映画「羅生門」と小説「羅生門」の教訓:選択と何のための選択か

 

映画「羅生門」と小説「羅生門」の教訓:

選択と何のための選択か

                    鈴木英輔

I

 だれでも、一人の人間として、自分が属する地域社会で生活を営み、毎日、仕事をしていく職場なりオフィスに行き、みずからの意思で自分の行動を起こすときには常に選択が伴います。人は誰でも、息をしてその身体に温かい赤い血が通っている限り、「選択」は誰もが行なわなければ為らないものなのです。生きている限り、誰もこれを避けることは出来ないのです。食堂に行って、昼食のメニューの中から何を選ぶかという小さいことから、高校、大学への進学、就職、など人生の成長過程の節ある選択を経て、さらに生涯の生活に長期的影響を与える住居の選択や、結婚の相手の選択まで、色々あります。その全てが、さまざまな状況の下での本人の持っている才能や人的・物的力を駆使できる度合いなどという個人が持っている制約や強さ、「選択」する本人が置かれている状況(時間、危機・平穏、立地条件など)を踏まえての選択です。その「選択」は、一般的には社会規範というある一定の枠組みの中で行われるものです。つまり、世間を憚っているのです。このように、一つの「選択」というのは、その意思決定をする人の性格、パーソナリティー、欲求、好みなどを反映しますが、と同時に社会規範は心理的事実として内側からの制約になります世間体を気にするのです。

 それでも、誰の人生でも、それは選択の連続なのです。例えば、身近な話をすれば、友人や同僚と一緒にお昼ご飯を食べにレストランに行く場合を考えてください。どれほどの「選択の機会」が存在するのか考えて見ましょう。まず、行動の出発点から見ますと、(1)お昼を社内食堂で済ませるのか、それとも気晴らしに外に出て済ますか、という選択。(2)独りでするか、ほかの人と一緒にするか。(3)週日で仕事中なのか、どれほどの時間的余裕があるのか。(4)どれほどのお金がポケットにあるのか。(5)割り勘にするのか。(6)和食、洋食、それとも中華、韓国にするのか。(7)何処のレストランに行くのか。という最低七項目の「選択機会」が存在します。それぞれの「選択の機会」に、最も基本的な原点は意思決定をする個人の「意思」であり、その裏付けとなる個人の性格、パーソナリティーなのです。そして、その意思を踏まえての行動力です。人によっては「選択」をすることが苦手な人、「選択」が出来ない人、したくない人がいるのです。ウエイトレスが「ご注文はお決まりですか」、と尋ねた時に自分の意思を表明できない人。そして隣に座っている同僚が、さっさと好みの品を注文すると、「私も同じものを」と、自分の意思を表明するという基本的な「選択の機会」を放棄して他人の意思へと便乗する人。残念なことです。自分が食べるものすら自ら決定しない、と言うことは。ですから、まず第一に己を知ることです。ここで忘れてならないことは、「選択をしない」ということも「選択をしない」という選択であることです。どちらの「選択」にしても、その結果は「私個人」が負うのです。

 

II.

自分の性格、好き嫌い、今までの経験や生い立ち、影響を受けた考え、宗教的教えや実践や、それから出てくる個人的な偏見、など自分の行動を起こす基にあるようなものを十分知ることです。そうする事によって、自分が社会の出来事を観察するうえで観察する対象物に対してより客観的な立場で見ることが出来るように努めることが出来ると思います。そういう客観的な立場で物事を観察する方法を確立しないとどのような結果になるかという良い例を一つ挙げましょう。

監督・黒澤明の出世作で、第12ヴェネチア国際映画祭1951年)でグランプリを受賞し、同年24アカデミー賞の名誉賞(外国語映画賞)を受賞し、今や古典となった名作映画、「羅生門」を見るのがいいと思います。一つの事件に関して、目撃者4名がそれぞれ異なった証言をしている話です。原作は芥川龍之介の短編「薮の中」ですが、映画の巻頭の背景を含め、芥川の同じような短編「羅生門」からも素材を取り入れています。これは黒澤明の出世作で、日本映画が世界に登場した傑作です。この作品で世界にクロサワの名が知られるようになった歴史的な名作であって、世界では、英語でも「羅生門のごとく」(à la Rashomon)といえば、事件の証言者がそれぞれまちまちな相反する証言をすることの代名詞になっています。では、映画「羅生門」のあらすじを見てみましょう。シーンは平安時代のとある薮の中。

盗賊、多襄丸(たじょうまる)が昼寝をしていると、若い侍夫婦が通りかかります。馬上にいる美しい妻に目を付けた多襄丸は、夫をだまして森の中に誘い出し、縛り上げたあと、夫の目の前で妻を強姦します。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はもはや無くなっています。物語は、この殺人事件をめぐり、目撃者の木こりと旅法師、捕らえられた盗賊と殺された侍の妻、それに巫女(みこ)により呼び出された死んだ侍の霊の証言により構成されています。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのかわからなくなります。盗賊によると、女が盗賊に手篭めにされた後、どちらか生き残った方に付いていくと言うので夫と対決し、彼を倒したが女は消えていたと言い、妻は妻で、盗賊に身を任せた自分に対する夫の蔑みの目に絶えられず、錯乱して自分を殺してくれと短刀を夫に差し出したが、気が付いたら短刀は夫の胸に突き刺さっていたと告白したのです。そして夫の霊は、妻が盗賊に、彼に付いていく代わりに夫を殺してくれと頼むのを聞いて絶望し、自分で自分の胸に短刀を刺したが、意識が薄れていく中で誰かが胸から短刀を引き抜くのを感じながら、息絶えたと語ったのです。

では、それぞれの証言を映画「羅生門」予告編を基に見てみましょう。 <http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/Rasyoumon.htm>

(1)検非違使による取り調べでの多襄丸の証言

俺が森の中で昼寝をしていると、通りかかった男女があった。その時、たまたま吹いた風で笠の垂れ布がひるがえり女の顔が見えた。瞬間的に俺は女を手に入れることを決めた。後を付けて行き、男を「この先に刀などをたくさん隠してある。安く売り渡したい」と騙し、離れた場所へ連れて行って縛り上げた。そして女をそこへ連れて行った。すると女が短刀を抜き、いきなり切りかかってきた。俺はこんな気性の激しい女は見たことが無い。しかし、力の差は歴然。男の目の前で強姦してやった。・・・

俺が立ち去ろうとしたとき、しばらく泣いていた女が顔を上げた。「どちらか一人死んで!私は生き残った男に連れ添いたい」。俺は男の縄を解き、戦った。男も立派に戦った。そして俺が勝った。しかし、気が付いてみると女の姿はどこにも無かった。

(2)武士の妻、真砂(まさご)の証言

男は私を手篭めにした後立ち去りました。私はしばらく泣いていました。そして、夫を見ると・・・・ 私はその時の夫の目を思い出すと、今でも体中の血が凍るような気がします・・・ その目は、私をさげすんだ冷たい光だったのです。

「やめて!そんな目で私を見るのは・・・」

「私を殺してください!」私は短刀を差し出しました。それでも夫は黙って私を見つめるだけで何もしません。

「やめて!そんな目で私を見るのは・・・」私は恐怖と絶望のあまり気を失いました。・・・・

    気がついた時、夫の胸に刺さった短刀が冷たく光っていたのでございます。私はさまよい、池に身を投げましたが死に切れなかったのです。この愚かな私はいったい、どうすればよろしいのでしょか。

(3)武士、金沢武弘(たけひろ)の証言(死人のため巫女の口を借りて)

男は妻を手篭めにすると、そこに腰をおろし色々妻を慰めだした。

「自分の妻になる気はないか。俺はお前のためならどんなことでもする」。その時、うっとりと顔を上げた妻の顔・・・私はあの時ほど美しい妻の顔を見たことが無い。その時妻は何と返事をしたか。「どこへでも連れて行ってください・・・」

二人は立ち去ろうとした、そのときだ、あぁーこれほど呪われた言葉が一度でも人間の口を出たことがあろうか・・・「あの人を殺してください!」妻が私を指差して言ったのだ。「あの人が生きていては、私はあなたと行く訳にはまいりません。あの人を殺してください!」

男はそれを聞くと妻を突き飛ばし、足で踏みつけた。「おい、この女をどうするつもりだ。殺すか?助けるか?」私はこの言葉で男の罪は許してもいいと思った。

「キャー!」妻は隙を見て逃げた。男が追ったが、やがて見失ったらしく戻ってきた。そして、刀を奪うと立ち去ってしまった。

私は妻の短刀で自分の胸を刺した・・・・静かだ・・・・やがて、そっと誰かが近ずき私の胸から静かに短刀を引き抜いた・・・・

(4)木こりの証言

多襄丸は女の前に手をついて謝っていた。「俺の妻になってくれ!妻になると言ってくれ!」多襄丸はしつこく迫った。やがて、女が言った。

「無理です。女の私に何が言えましょう。」

「そうか、男同士で決めろというのだな。」 多襄丸は武士の縄を解いた。「待て!俺はこんな女のために命を賭けるのはごめんだ。」と武士は妻に言った。「二人の男に恥を見せ、なぜ自害しようとせん!・・・こんな女は欲しけりゃくれてやる!」

多襄丸も急に嫌気が差し、立ち去ろうとした。「待って!」と女。「来るな!」再び女の号泣。「泣くな!」と武士。「まあ、そんなに未練がましくいじめるな。女は所詮このように他愛無いものなのだ。」と多襄丸。

泣いていた女の声がいきなり狂ったような嘲笑に変わった。「ハハハハハッ・・・他愛無いのはお前達だ!・・・夫だったら何故この男を殺さない!賊を殺してこそ男じゃないか!・・・お前も男じゃない!多襄丸と聞いた時、この立場を助けてくれるのは多襄丸しかないと思った。・・・お前達は小利口なだけだ。・・・男の腰の太刀に賭けて女を自分のものにするものなんだ!」

全く面子のつぶれた二人は、刀を抜いた。男たちは口ほどにも無くだらしない。お互いを怯え、剣を交えるやさっと逃げる体たらくである。しかし、多襄丸がやっとの思いで武士を刺した時、女は悲鳴を上げて逃げ去った。多襄丸はもはや、女を追う気は無かった。

 

III.

映画「羅生門」の原本である「藪の中」では、芥川龍之介はこの殺人事件に関係する7人からの証言や白状・懺悔を、木こりの物語、旅法師の物語、検非違使に使える放免(元囚人で検非違使庁で犯罪人の捜査・逮捕・囚禁または流人の護送などにあたったもの)の物語、媼(おうな)(武士の妻、真砂の父親)の物語、多襄丸の白状、清水寺に来れる女(真砂)の懺悔、巫女の口を借りたる死霊(死んだ武士)の物語として淡々と羅列して記述しているだけです。「藪の中」を読んだ後は、誰が真実を語っているのか全く見当がつきません。ただ残るのは、人は、その人の立場、思惑、利害関係、欲、希望などによって自分の都合のよいように話が作られていくという冷酷な真実です。

映画「羅生門」が提起する教訓の一つは、一般に「事実」と言われるもの、実際に起きた出来事などの「目撃者の証言」や「容疑者の自白」又は「告白」などというものがいかに信頼できないものであるかということだと思います。実際に起きていることを目撃する又は観察する人、あるいはその実際の行為をした人は、いかなる人でも、自分という一人の個人の眼で目撃・観察し、あるいは体験したことを自分の頭の中で処理して「記憶の引き出し」の中にしまうのです。「記憶の引き出し」の中に入れる作業の中には、まず最初の段階として、目撃・観察・体験したすべての出来事の中からどの部分を、何を記憶するのかという選択があります。この時点においては、最初から観察する目的で出来事を熟視していたり、あらかじめ計画を立てて実行しているのでない限り、メモを取るわけではないのですから、ほとんど無意識的に衝撃の強いもの、印象の強いものをとっさに無意識のうちに記憶するのが普通でしょう。この時点ですでに目撃者・実行者の感性・知性・感情などにより個人差が歴然と発生します。つまり「記憶の引き出し」に入れた「出来事」は同じではないはずです。 いわゆる目撃者の証言や実行者の自白は第二の段階に起こります。つまり、「記憶の引き出し」に入れてあった情報を引き出す、つまり記憶を思い出す作業です。この第二の段階では、記憶から引き出された情報は目撃者・実行者個人の物理的範囲からまだ離れていません。目撃者が何を見たか、実行者が何をしたか、を想起しながら自分の記憶を確認している段階です。最後に、「記憶の引き出し」に入れてあった情報を取り出して、目撃者・実行者個人が記憶した情報をその物理的個人の外に出すプロセスとしての第三の段階があります。「記憶の引き出し」から取り出す情報はその情報を入れた目撃者・実行者だけが知っているものです。どの情報をどれだけ取り出すかはすべてその目撃者・実行者の裁量です。そこに「選択」が入ってきます。自分の利益に都合の良いように「記憶の引き出し」から取り出す情報あるいは自己保全のために取り出さない情報など、目撃者・実行者個人の性格やパーソナリティー、思惑、期待、心配事、危機感など様々な目撃者・実行者個人が置かれた状況により、第三者への情報の開示は一様ではありません。第三者が「他に何か覚えていませんか」と尋ねても、目撃者・実行者に「これだけです。ほかの事は覚えていません」と言われれば、それで終わりなのです。自分に都合の悪い情報を取り出さない、護るべき人に不利になるような情報を提供しないで置く、などの情報自体の操作があるだけでなく、「発生した出来事」の状況描写に関して目撃者・実行者個人の感性・感情が移入されていきます。ここまでは、実際の出来事を目撃した、あるいは実行した、という生の情報の作成過程です。次のプロセスは作成された情報を世間一般に伝達する過程です。この後半のプロセスには生の情報提供者が情報作成過程で下す判断とは違った情報伝達者の判断が最後に入るのです。

情報を受け取る側、新聞の読者は一般的にニュースの重要性を見出しの大きさによって判断します。テレビ・ニュースの視聴者も同じようにニュースの順番などによってその重要性を認識するのです。つまり、情報が一般市民に伝達されるときには、すでにどの情報が重要であるかという判断は情報伝達者によって決定されているのです。この良い例が、『産経ニュース』の高橋正行氏のコラム、「高橋昌之のとっておき」で201428日付けの「朝日・毎日への反論(5) NHK新会長慰安婦発言が問題なら、テレ朝とTBSのニュースこそ放送法違反」に良く書かれています。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140208/stt14020812000001-n1.htm

「事実」と言われるものが「実際に起きた出来事」が記録され、伝達されたものであるかぎり、その情報伝達のプロセスの中に人の介在は否定できないのです。そうすると、「事実」と言うものは、ある一定の目撃・観察・実行者が「実際の出来事」を目撃・観察あるいは実行したことの結論に過ぎないことが理解できると思います。まさに映画「羅生門」は4人の証言者が各々が目撃・観察・実行したことの結論を述べたということを立証しているのです。

すべての証言に対して疑問を投げつけることで終わっていた原本「藪の中」と違い映画の「羅生門」では、巻頭から芥川龍之介の短編小説「羅生門」の夕暮れの雨の降っているシーンのが映ります。そこには、役所での検非違使(けびいし)による審問の後、羅生門の下で雨宿りをしている木こりと旅法師が映されます。二人は同じく羅生門で雨宿りをしていた下人に事件について語り始めます。木こりの話に下人は、「どうやら今の話が一番本当らしいな」 といい、木こりは「わ、わしは嘘は言わねえ」と言い返すが、下人は「だが、どこをどう信じようって言うんだ!」と逆切れして文句を言うのです。
 その時、羅生門の奥の方から赤子の泣き声が聞こえてきます。行って見ると捨て子がいるでは在りませんか。下人がすかさず赤子の脇に添えてあった着物を盗み取ろうとすると、「何をする!」木こりが下人に掴みかかったのです。
 「へっ、こうでもしなきゃ、生きていけねえ世の中だ。そういうおめえはどうなんだ!検非違使の目は誤魔化せても俺は誤魔化されねえぞ!あの女の短刀はどうしたんだ。てめえが盗まねえで誰が盗むんだ!」と下人は木こりに食って掛かりますが、きこりは無言のままでその場にたたずんでいるだけです。 
「どうやら、図星らしいな」下人は悪態をつき、嘲笑いながら、まだ雨が降りしきる中を立ち去って行ってしまうのです。

 羅生門の下、赤子を抱いた旅法師と木こりが茫然として立ち尽くしています。やがて雨が止んだとき、木こりが旅法師の抱く赤子へ手を差し出します。すると旅法師はとっさに身を引き、「この上、この子から身包み剥ぐつもりか!」と叱責します。 「・・・・うちには子供が六人いる。六人育てるも七人育てるも同じ苦労だ・・・」と、木こりは説くのです。旅法師は赤面しながら「・・・私は・・恥ずかしいことを言ってしまったようだな」と赤子をきこりに手渡すのです。「無理もねえ、今日という今日は、人を信じられねえのも無理はねえ」木こりは赤子を抱き上げます。 旅法師は「お主のおかげで私は人を信じていくことが出来そうだ」と自らに言い聞かせるのでした。

映画「羅生門」は、木こりが赤子を大事そうに抱えて羅生門を後にしていく光景を映し出します。その姿に雨上がりの薄日が差しているところで映画「羅生門」は終わります。

 映画の中の下人は小説の中の下人と同じように、「下人の心には、或る勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と小説にあります。ただし、その勇気は、さっきこの門の上へ上がって、屍骸から、その長い髪の毛を一本ずつ抜いていた老婆を捕らえた時の勇気ではなく、まったく、逆の方向に動こうとする勇気である」といいます。(芥川龍之介、「羅生門」、『羅生門・鼻』、新潮文庫17頁。)

 下人は、老婆のこうしなければ餓死するから仕方がなくてするという話を聞き、餓死するか盗人になるかに、もう迷わなかったのです。下人は、「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」といい、「すばやく、老婆の着物を剥ぎ取った」(同上、1718頁。) というのが小説「羅生門」の話ですが、映画「羅生門」では、赤ん坊の衣服を盗み取って行った下人に茫然としてたたずむ木こりと旅法師の間に、下人とは違った生き方、価値の選択と行動が示されるという話です。木こりは、赤ん坊を引き取って育てるという。旅法師が木こりの行為に一縷(いちる)の希望を見出し、映画は終わるというはなしです。この映画には、木こりの言動を通じて、一人の人間の価値の選択が示唆されています。

 

IV.

映画「羅生門」で示されているもう一つの教訓は、「選択」をとる人の気概と行動を起こすときに何を何のためにするかという価値の選択です。映画「羅生門」の下人の行動の基になった小説「羅生門」の中での老婆の話をもう一度考えて見ましょう。

 「成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くということは、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃ       が、ここにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな,蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚(ほしうお)だと云うて、太刀帯(たてはき)の陣へ売りに往(い)んだわ。疫病(えやみ)にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料(さいりょう)に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、餓死するのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしていた事も悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」(同上、1617頁。)

 老婆の説明するこの状況とその話を聞いた下人が老婆に対してとる行為、「下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎ取った。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒(けたお)した。梯子(はしご)の口までは、僅(わずか)に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた」、(同上、18頁。) という二つの話の間には、「餓死を逃れるため」以外に共通項は存在しません。

 「選択」は意思決定ですから、競合する利害関係から発生する問題へ対処するための選択です。たとえ目的が「餓死を逃れるため」と一つであっても、その目的達成の方法・手段はさまざまです。まして、その行為から発生する結果は同じように様々です。したがって、その行為・行動を律する規範は画一ではありません。 まして、いつの時でも、行動規範は普遍どころか不変ではありません。私たちのよく使う諺・故事でも以下のようにいくつかの例を挙げれば一目瞭然のごとく、全ての故事・諺は相反するものが一組で存在しています。

武士は食わぬど高楊枝   v.  腹が減っては戦にならぬ

君子危うきに近寄らず   v.  義を見てせざるは勇無きなり/虎穴に入らずんば虎児を得ず                

世間の風は冷たい     v.  渡る世間に鬼は無い

 井上忠司はその『「世間体」の構造』のなかで、以下のように述べています。

故事ことわざのたぐいには、「好きこそ物の上手なれ」という反面、「下手の横好き」ともいうように、もともとアンビヴァレント(両義的)な意味あいがこめられているものである。矛盾したいいまわしが対になっているのは、ことわざのつねであろう。「世間」をめぐることわざのたぐいとて、けっして例外ではない。本質から言えば、矛盾し、相反する意味内容を、状況によってたくみにつかいわけるところにこそ、ことわざの生命あり、おもしろさがあるのだ。(井上忠司、『「世間体」の構造―社会心理史への試み』、講談社学術文庫2007年、p.50。) 

 それと同じように、法律にも、法原則は相反する矛盾する原則が対になって存在しています。例えば、「殺人罪」に対する「正当防衛」、「公海の自由」に対する「領海の管轄権」、「国内管轄権」に対する「国際的懸念事項」、「表現の自由」に対する「公共の福祉」など全ての法原則は相反するものが相互補完的な規範として一組になって存在しています。先にあげた相反する故事やことわざも、法律にある相互に矛盾する原則も、偶然にあるものではなく、これら故事や法原則が持つ利害自体が相互に補完的なものなのです。何故かといえば、私たちが住んでいる現代の社会は、地元の地域社会から始まって、国全体としての社会から、国際的な地域社会を経て、さらにグローバルな社会まで全て多様な複合的・重層的な社会を形成しています。それは、ある一つの社会あるいは共同体に様々なグループが多様な機能的な組織を持ち、各々の集団がそれぞれの競合する要求を求め、どういう条件の基で自分の要求が達成できるか色々期待を膨らましているのです。ことわざにしても、法原則にしても、それぞれのグループの要求を正当化するために造られてくるものです。

 

相反する規範のどちらか一方を選択する基準は何なのでしょうか。相互に矛盾した規範であっても、その一つ一つの規範が促進し、守ろうとする価値は同じものなのです。そこに相反する規範が補完性をもつといわれる理由があるのです。従って、どっちの規範を選択すべきかは終局的にどっちの規範が守るべき価値をより有効的に守ることが出来るかにかかっています。つまり行動を起こすことによって求めることです。なにをするのにも、なぜ、何のためにするのかを考えることが大事だと私は考えます。これは政策指向というより政策志向といった方がより正確なのかもしれませんが、何の目的のために特定の行動をとるのかを考えることです。ある人が目標や目的を定めるのには、その人の内から出てくるもの、つまり、これがしたい、あれが欲しい、という欲望・欲求がまずあり、そしてその欲求を満たそうと、獲得しようとする意志があって、初めて行動に移すことができるのです。ですから人を評価するときに、「あの人は欲がないから」とか「もう少し向上心を持て」などと言われるのは、一つの行動を起こす時、ある行為をなす時の基になる身体の中から出てくるような気力です。気力があっても支離滅裂な行為や盲滅法な行動をしていれば、「しっかり目標を持て」とか「ちゃんとやることに眼をすえろ」などと叱咤されるのです。従って、政策志向の考え方というのは、目的を実現するためにどのような行動をとるべきであるのか、その人が持つ力や置かれた環境・境遇や状況を鑑みて現実的に実現可能な最善策を求めていく思考方法です。これを「目的論的解釈」という人もいます。その真逆の立場で考える人は「文理解釈」をする人でしょう。文理解釈とは「ことば」の表面的な一貫性を重んじるという言語論法なのです。それがどれほどの違いを結果として作り出すか簡単な具体的な例を使って考えて見ましょう。

 例えば、日常生活で絶えず直面することです。散歩していて交差点に差しかかりました。横断しようとした時には信号は「赤」になりました。でも車は何も走っていません。どうしますか。このときに、「急用があって急いでいる」場合もあるでしょうが急いでいなくても考え方は同じです。交通信号がそこになかった場合を考えてみましょう。信号がそこになければ、誰でも自分の頭で、横断しても大丈夫か、安全を確かめて渡るはずです。どうして信号が「赤」の時に全く車が走っていなくても「青」になるまでじっとして待っているのでしょうか。遵法精神が強いといえば聞こえが良いですが、実は他人の判断に任せていて(この場合は機械任せですけど)、自ら自分の頭で考えていないのです。信号が「赤」となればとまり、「青」となれば歩くのです。それは、自ら考えることをやめ、自らの判断を放棄しているわけです。これが一口で言えば「文理解釈」といわれるものです。

 ではもっと基本的なことを考えて見ましょう。なぜ私たちは信号がないときに横断する前に左右交互に眼を向けて車が走っていないか、来ないかどうかを確かめて、はじめて横断するのでしょうか。車は便利な交通手段ですが、人に危害を与え殺すこともする凶器に成り得るものです。ですから車が走行する道路を横断する時には、自分の身の安全を確かめるのが目的になるのです。もちろん、交通量が多くなれば信号は交通が混乱・渋滞しないように交通整理の目的も二次的にありますが、第一義的な目的はまず「安全」の確保でしょう。交通事故を防ぐこと、車対車の事故を防ぐことはもちろんのこと、車対人の事故を防ぐことが第一義的な目的でしょう。そこに「歩行者優先」という政策が出てくるわけです。従って、信号「青」で走行してきた車でも人身事故を起こしてしまった場合には、歩行者の過失7080%に対して自動車の過失は3020%という過失相殺をしているのです。

交通信号の目的がまず人身の安全の確保であれば、身の安全が確かな場合とは車が全く走行していない時でしょう。その場合、たとえ私が「赤」信号を無視して横断したとしても、だれにも迷惑を掛けないものと思います。もちろん、交通規則を破ったという自責の念に悩むかもしれませんが。行動の目的を考えて行動するのが「政策志向」又は「目的論的解釈」といわれてもいいようなものです。反対に、身の安全が明らかにわかっていても、信号が「赤」だから「青」になるまで待つのが「文理解釈」といわれるかもしれないものです。もちろん、そのような「目的論的解釈」に立った場合でも、その場に交通整理のための警察官が任務についていたら、たとえ身の安全が確保されていても、あえて「赤」信号を無視して横断しようとは考えないでしょう。そんな行動は警察の権威に対する挑戦であり、その任務についている警官に対する侮辱にもなるわけです。そんなことをしたら「信号無視」のかどで交通規則違反で罰金を食らうのが落ちでしょう。それこそ身の安全を危うくする破目になりますよ。

 すべての政策の究極的な目標は古い言葉を使えば「世のため、人のため」なのです。つまり一人ひとりの人間個人の尊厳の価値の尊重です。人それぞれの選択の自由を相互に認め合い尊重することから始まります。これら一人ひとりの人間の尊厳と価値はすでに「世界人権宣言」に集約されているように国際慣習法になっています。世界人権宣言,19481210国連総会で採択<http://www.amnesty.or.jp/human-rights/music-and-art/passport/udhr.html>)世界人権宣言」は欧米の主要な指導者のイニシアティヴによって勧められて19481210日 に国連総会で採択されたものですが、その人権宣言に収められている人間の尊厳にまつわる価値というものは、地球上の幾多の異文化を通じ、長い時間を経て好まれ、求められ、概念化され、発展され、そしてさらに洗練されてきたものなのです。「人間の尊厳」などを求めるということは西洋文明の落し子だなどと言い張ることは、相互決定という歴史的なプロセスを否定することですし、又さらに人の本来的に持つ欲望をまったく無視するということにもなります。それこそ自分の成し遂げたことを自民族中心主義的に考えるという過ちを犯すということにも通じることになります。それどころか国連総会は反対に、世界人権宣言は「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の規準」である、と公布したのです。

 一般的に、自らが自分の手により創りあげたものとか成し遂げた行動基準だと考えるものは、実際には、外からの影響によって出来上がってきたものなのです。地元の町工場で造られ地元で消費されるという「地産地消」ものでも、よくよく考えれば、その出来上がってくる物の基本的なアイディアだけに限らず、そのデザインから使用する原料や素材の選択、製造に使う機器、製造過程のノウ・ハウ、金融方法、そして完成品を市場に送り出し流通網に乗せるというノウ・ハウまでの一連の知識・技術は地元ではなく外から本来導入されてきたものであることが分かるでしょう。ビールがその典型でしょう。紀元前4世紀からのメソポタミヤ古代エジプトがその起源でした。日本にビールが到着したのは平戸にオランダの東インド会社の商館が1609年に開設された時以降でした。すべての知識やノウ・ハウは長い年月をかけてさまざまな文化様態を経て発達し、蓄積され、さらに改良・洗練されて伝達されてきているわけです。科学的探究・発見にとって根本的な概念である数学上の「ゼロ」はインドの人に発見されたものですが、いまや誰もが最初からそこに存在していたが如く当然のものとして生活しているのです。今日では、誰もが、平らな(フラットな)世界とは違って、四辺の角もなく、東も西もない地球上のいたる処で、後に逆戻りできないように相互決定のプロセスの中に組み込まれているのです。それと同じように、「人権の尊重」や「人間の尊厳」などの概念も基本的には一人ひとりがそれぞれ望むこと、欲求する意思をお互いに尊重することに根ざしているのです。それこそが最も根本的な経験的な証なのです。

 世界人権宣言」の前文には、この宣言を採択した理由を七つ掲げています。

まず最初に「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」こと。

第二に、「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし」たことと、「言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望」であること。

第三に、「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要である」こと。

第四に、「諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要である」こと。

第五に、「国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認した」ことと、「一層大きな自由の下で社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意した」こと。

第六に、「加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約した」こと。

最後に、「これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全成就にするためにもっとも重要であること。

以上七つの理由と共に、「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の規準」として、「世界人権宣言」を公布したのです。列挙された基本的な人権の内からこれからももっと注意を必要とするいくつかの代表的な権利・自由を挙げてみましょう。

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1.すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。

2.さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

 

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何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

16(1)

 1.成年の男女は、人種、国籍又は宗教によるいかなる制限をも受けることなく、婚姻し、かつ家庭をつくる権利を有する。成年の男女は、婚姻中、及びその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する。 

 

18

 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

 

19

 

すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

 

20(1)

 

1.すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。

 

21条(3)

 

3.人民の意思は、統治の権力の基礎とならなければならない。この意思は、定期のかつ真正な選挙によって表明されなければならない。この選挙は、平等の普通選挙によるものでなければならず、また、秘密投票又はこれと同等の自由が保障される投票手続によって行われなければならない。

 

26条(2)

 

2.教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

 

30

 

この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

 国連総会は、すべての人が、「この世界人権宣言を常に念頭に置きながら」. . . 、「これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを . . . 確保することに努力するように」定めたのです。もちろん、多様性を尊ぶさまざまの文化的に違いがある複合社会の中で、これら権利や自由の享受・保護の仕方は一様ではありません。歴史的な状況を踏まえさまざまな組織・制度、文化により求められ、支持され、適用されてきたわけです。従って、その運用方針や、その手続きや慣習などは別々に発展してきたわけです。

 現在の国際社会は国連加盟国としての193カ国の主権国家が国際場裏の主要な行動主体として構成されています。それに加えて益々影響力を行使するようになった非国家組織とその他の集団・個人も国際社会の一翼を担っているのです。さらに、これらの行動主体がそれぞれが属する地域的な複合社会を構成しています。ここにも、国連加盟国すべてを対象とする「普遍主義」と一つの行動主体の帰属基である「地域主義」という相互補完的な利益の競合関係が存在しています。(国連憲章に組み入れられた「地域主義」と国連の「普遍主義」との補完的関係に関しては、鈴木英輔「国家と『世界市民』とグローバル・スタンダード」、『総合政策研究』No.4320133月、関西学院大学総合政策学部研究会、6165頁参照。)そのような緊張する利害が競合する中で、いかに人間の尊厳と自由を守り、拡大するかが最終的な目標なのです。###