中国の宣伝する「戦後秩序」とその真の狙いは

中国の宣伝する「戦後秩序」とその真の狙いは

 

鈴木英輔

最近の中国による組織的に且つ世界的に展開されている一連の反日プロパガンダには眼に余るものがあります。その核心ともいえるものが「戦後秩序」です。これまでの全ての反日プロパガンダは、その戦後秩序を日本が「否定」するとか、、「挑戦」しているとか、「覆そうとしている」とか、だから「守らなければならない」という「第二次大戦勝利で得た成果」とか「反ファシズム戦争勝利の成果」の擁護を全世界に訴えているのです。

 敗戦後、国としての気概を喪失し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ことにより、日本は戦勝国米国の庇護に預かり、その属国としての地位に甘んじて、「戦後秩序」の擁護のために莫大な財政的な援助をもって国際連合を支えてきました。そうした日本国民にとっては、中国の一方的な主張は至極唐突に見えます。ところで中国の言う「戦後秩序」とは、そもそも何を指すものでしょうか。もう一度具体的に考えてみましょう。

 

I.

2013322 日にロシア訪問中の習近平国家主席は「第二次大戦勝利で得た成果と戦後の秩序」という概念を開陳しましたし、劉国連大使も「国連憲章が創り上げた戦後秩序」と今年129日の国連安保理で発言しています。ということは、中国のいう所謂「戦後秩序」たるものは国連憲章を基本規範として構築された国際秩序を指しているのでしょう。でも、ちょっと可笑しいのではないでしょうか。どうもこの世界的に繰り広げられている反日宣伝には他の複線があるように思います。

そもそも、日本だけが「国際連合憲章」と呼ぶものは、米国の首都ワシントンの郊外にあるダンバートンオークス1944821日から107日にかけて開かれた国際会議で米国、英国、ソ連中華民国の代表者が参加して採択されたダンバートンオークス提案、「一般的国際機構の設立に関する提案(Proposals for the Establishment of A General International Organization)」が原文になっていました。そして最終的にはサン・フランシスコで1945425日から626日まで開催された「国際機構に関する連合国会議 (United Nations Conference on International Organization)」で50カ国が参加してダンバートンオークス提案の討議・修正のすえ、最終的に「連合国憲章(the United Nations Charter)」として署名されたものなのです。ここで一つ確認しておきたいのは、ダンバートンオークス提案にしても、その後の「連合国憲章」にしても、いずれも大東亜戦争が終わる前の話なのです。つまり、19452月4日から11日まで開かれたヤルタ会談で、第二次大戦終了後の世界勢力図の輪郭と所謂「世界機構」の基本構造が米・英・ソ連の三カ国によって決定されたのです。この会談でどの国が「戦後秩序」の規範となるべき「連合国憲章」を作成するサン・フランシスコ会議に参加できるかが決定されたのです。会議に招待される国はまづ第一に194528日時点で対枢軸国との戦争に結集した「連合国」であったもの。第二に、194531日までに枢軸国に宣戦布告する国として「提携国(Associated Nations)とよばれていた諸国なのです。その結果、194531日までに1942年に発表された「連合国共同宣言」に署名した42カ国がサン・フランシスコ会議に招請されたのです。会議開幕後に未解決であったアルゼンチンやソ連邦内の構成国(ベラルーシウクライナ)の参加問題が片付き、実際に会議に参加した連携国はポーランドを除き50カ国でした。 

以上の記述からも分かるように「戦後秩序」というものは、第二次大戦の戦勝国側の四大国が作り上げた「ダンバートンオークス提案」を下に、戦後処理として構築された国際秩序なのです。四大国といっても、中華民国の貢献はダンバートンオークス会議では実質上あまりなく、ほとんど名目だけの参加であったのが実態でした。まして、さらに重要なヤルタ会談には中華民国は全く参加していなかったのです。そうして、50カ国の参加国により討議・修正されて最終的に「連合国憲章」として採択・署名されたのが1945626日なのです。国内の政治的混乱で会議自体には参加できなかったポーランドは、その後、194510月15日に遅れて署名しました。その「連合国憲章」は19451024日に発効しました。それが、「戦後秩序」を創りだした基本規範なのです。

ここで少し本論から離れますが、この「連合国憲章」という少し耳慣れない名称の問題を片付けておきましょう。日本だけがこの戦後の国際秩序を構築する基本規範を「国際連合憲章」と呼び、その機構を「国際連合」と呼んでいるのです。原文の連合国憲章第3条は以下の通りです(引用文の太字は私の手によるものです)。

Article 3

The original Members of the United Nations shall be the states which, having participated in the United Nations Conference on International Organization at San Francisco, or having previously signed the Declaration by United Nations of 1 January 1942, sign the present Charter and ratify it in accordance with Article 110.

これが日本語に訳されると以下のようになります。

 

第3条

 

国際連合の原加盟国とは、サン・フランシスコにおける国際機構に関する連合国会議に参加した国又はさきに1942年1月1日の連合国宣言に署名した国で、この憲章に署名し、且つ、第110条に従つてこれを批准するものをいう。 

3条の日本語訳は、巧みに、一つの名詞the United Nationsを二通りに使い分けるのです。では次の第4条を日本語でみてみると、もう「連合国」という名称はなくなり、国際機関である新しい「国際連合」に変化していますが、英語の原文はどちらも同じ“the United Nations”なのです。第4条第1項の「国際連合における加盟国の地位」は“Membership in the United Nations であり、第2項の「前記の国が国際連合加盟国となることの承認」は“The admission of any such state to membership in the United Nationsとなっているのです。

この第4条第1項に規定されている加盟資格である「平和愛好国(“peace-loving states”)」はすでにヤルタ会談の場で194531日までに共通の敵国、枢軸国、に戦争宣言をした国と定義付けられていました。まして、それこそがサン・フランシスコ会議に参加できる条件だったのです。この「平和愛好国」という概念はダンバートンオークス提案に始めて出てきます。提案の第II章第1項に「この機構は全ての平和愛好国の主権平等の原則に基づいておる」と規定されていました。つまり、「連合国」として参加しない国は全て平和愛好国ではなく、侵略国だという話でした。もちろん「連合国憲章」の土台になったものが、米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相が1941814日に発表した「大西洋憲章」です。その憲章にはよりよい未来の世界のために共通原則を八つ挙げていますが、そのうちの三原則は以下のものです。

 1.両国は領土的その他の増大を求めず。

2.両国は関係国民の自由に表明せる希望と一致せざる領土的変更の行なわるることを欲せず。

3.両国は一切の国民がその下に生活せんとする政体を選択するの権利を尊重す。両国は主権及び自治を強奪せられたる者に主権及び自治が変還せらるることを希望す。

ところが、この原則第3項に関して19456月のヤルタ会談の共同声明には微妙な違いが見出されたのです。本来の「大西洋憲章」の第3項の原文はthey respect the right of all peoples to choose the form of government under which they will live; and they wish to see sovereign rights and self-government restored to those who have been forcibly deprived of them” となっていたのを、ヤルタ会談の文では、This is a principle of the Atlantic Charter — the right of all peoples to choose the form of government under which they will live — the restoration of sovereign rights and self-government to those peoples who have been forcibly deprived of them by the aggressor nationsと。「これは大西洋憲章の原則の一つである」といいながらも、「主権及自治を強奪せられた者」という文に「侵略国に」が新たに付け加えられたのです。 つまり、この変更で明確にされたことは、「主権及び自治の返還」の対象は、「侵略国」によって「主権及び自治を強奪された者」であり、「平和愛好国」による「主権及び自治の強奪」ではないということなのです。その結果起きたことは、ソ連による東欧諸国の支配、フランスによるインドシナ(ヴェトナム、ラオスカンボジア)とオランダによるインドネシアの再植民地化の戦争だったのです。つまり、ヤルタ会談で合意されたのは、「主権の回復」の意味するところは植民地宗主国の植民地に対する宗主国としての主権であったのです。この点をルーズヴェルト大統領が議会でヤルタ会談の結果を報告した時に「最終的決定は共同作業でなされるもので、従って結果的にはギブ・アンド・テイクの妥協物なのだ」と言ったのが印象的です。 換言すれば、戦勝国側と敗戦国側とでは全く別の物差しを使うことなのです。そういう「勝者の論理」が東京裁判史観を形成しているわけです。

以上のことを真摯に考えるならば、何故、この「連合国憲章」の中に、「敵国条項」と呼ばれるものがあるのか理解できるはずです。「連合国憲章」の第53条と第107条がその「敵国条項」です。

53

1.  安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極または地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。

 

        2.  本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。

107

この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。

この他にも、「敵国条項」の一部と見なされているものに、連合国憲章第77条第1項(b)に「第二次世界戦争の結果として敵国から分離された地域」が信託統治制度の下におかれるとの規定があります。

以上のような経緯を経て創り上げてきた「連合国憲章」の実際の姿を隠蔽したかたちで、これを「国際連合憲章」と呼ばせてきたのが外務省なのです。これもまた外務省の無責任さです。(残念ながら、本稿でも、不必要な混乱を回避するために、この無責任な慣例に従わざるを得ないわけです。)横道はこれくらいで本題に戻りましょう。

 

II.

中国が、主観的にどのように「戦後秩序」を理解しているかは、具体的な事例が挙げられてなく、一様なスローガン如きの概念が繰り返し述べられているだけですので、良く分からないのが実態です。そこで、大西洋憲章からダンバートンオークス提案そしてヤルタ協定を経て連合国憲章へと連綿と流れる「戦後国際秩序」を構築してきた諸原則に基づき、一つづつ検証してみましょう。その諸原則は以下のものです。主権平等、武力の行使又は武力による威嚇の禁止、領土保全、政治的独立、内政不干渉、人民の同権及び自決、人権及び基本的自由、国際紛争の平和的解決、国際の平和及び安全の維持に関する安保理の第一義的責任、大国一致、地域主義などです。これらの諸原則は、一般国際法の原則が支える伝統的国際秩序に加えて新たに創られてきたものです。その中には、公海の自由も航行の自由も入ります。では上に列記した原則を一つづつ見てみましょう。

主権平等:日本が国連の加盟国になったのは、1956年です。サンフランシスコ講和条約発効後4年も経っています。それから今日までの間、加盟国の「主権平等」原則を無視した「敵国条項」は歴然として存在しているのです。にも拘らず、「支払い能力原則(theprinciple ofcapacity to payに基づき、国連への拠出金を米国についで第二位の金額(2013-2015年は10833%)を担っているのです。これも「ハンディキャップ国家論」などというつまらない考えを自ら実践している外務省の役人の姑息な態度の弊害です。小和田恒外務事務次官が主唱した「補って余りある犠牲」を払う「国家論」は以下のように説明されていました。

  日本は過去の自己の行動や国民の信条として、日本自身が属する共同体たる国際社会の共同の利益のためであっても、“特定の行動”には参加しませんということを国家として明確にするわけです。しかし共同体の一員として責任を果たすために、他の分野でそれを補って余りある犠牲を払うことを求められるでしょう。

国民の税金を使いながら「拠出金額第二位の大国」代表を気取って威張っているのです。

中国の場合は、国連に加盟した、というより、中華民国という原加盟国の代表権を1971年に勝ち取った結果、国連加盟国間での「不平等」の最たる安保理の常任理事国として「大国の一致」原則を担保する拒否権を手にしたのです。今の中国というものは、中華人民共和国であって、その成立は中国共産党軍が国民党軍を破り194910月に「中華人民共和国」の成立を宣言したからです。その結果「中華民国」政府は台湾に逃れたものの、安保理の常任理事国として、五大国の一員として19711025日の国連総会まで残っていたのです。従って、現在、習近平国家主席の言う「第二次大戦勝利で得た成果と戦後秩序」には、ほとんど中国共産党の実質的貢献はなかったのが本当の話なのです。中華民国代表が、すでに述べたように、「戦後秩序」の構築準備段階で実質的な貢献がなかったことからしても、当時の中国共産党は,「共匪」と呼ばれ、蒋介石率いる国民党政府軍に追われる立場にいたのです。旧日本軍はアメリカ、イギリスとソ連からの援助を受けた中華民国の軍隊に敗れたのです。そもそも、蒋介石が四大国の一員としてカイロでの首脳会談に招かれたのは、国民政府が日本と単独講和をすることを恐れたルーズベルトの計らいだったのです。それも、カイロ会談のみで、もっと重要なヤルタにもポツダムにも呼ばれていないのです。   

ユン・チアンとジョン・ハリディ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下』(土屋京子訳、講談社2005年)が「その後、歴史は完全に改竄され、現在では、愛国的で抗日に熱心だったのは国民党よりも中国共産党のほうである、。『統一戦線』や『一致対外』を提案したのも、国民党ではなく中国共産党であった、ということになっている。これらは全て真実の歴史ではない」と断言しています。 

武力の行使又は武力による威嚇の禁止: 敗戦後の「国連中心主義」といいながら「国連PKOへの参加要請にも積極的に参加することを拒否してきた日本です。「警察官職務執行法」に縛られている自衛隊に、国連憲章2条第4項が禁止している武力行使をする権限などは存在しないのです。そんな「武装集団」が、どうして「武力の行使」どころか「威嚇」することすらできるのでしょうか。

中国の行動はどうだったのでしょう。国連創設後の「戦後秩序」をまず破ったのが19506月に勃発した朝鮮戦争へ、安保理の決議に反して積極的に北朝鮮側に加担したのが中華人民共和国だったのです。この事件を事始として、中華人民共和国の「戦後秩序」の基本的な原則に違反する事例は多々あります。1954-55年と1958年の人民解放軍による中華民国金門島への砲撃戦や1996年の台湾海峡ミサイル危機1959年の中印戦争、1969年の中ソ国境紛争、ヴェトナムとの1974年の西沙諸島の戦い、1979年の中越戦争1984年の中越国境紛争1988年の南沙諸島海戦など、「領土保全」・「国際紛争平和的解決」という基本原則を無視しているのは中国なのです。南シナ海をめぐる一方的な中国側の領土・領海に関する主張と行動は「公海の自由」・「航行の自由」原則を根本的に否定するものです。まして、1950年に始まったチベット強制支配紛争やウイグルの支配などは、「人民の同権・自決」原則を踏みにじっているのが、「国際の平和及び安全の維持」に対して第一義的な責任を担っている安保理の常任理事国である中国なのです。

中国の「戦後秩序」の否定は国際関係での行動に限らず、1989年の天安門事件での民主化運動の弾圧など、「国際的関心事項」原則を無視し、「内政不干渉」原則を濫用して、自国民の「人権及び基本的自由」原則を踏みにじってきているのです。

 

III.

では、なぜ中国は、自らの歴史的経過を無視して執拗に反日プロパガンダを主張するのでしょうか。2012927日、国連総会で中国の楊外務大臣は「日清戦争末期に日本が中国から釣魚島を盗んだ歴史的事実は変えられない」と異例の表現で日本を非難しました。楊外相尖閣諸島国有化について「日本政府の一方的な行動は中国の主権に対する重大な侵害だ。反ファシスト戦争勝利の結果を公然と否定するもので、戦後国際秩序への重大な挑戦だ」と国連の総会の場で日本を名指しで非難しました。この「盗んだ」という表現は、カイロ宣言の文言にある、「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」(all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China) からの引用でしょう。ここで一つ頭の隅に置いておかなければならないことは、上記の文言は「カイロ・コミュニケ」(“Cairo Communique”) と書かれているもので、当事者であるルーズベルトも、チャーチルも、蒋介石も、誰一人も署名していないのです。米国国務省の公式見解が言明するように、「カイロ宣言」たる物は、「意図」の表現であって、「それ自体で領土の割譲を構成するものではない」ことなのです(“The Cairo declaration manifested our intention. It did not itself constitute a cession of territory.”)英国のチャーチル首相も195521日の議会での労働党議員との質疑の中で台湾が中華人民共和国に返還されることを否定して、「カイロ宣言は、共通の目的を述べたものに過ぎない」(”The declaration,” the Prime Minister added, “contains merely a statement of common purpose.”)と述べていたのです。ですから中国側がむきになるのも致し方ないのでしょう。

当時の「中華民国」は四大連合国の一員であり国連安全保障理事会の常任理事国にもなっていた「大国」でした。尖閣諸島がそれほど大事な台湾の領域であったならば、その主張をする機会は他のどの国にもまして享受していたはずです。手元にある利用すべき機会と立場を有効的に活用しなかった、あるいは出来なかったことのツケを日本にまわすことはできないはずなのです。まして、中華民国総統である蒋介石1943年のカイロ宣言を生み出したルーズベルトチャーチルとの会談に自ら参加していたのです。その会談の結果であるカイロ宣言には尖閣諸島のセの字も言及されていないのです。ルーズベルト蒋介石の会談の記録は中国側の備忘録を基に英訳されたものは以下のとうりです。

     The President then referred to the question of the Ryuku Islands and enquired more than once whether China would want the Ryukus. The Generalismo replied that China would be agreeable to joint occupation of the Ryukus by China and the United States and, eventually, joint administration by the two countries under the trusteeship of an international organization. 

ルーズベルト蒋介石に沖縄を欲しくないのかと据え膳に載せて出しているのに、蒋介石は米中共同占拠であれば話に乗るなど責任回避をちらつかしていたのですから沖縄のことが議題から外れたのも当然です。それ以降、米国は台湾の請求をことごとく否定してきたわけです。その事実を棚に上げて、単に譲り受けた「施政権」のみを返還するだけで「領有権」に関しては「立場をとらない」というのは全く事実に反する詭弁なのです。沖縄は日本の領土であり、当然の事として沖縄の一部である尖閣諸島は日本の領土なのです。会談者の共通の意図を表現したに過ぎない文書である「カイロ宣言」にはなんらの法的拘束力など存在しないのです。だからこそ、中国は焦っているわけです。  

 

IV.

すでに論じてきたように「戦後秩序」を構築してきたのは「戦勝国」で自らを「平和愛好国」と定義してきた「連合国」なのです。中国は「連合国」の一員として振舞っているのです。その狙いは、国連憲章にいまだ残っている「敵国条項」だと思います。国連憲章53条と第107条の全文はすでに引用しておきました。その基本的な主旨は、連合国の敵国に対して、第二次大戦で確定した事項に反したり、侵略政策の再現を図るような行動などを起こした場合には、国連加盟国や地域的取り組み又は地域的機関は安保理の許可がなくとも、その敵国に対して軍事的制裁を課すことができるという規定です。 

2012926日の野田首相国連演説に対する「敗戦国が戦勝国の領土を占領するなど、もってのほかだ」という中国からの批判の根拠はこの「敵国条項」にあるのです。直接的な「敵国」であった当事者である日本では、「敵国条項」の死文化とか実際の法的効力は存在しないなどという自国に都合のいい話しをしていますが、そんな話は「連合国」を主張する国には通用しないのです。国連憲章107条が第106条と共に「安全保障の過渡的規定」を定めた第17章に組み入れられているのを根拠に、かつての「敵国」は全て「平和愛好国」として憲章第4条が規定する加盟資格を満たして国連加盟国になっているので、「敵国条項」は実質的効力を失ったといわれています。ただし、「過渡的規定」であっても、通常そのような過渡的規定に特定されるべき、限定期間や満たすべき条件・発生すべき、あるいは成し遂げるべき出来事などが一つも規定されていないのです。つまり、「敵国」が「敵国」でなくなる条件が何一つ規定されていないのです。国連50回総会で採択された「敵国条項削除」に関する決議は、「国連憲章5377,そして107条が時代遅れなものになっている」ことを認識しつつも、「敵国条項」の削除による憲章改正のために手続きを開始する意図を表明したに過ぎないのです。それも、いつするのかは “at its earliest appropriate future session”(将来適切な早い会期に)という差し当たり無難な先延ばし策にすぎないのです。

 2005916日の“世界サミット成果文書”も総会の決議ですが「我々は、総会決議50/52を考慮し、総会で行われた関連の議論を想起し、国連の創設にかかる深遠な大義に留意し、我々の共通の将来を見つめて、国連憲章第53条、第77条及び第107条における『敵国』への言及を削除することを決意する」と述べているだけで、その決議に法的拘束力などなにもないのです。「敵国」であったドイツは、1990年の「ベルリンの壁」の崩壊を契機として東西ドイツの統一が現実のものになるというプロセスの中で締結された「ドイツ条約」によって、四大国(米国、ソ連、英国、フランス)がベルリンとドイツ全体に関する各々の権利と責任を終結する」ことを第7条で規定しています。四大国条約によってドイツに関する限り国連憲章の「敵国条項」は実質上無効になったといえるでしょう。同じように、一般的に連合国、つまり戦勝国と敗戦国との間の講和条約が締結されれば、「安全保障の過渡的規定」に基づく安保理の許可なく軍事行動を起こす自由は消滅するものと考えられます。何故ならば、そのような講和条約には、通常、締約国間相互に対する武力行使の禁止が規定されているからです。この規定国連憲章規定を飛び越えて、1928年の「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン条約)に結びつくからです。

日本も、「敵国条項」の削除という国連憲章の改正が事実上現実味を持たないという現状では、同盟国アメリカを始めとして、他の主要連合国との二国間条約に基づき「敵国条項」に関する当該国の権利・責任の終結を求めるべきだと思います。日本は、1991418日の日ソ共同声明で「双方は、国際連合憲章における『旧敵国』条項がもはやその意味を失っていることを確認」する、と記されています。ちなみに、中国はというと、「日中平和友好条約」には「敵国条項」に関する言及はありませんが、その第一条には以下のような規定があります。

 

  1. 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。

  2. 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

                                                                                                            

この条約第一条の規定に誰も異議を出す者はいないでしょう。しかし、すでに上述したように、中華人民共和国は建国以来「戦後秩序」の基本原則をことごとく破ってきたという過去をもっているのです。ここでヘーゲルの格言を思い出してみましょう。「諸国家の関係は、相互に約定を結びながら同時にこの約定を越える独立者の関係なのである」。従って条約が遵守されるかどうか、つまり「自国の権利の現実的効力」は各々の国家の「特殊的意志のうち」にあるものであって、上記のような「国際法の普遍的な規定は、どこまでも当為たるにとどまり、その実態は、条約に従う関係とこの関係の破棄との交替ということになる」と言明しています。 

従って、問題なのは、「敵国条項」第53条に規定されている「侵略政策の再現」というものが具体的に何を意味するのか、また、誰がその判定を行なうのかに関しての規定は存在していないのです。まして、「敵国条項」の下での軍事行動に関しては、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで」安保理は何の権限を持たないのです。さらに、中国は拒否権を持つ安保理の常任理事国なのです。自国に不利になるような決議案が出てくれば、中国が拒否権を行使するのは明らかです。結局、「連合国」であった加盟国自身が各々の「特殊意志」によって判断するだけなのです。突如として中国が尖閣諸島を「核心的利益」と断定して、一方的に1992年に中国の領海法を新たに制定し、その中に尖閣諸島を組み入れたことにより、尖閣諸島問題の「棚上げ合意」をまず最初に破棄したのは中国なのです。これこそ、まさに、中西輝政京都大学名誉教授が指摘するように「日本の尖閣への実効支配の強化を『再侵略』と位置づけ」ることが、「敵国条項」を発動させる口実なのです。 

太平洋を東と西に分け、東太平洋を米国が、西太平洋を中国が仕切るという「新しい大国関係」を築くことを願っている中国にとって、太平洋に出ることができる外洋海軍(blue-water navy)を必要とし、その艦艇は中国自身が線引きをした九州―沖縄―台湾―フィリピン―ボルネオ島に至るラインを指す「第一列島線」を越えることを第一条件としてます。その第一条件を越える前提が、まず始めに「第一列島線」の内側(西側)の海域を制することなのです。そのためにも、尖閣諸島を中国の手に収めて、米国の第七艦隊を牽制し、東シナ海制海権を確立する狙いがあります。その戦略の同一線上にあるのが西沙諸島南沙諸島領有権を巡る南シナ海制海権の問題です。(第二列島線は、伊豆諸島から始まり、小笠原諸島、グアム、サイパン、パプア・ニュー・ギニアに至るラインを示します。第二列島線まで進出することは即ち、太平洋の西側を制する能力を持つ外洋海軍への発展なのです。)

そのためにも、中国は組織的な、且つ統一された同一テーマをかざした反日プロパガンダを世界中に流布して、尖閣諸島を中国領にするための軍事行動を起こした暁には、世界の世論が中国の行動を国連憲章敵国条項」を盾に支持してくれるように操作しているのだと思います。なぜ、東シナ海から南シナ海まで、広範囲にわたり一方的に領海を拡大し、島嶼領有権を主張し、武力を持って威嚇し続けるのか、その答えは、最後に、もう一度ヘーゲルが出してくれています。「国内において反目している国民は、対外戦争によって国内の平穏を得るのである」と。###