集団的自衛権の行使が許されるという国際慣習法の規定は存在しないと言明したのです。これらの条件を満たすことが憲章第51条では求められているのです。 

 自衛権の行使は、それが「個別的」なものであろうとも、「集団的」なものであろうとも、国連憲章下の「集団的安全保障」を加盟国自身が補完する役割を果たす意味がります。同じような「補完性」を持って「集団的安全保障」の一翼を担っているのが憲章第52条に規定されている「地域的取極又は地域的機関」です。その「補完性」は、憲章第52条第2項で、地域的取極又は地域的機関の当事国である国連加盟国は、「地方的紛争を安全保障理事会に付託する前に、この地域的取極又は地域的機関によつてこの紛争を平和的に解決するようにあらゆる努力をしなければならない」と義務付けられていることからも明らかです。 

 加盟国の自衛行動以外に「武力による威嚇又は武力の行使」が許されているのは憲章第42条の下での安保理の決定による「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動」を伴う軍事的強制・制裁措置です。これは憲章第41条での安保理の「兵力の使用を伴わない・・・経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含む」措置では「不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるとき」に安保理が軍事的強制措置を執ることを決定することによるものです。安保理の決議は「大国の一致」原則により、すべての常任理事国の同意により採択されるものであり、単なる「思いつきの国連決議に基づく」(中村、前掲)軍事的強制措置などということではありえないのです。「大国の一致」を要求することは大国の利害が競合している時に、それは結局、民主的プロセスを確保するために必要な地域的多様性を維持することに繋がるわけです。憲章第42条の下で安保理の決議によって執られる武力の行使を伴う軍事行動・軍事制裁措置は、国連憲章下の集団安全保障を担保するものなのです。憲章第2条第4項で禁止されている「武力による威嚇又は武力の行使」に対して、憲章第24条で「国際の平和及び安全の維持に関する第一義的な責任」を担っている安保理が決定する対応措置であるだけではなく、すべての加盟国は安保理がその「責任に基づく義務を果すに当つて加盟国に代つて行動することに同意」していおり、さらに、すべての加盟国が憲章第25条で「安全保障理事会の決定をこの憲章に従つて受諾し且つ履行することに同意」しているのです。 

 以上のような基本的な国際法上の枠組みがあるときに、「自衛権の行使」が憲法第9条第1項の規範の中でどのように扱われているのか、もう一度吟味して見る必要があると考えます。憲法第9条第1項は、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は「国際紛争を解決する手段として」は、これを放棄する、と規定されています。換言すれば、「戦争」も「武力による威嚇又は武力の行使」も、いづれも主権の行使という意味での「国権の発動」によるものであす。そして、いずれも「国際紛争を解決する手段」であることは否定できないのです。にも拘らず、自衛権の発動を認めるということは、違法性を阻却する事由を満たしていると見なされるからです。その判断こそ、自衛権の行使の合法性は国際法に基づいて解決されるべきものだからです。

 既に述たように、現在の世界公秩序を構築している法規範は国連憲章であり、「国際の平和及び安全の維持に関する第一義的な責任」は安保理が負っているのです。その直接的当事者である安保理が、憲章第42条に基づき「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要」な「武力による威嚇又は武力の行使」を含む軍事的強制措置をとる決定を行うことは、憲章下での「集団的安全保障」を維持するための責任であると共に、国連加盟国が憲章第24条と第25条に従い安保理の決議を受諾し且つ履行することが加盟国の義務でもあることは明白です。安保理の決議による国連としての強制活動であることが「武力による威嚇又は武力の行使」という憲章第2条第4項に規定されている違法性を阻却するのです。19968月の衆議院予算委員会の質疑で、大森内閣法制局長官は国際法と憲法との関係について「確立された国際法規ということになりますと、これは国際社会の基本的な法則ともいうべきものであろうと思いまして、このような法則を前提として各国家が存在している、我が国憲法もその秩序の中に受け入れているということからいたしますと、これらの確立された国際法規と憲法との間でそもそも抵触というものは生じないはずであるというふうには解しております」とその見解を述べているので。  

 以上のような条理を目的論に基づき解釈をすれば、国際法上の自衛権に基づく「武力による威嚇又は武力の行使」が違法性阻却事由を満たすことで容認されていることは明らかです。従って、同じ国際法によって創られた集団的安全保障を維持するために必要とされる憲章第42条に基づく「武力による威嚇又は武力の行使」は、自衛権の行使の場合と同じように、違法性を阻却する事由を満たすものとして、憲法第9条の下でも許されているはずです。それなのに、内閣法制局の解釈は自衛権に関しては国際法を引き出し、国連憲章下の集団的安全保障の維持に関しては、その源泉である国際法を無視して国内法である憲法第9条だけに限定した奇妙な文理解釈に満足しているのです。19962月の衆議院予算委員会第一分会での質疑で前原誠司議員の国連憲章と憲法との関係に関する質問に、当時の秋山收内閣法制局第一部長の以下のように答弁は、国際法を都合の良い時には適用し、都合の悪い時にはそれを無視するという、ちぐはぐな文理解釈の典型であると思います。少し長いですが答弁の全文をここに引用します。 

   ただいまお尋ねの集団的安全保障と申しますのは、国際法上、武力の行使を一般的に禁止する一方、紛争を平和的に解決すべきことを定め、これに反して平和に対する脅威あるいは平和の破壊または侵略行為が発生した場合に、国際社会が一致協力して、このような行為を行った者に対して適切な措置をとることによって平和を回復しようという概念でありまして、国連憲章にそのためのいろいろな規定が置いてあるわけでございます。
 ところで、我が国の憲法には、集団的安全保障に参加すべき旨の規定は直接明示されていないところでございますが、ただ、憲法前文に、憲法の基本原則の一つである平和主義、国際協調主義の理念がうたわれておりまして、このような平和主義、国際協調主義の理念は、国際紛争を平和的手段により解決することを基本とする国連憲章と相通ずるものがあると考えております。
 我が国は憲法の平和主義、国際協調主義の理念を踏まえまして国連に加盟し、国連憲章には集団的安全保障の骨組みが定められていることは御承知のとおりでございます。したがいまして、我が国としては、最高法規であります憲法に反しない範囲内で、憲法九十八条二項に従いまして国連憲章上の責務を果たしていくことになりますけれども、もとより、集団的安全保障にかかわる措置のうち、憲法九条によって禁じられております武力の行使または武力による威嚇に当たる行為につきましては、我が国としてはこれを行うことを許されないことは当然のことであろうと考えております。
 

この表面的な文理解釈はおかしいと思います。この論理はあたかも国連憲章には集団的安全保障のための「いろいろな規定が置いてある」が「我が国の憲法には、集団的安全保障に参加すべき旨の規定は直接明示されていない」というおかしな言い訳を言っています。そこには、国際法上の自衛権も、その行使に関する規定も、「我が国の憲法には」何も明示されていなくても「憲法九条によって禁じられております武力の行使または武力による威嚇に当たる行為」である自衛権の行使は当然許容されているということには沈黙しているのです。内閣法制局にとって都合が悪いのです。従って、国連加盟国としての「国連憲章上の責務」は、「最高法規であります憲法に反しない範囲内で」果たして行くことになるという表面的な文理解釈だけにとどまり、「もとより、集団的安全保障にかかわる措置のうち、憲法九条によって禁じられております武力の行使または武力による威嚇に当たる行為につきましては、我が国としてはこれを行うことを許されないことは当然のこと」であると断定するのです。これが冒頭に挙げた「当然の法理」です。同じような表面的な文理解釈が「集団的自衛権の行使」の問題をいまだに支配していることが自体がおかしいのです。これこそ「無意味な神学論争」(村瀬、前掲)ではないでしょうか。 

III. 

政府の統一見解によると、「集団的自衛権」の定義は「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利を有するとされている」と規定されています。この定義では、主権国家として日本も集団的自衛権を保持しているように見せかけていますが、実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法は集団的自衛権の存在を認めていないのです。今までの集団的自衛権の論議は、攻撃の対象が「自国」であるか「外国」であるかによって決定されるという二元論に立脚するものです。つまり、「自衛権」というものは「自国」を防衛するものであって、「外国」の防衛にはせ参じるということは、憲法第9条第1項で許されている「自衛のため」に合わないので「集団的自衛権」は行使できないという論理なのです。ここに政府統一見解の最初の欺瞞があります。「行使できない」というと、集団的自衛権を保持しているが、自らの意思でその権利を使わないことを決定したという響きがあります。実際に、政府はそのような説明をしてきたのです。しかし、現実には政府の統一解釈には「集団的自衛」という概念が存在しないのです。政府の二元論では、守るべき自分自身の「主体」が外国をも含め複合的に又は集合的に、より大きな「主体」に発展的に拡大する可能性すら否定しているからです。つまり、内閣法制局の表面的な文理解釈では、極めて理不尽な限定的な定義を与えることによって、集団的自衛権の行使を全く出来ないようにしたのです。1981年の衆議院法務委員会での質疑で、内閣法制局長官角田禮次郎は「集団的自衛権につきましては、全然行使できないわけでございますから、ゼロでございます。ですから、持っていると言っても、それは結局国際法上独立の主権国家であるという意味しかないわけでございます。したがって、個別的自衛権と集団的自衛権との比較において、集団的自衛権は一切行使できないという意味においては、持っていようが持っていまいが同じだ」と端的言明していたのです。 

この驚くべき「二元論」は国連のPKOに参加する自衛官にも押し付けられているのです。19731025日に安保理によって採択された第2国連緊急軍UNEF)創設に関する決議340号の実施に対するガイドラインには、その第4節第(d)項に、武器の使用について以下のように規定されていました。  

    

 

       UNEFには防衛用にのみ武器が供与される。武器は自衛以外に使用してはならない。自衛には、安全保障理事会に委任されたUNEFの任務遂行を阻止する目的で、武力を用いてなされる企てに抵抗することも含まれる。UNEFは紛争当事国安全保障理事会の決定に服するために必要な、すべての措置をとるものという仮定の基に任務を進める。

 

このガイドラインに規定された原則に鑑み、日本のPKO協力法案の審議の際に当時の内閣審議官野村一成は、PKO活動の任務に就いている外国人への攻撃に対しての日本の対応について、「この法案におきましては、第二十四条で法令行為ないし業務上の正当行為としての武器の使用について規定しているのでございまして、その場合に、外国人の生命等は防衛の対象に含まれていないということをはっきりと申し上げさせていただきたいと思います」と意気揚々に日本の自衛官は、PKO活動の隊員として同僚の隊員がその任務遂行中に攻撃を受けた場合、外国人の隊員であれば無視することになっていると断言したのです。これが日本のPKO隊員に所謂「駆け込み警護」を否定することに繋がっているのです。さらに、1992年の参議院国際平和協力等に関する特別委員会での質疑で、丹波實国連局長は、日本の国連PKO活動に参加する自衛隊員には、自衛のための武器使用に関して外国人排除原則が存在していることには沈黙して、平気で「日本としてはPKOに参加するに際して過去のPKOの経験を通じて確立した通常の慣行に反するような形で行動することは意図していない」と豪語していたのです。 

政府の「集団的自衛権」の定義が混乱しているのは、この「自国対外国」の二元論では「個」が「全体」の「一部」であり「一部」の利益が「全体」の利益を構成しており、その逆も同じであるということが認識されていないからです。まず、政府が「集団的自衛権」をどのように理解しているのか、『防衛白書・平成25年版』にある以下のような「集団的自衛権」に対する政府の基本的な考えをもう一度見てみましょう。 

 

国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有するとされている。わが国は、主権国家である以上、国際法上、当然に集団的自衛権を有しているが、これを行使して、わが国が直接攻撃されていないにもかかわらず他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することは、憲法第9条のもとで許容される実力の行使の範囲を超えるものであり、許されないと考えている。

 

この政府見解は基本的には2003年度の『国防白書』から定式化されたものです。「集団的自衛権の行使」の是非に関するもろもろの論議が混乱するのはこの定義に問題があるからです。「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という形容句が「自国」と「外国」に峻別することによって「集団的自衛権」の本質を見逃すことになるからです。  

200198日サン・フランシスコ講和条約締結50週記念式典が催されたとき、宮沢喜一元首相が「平和と繁栄をもたらした50年間の同盟関係」と題した講演の中で「日米同盟をより効果的なものにするために、・・・日本が自衛権の論理的延長として集団自衛権を位置づける」ことを提案したのは、まさに「個」 の拡大のことなのです。内閣法制局による憲法第9条の解釈には、日本以外の諸外国とともに共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際協調主義に不可欠な基本的な認識が欠けていることです。その結末が国連の武力行使を伴う制裁措置やPKOへの参加と集団的自衛権の憲法上での否認なのです。この基本的な認識の欠如により導かれたものが、驚くこと無かれ、独善的な「一体化」否定論なのです。まして、憲法前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と戒め、この「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と断言しているのにも拘らずにです。その意味を佐々木惣一は、「自国のことのみに専念して他国のことを無視する、という態度を取るべきではなくて、政治道徳の法則を普遍的なものとして守るべきであること、そして、この普遍の法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とう、と欲する、すべての国家の責務である」と述べています(佐々木惣一『改訂日本国憲法論』、有斐閣。よって、内閣法制局の「一体化」を否定する論理は憲法が歌う「国際協調主義」を根本から否定するものなのです。 

 集団的自衛権の基本的な概念は、「自己同一認識」、セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)、という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することにあります。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的にまたは集合的に、新たな、より大きな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される「共同体」なのです。それが「自己」の展開的拡大といわれるものです。『集団的自衛権』を上梓した佐瀬昌盛はこれを「集団的自己」と正確に位置づけています。イマヌエル・カント200年以上も前に「地球上の諸民族の間にいったんあまねく行きわたった(広狭さまざまな)共同体は、地上の一つの場所で生じた法の侵害がすべての場所で感じとられるまでに発展を遂げたのである」と言明していたのです(エマヌエル・カント『永遠平和のために』岩波文庫。現在の極度に密接化した世界的な相互依存と瞬時に世の中の出来事のインパクトが身にしみるというグローバル化の世界では、益々「集団的自己」に対する認識が深まるのは至極自然なことなのです。「地球はひとつ」という「プラネット・アース (Planet Earth)」が宇宙から日本以外の国が攻撃されたとき、日本は「自国が直接攻撃されていない」ので地球防衛のためでも自国に留まって何もしないでいるのだろうか。まさに、集団的自衛権の基になるものは、他者への「一体化」を通して「自己」を展開的に拡大して、集合的自己として拡大された主体を形成するものなのです。政府の統一見解は、必須条件であるその「一体化」を否定するものなのです。20041月に秋山収内閣法制局長官は、「自国」と「外国」とを峻別した法制局独自の「集団的自衛権」の概念を以下のように端的に言明しています。 

お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。 

  現在論じられている「集団的自衛権」の論理は根本的にその基本概念が間違っているのです。「自己同一認識」の展開的拡大は別に新しい概念ではなく、上述したように、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、急迫不正の侵害に対して、「他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由としているし、第37条でも、緊急避難の対象として「他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、他人と共に危機感を共有して「一体化」するからこそ、惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をする行為を対象にしているわけなのです。したがって、『防衛白書』で記述すべき形容句は、より積極的に「あたかも自国が直接攻撃されたのと同等とみなして」と書くべきであって、否定的な「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」ではないはずです。残念ながら内閣法制局の「自己同一認識」の「自己」に対する理解が、日本の刑法ですら採っていない旧態依然とした理解に基づくものです。その理解は「自己」を一人の個人又は一つの国家のみに限定したハンス・ケルゼンの論旨を後生大事に引きずっているからです。  

 

IV. 

 1960331日参議院予算委員会で林修三内閣法制局長官は秋山長造議員の質疑に対して以下のように答弁していた。 

自国と密接な、たとえば歴史的あるいは民族的あるいは地理的に密接な関係のある他国が武力攻撃を受けた場合に、それを自国が武力攻撃を受けたと同様に考えて、その他国に出かけて他国を守る、そういう意味のものがまあ五十一条で集団的自衛権の行使として国連憲章違反でない、かように考えられておるわけでございます。こういう意味が集団的自衛権としては実はあるいは典型的な表現かもかわりませんが、こういうのは日本の憲法のいわゆる自衛権が認められているという範囲には実は入らないのじゃないか、こういう考え方が実は私どもの考え方であります。 

この発言には、現在の政府統一見解で示す「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という表現よりも、より「集団的自己」への認識があるようにも見えますが、結局は、その「集団的自己」を形成する「自己同一認識」の拡大を否定しているのです。これが集団的自衛権の行使をを否定する核心問題なのです。そこに内閣法制局の解釈の最大の矛盾が存在しているのです。 

 日本が集団的自衛権を「保持している」ということは、自己同一認識を拡大した「集団的自己」を認識し持つことに他ならないのです。そしてその拡大された自己を防衛する権利こそが集団的自衛権なのです。その集団的自衛権を保持しているのですから、防衛すべき対象は「集団的自己」なのです。すでに個別的自衛権の行使は違法性阻却事由を満たすことにより容認されており、「武力の行使」は違法ではないわけです。内閣法制局の解釈は、憲章第51条で「いわゆる違法性阻却という理由で書いてあります部面」、つまり「一国が、自国と歴史的あるいは地理的あるいは民族的に密接な関係のある他国が武力行便された場合に、それを武力をもって援助することもまた国際法的には認められる、国連憲章上違法な戦争ではない」という部面を問題にしてきたのです。林修三は「こういう部面にまで、日本において自衛隊が、たとえば日本が他国に行って武力を行使するという意味の集団的自衛権の行使は、これはできない」という。これでは元の木阿弥です。集団的自衛権を認めるということは一つの自己を越えて「自国と歴史的あるいは地理的あるいは民族的に密接な関係のある他国」との自己同一認識を確立して「集団的自己」という「主体」となることが国際慣習法で認められているわけですから、その事実を受容することなのです。日本もその「集団的自己」を護る集団的自衛権を認めていることが基本なのです。内閣法制局の論理はその国際慣習法で認められている基本概念を否定するものです。   

国際慣習法で認められ、国連憲章51条に組み入れられている「集団的自衛権」を日本は保持していることは確認されています。 その基本概念である「自己同一認識」の下で「自衛のため」を理解すれば、「自衛」の「自」は「自国と密接な関係にある外国」とも「一体化」した発展的に拡大した主体である「集団的自己」としての自国と同じものとみなすべきものなのです。同じように、国連の安保理の決議に基づく武力の行使を伴う制裁措置や平和維持活動に関しても、「一体化」すべき対象が「国際の平和及び安全の維持」に対して第一義的な責任を持つ安保理の決議に基づく行動であり、自国が直接的な当事者である「国際紛争を解決」するために「武力」を行使するのではないことは明白です。この様に「武力の行使」の「一体化」の対象が合法であり、その合法適切な活動を遂行する主体との「一体化」は、国際協調主義を主唱する日本にとって、まさに「当然の法理」を適用すべきなのです。それなのに、どうして積極的に捉えるべき「一体化」を、内閣法制局の「一体化」否定論は武力行使を伴う活動だけでなく、その活動を遂行する主体との「一体化」までも違憲だと大なぎなたを振り下ろすのでしょうか。 

 簡単にいえば、内閣法制局の解釈は、憲法第9条では、「武力行使」の目的として「自衛のための」つまり、単に自分の国だけの防衛を超えるものは許されていないという、表面的な硬直した論理が導く「一体化」否定論なのです。これも「非武装平和主義」の呪縛から解放されずに、アプリオリな「自衛力限定論」と同じ線上にある「一体化」否定論なのです。安保理の決議に基づく集団的安全保障の維持に必要なPKO活動や制裁措置に関しても、秋山収内閣法制局第一部長は、19985月に衆議院安全保障委員会で以下のように平然と答弁していました。 

我が国の憲法第九条は、国際紛争を解決する手段としての戦争あるいは武力による威嚇、武力の行使を我が国の行為として行うことを禁じているものでございます。それで、国連の決議に従って我が国が武力の行使を行うという場合でありましても、我が国の行為であることには変わりがございませんので、このような行為は憲法九条において禁じられるというふうに考えているわけでございます。
 それから、集団的安全保障措置に関しましても、これは国際紛争を解決する手段であるということには変わりないのでございますから、このような措置のうち、武力の行使等に当たる行為につきましては、我が国としてこれを行うことが許されないというふうに考えているわけでございます。 

このような論理は組織の先例や解釈の一貫性を国益よりも大事にするという自己保全の論理である以外の何物でもない。カントがそんな論理を『啓蒙とは何か』で「理性の私的使用」だと戒めています。そういう人こそ、カントの「自分自身の悟性を使用する勇気を持て!」と叱咤激励したことを想起すべきでしょう。 

 『戦後政治にゆれた憲法九条内閣法制局の自信と強さ』を上梓した中村明によると、内閣法制局幹部は、憲法第9条第1項によって禁じられた武力の行使は許されないが、「九条一項が禁止していない武力行使があるとすれば、そのようなものは許される、との解釈の余地は残っている」という話を記しています。既に過去67年の間に「非武装平和主義」を裏付ける「武力なき自衛権」という憲法解釈から「戦力に至らぬ範囲内の自衛力」を経て、現在の「自衛のための必要最小限の実力」に至るまで、内閣法制局の解釈の変遷を吟味すれば、現在の内閣法制局の解釈もこの小論と同じような「自己同一認識」の展開的拡大としての「集団的自己」という解釈に移り変わることが出来るはずです。 憲法第9条の解釈に限らず、かつてそのような真逆な解釈を創りだし、先例を覆すこともあったのです。端的な例は「自衛官は文民」という解釈が180度転換して「自衛官は文民にあらず」という解釈に変更されたのです。  

 今、内閣法制局に求められるのは、組織の「しきたり」、「伝統」、「先例」、「上司の意向・指示」などに縛られずに、国の利益を憲法の前文にある如く「自国のことのみに専念して他国を無視」することなく、日本の安全保障をグローバル化した国際社会の重要な一員として考える「理性の公的使用」を実践することであると思います。まして、佐瀬昌盛の分析にあるように内閣法制局の現行の解釈が、すでに日本が締結した条約で、日本が主権国家として国際法上の集団的自衛権を保有していることを確認しているために、その事実をそのまま受け入れ、また同時に理不尽な限定的な定義を当時の政治状況に合わせて設定することにより、その行使を否定した、という「後だしジャンケン」(佐瀬、前掲であったのです。豊下楢彦が言うようにベトナム戦争の泥沼化に加えて、集団的自衛権がきわめてダーティなイメージを国民世論に与えている情況において、政府としても第九条を前面に掲げて集団自衛権の行使を明確に否定する必要があった」からなのです(豊下、前掲)。よって、現行の解釈を「自衛官は文民」という解釈と同じように覆すことは難しくないはずです。「集団的自己」として他者に一体化することは刑法でも、国際法でも容認されていることであり、論理的になんら不自然な解釈ではないのです。まして、現政権の圧倒的支持があるのです。そのためにも、中村明がいうような「内閣法制局は無謬性を前提に成立する」などという馬鹿げた誇りはさっさと捨て去るべきだと考えます。###