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ウクライナの危機―民族国家の意味と「国民国家」という概念の持つ混乱

 

ウクライナの危機―民族国家の意味と「国民国家」という概念の持つ混乱 

鈴木英輔 

国民国家」とは一体何を意味するのでしょうか。かつては「民族国家」と言われていました。今風に説明されているものには、ひとことで言えば、政治権力により国民統合がなされた国だとされます。その前提が、まず一定の領域の境界が画定しており、その領土に対する排他的権利を政治権力者が行使する政治組織・制度をを備えているものだとされており、その境界内の住民が「国民化」された国家だと言われています。そして、「近代的な国家はすべて国民国家である」と言われています(西川長夫『国民国家論の射程―あるいは<国民>という怪物について』柏書房)。「国民統合」が成されたというのが国民国家といわれるものですから、現在の国連加盟国193カ国はすべて「国民国家」であるはずです。何故ならば、国連加盟国になるには、「主権国家」として承認されていなければ加盟国になれないのです。にも拘らず、現在の国連加盟国の中には「破綻国家」といわれる「国民国家」など考える余裕さえない“主権国家”も多くあります。

 今、ウクライナ共和国に起きていることを「国民国家」論はどのように説明してくれるのでしょうか。ソ連邦崩壊から生まれた「ウクライナ共和国」は「国民国家」なのでしょうか。もし国民統合が成されていたのならば、なぜクリミアは分離したのでしょうか。柄谷行人氏は「国民国家による他の民族の支配は、意図せずして、国民国家を作り出してしまう」と言明しています(柄谷行人『世界史の構造』岩波書店。今まで支配されていた「他の民族」が独立するとどうして新たな「国民国家」になるのでしょう。大英帝国に植民地として支配されていたアラブ民族であるスーダン19561月に独立国になりましたが、なぜ「民族国家」と訳されずに「国民国家」となるのでしょうか。国民統合を成し遂げたと考えられる新生国民国家であるはずであるスーダン共和国は、なぜ独立後50余年をへて南部のディンカ族を中心とする異民族がさらに「南スーダン」として20117月に独立することになったのでしょうか。  

I. 

 ここにかつて東京大学法学部で政治史・外交史を講じていた東京大学名誉教授、岡義武、が著した名著『国際政治史』があります(義武『国際政治史』岩波現代文庫。この名著はもともと1955年に岩波全書の一冊として発刊されたものです。この本の中には、現在あたかも「自明のこと」として使われている「国民国家」という概念も言葉も一切使用されていないのです。岡教授はその著書の冒頭に、「今日われわれの理解する意味での国際社会が生まれたのは、主権国家の成立に始まるといってよい」に始まり、「民族国家(nation-state; national state)として発展をとげることになった」と述べています。この著書の中では、「民族国家」以外は、単に「国家」とか「国」という名詞が使われているだけなのです。何故でしょうか。いつ頃から、この「国民国家」という概念は使われるようになったのでしょうか。岡教授の記述に一つのヒントがあるように思います。原本の昭和309月(1955年)に記された序文に「国民的利益」という概念・言葉が導入されています。まして、その言葉の脇に「ナショナル・インタレスト」とルビが振られているのです。岡教授は、この序文で、「国民的利益(ナショナル・インタレスト)という概念は本来きわめて抽象的かつ不明確なものである。このような概念を素朴に定立して、国家なり外交なりが国民的利益(ナショナル・インタレスト)を追求するものと予断して、そのような観点から国際政治の歴史的過程を記述することは、多くの問題を含むものといわねばならない」と断言しているのです(同上、2頁)。同じように、「ネーション・ステート(nation-state)」を「民族国家」と訳さず「国民国家」と訳すときにも、その時の流れに乗った結果なのでしょうか。 

西川長夫立命館大学教授によると、「国民国家」という用語は、“nation-stateの訳語として「社会科学の領域ではかなり古く」使われており、戦後直後(19465月)に出版された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」にも出てくると言明しています(西川、前掲、256頁)。その三年後にも丸山氏の「近代日本思想史における国家理性の問題」にでも「国民国家」という用語が散見できます。最も、丸山教授は、1944年に書かれた「国民主義理論の形成」の中で「国民」ないし「国民国家」は言語や文化の共通性ではなく、国政に主体的に参加するという国民一人ひとりが責任意識を持った「個人主義者たることにおいてまさに国家主義者」となるような「国民主義」であるとナショナリズムを定義していました(小熊英二<民主><愛国> 戦後日本のナショナリズムと公共性』、74-77頁参照)。この論文の中で丸山氏は「Nationalism 民族主義と訳されるが、民族主義というと、例えば他の一国家の本土に少数民族として存在し、あるいは植民地となっていた民族が独立するかという場合は適当であるが、我国の様に昔からの民族的純粋性を保ちいわゆる民族問題を持たなかった国に於いては如何であろうか」と述べ、「民族主義」という言葉を、日本の政治状況に関しては使っていなかったのですが、「民族が独立する」場合には良しとしたのでした(同上、819頁、脚注13 )。 しかし、西川氏は、「国民国家論という形で広く使われはじめたのはこの十数年ではないでしょうか」と199711月に述べているのです。上野千鶴子東京大学名誉教授も、「八O年代になってから、にわかに『国民国家』が分析概念として脚光を浴びた」と説明していました(上野千鶴子「『国民国家』と『ジェンダー』― 『女性の国民化』をめぐって」『現代思想199610月号)。上野氏はその背景として、「八O年代の歴史の激動を通じて初めて『国家』が『宿命』としてのあり方から『脱自然化』されたというわたしたち自身の歴史的な被規定性を忘れることはできない。『国民国家』の相対化は、目の前で巨大な国家が崩壊することを通じて、『市民社会』の神話に反して、国家の肥大した役割と『市民社会』の自律性を疑わせるという逆説的な働きの中から生まれた」のだと主張しています。  

この上野氏の主張を受けて、西川氏は「『国家』が『宿命』としてのあり方から『脱自然化』されたという指摘は、現在の国民国家論の性格をうまく言いあてていると思う。自分たちが『宿命』としてとらわれていたものが何であったか、ようやく見えはじめたという開放感と喜びがたしかに国民国家論に生気を与えている」と断言しているのです(西川、前掲、32頁)」。不思議なことに、「国民国家論」として「国民国家」を主張する人には、多分、何か別の意味があるように思えます。西川氏が端的に認めるように「自己を日本や日本国民と同一化して何ごとかを語りあるいは行うことだけは止めよう」という。何故ならば、「戦争はいつも国民を巻き込む。国民はつねに加害者であり被害者だ。戦争責任を負うというのは究極的には、そのような国家を支える国民をやめるということだ」と主張しているのです(同上、13頁)。つまり、西川氏は、ヘーゲルがいう「国家の自立と主権を維持するという義務」を放棄することだと主張しているのです。ここでは、ヘーゲルの言葉を紹介しておきます。 

   国家が単に市民社会と見なされ、そして国家の究極的目的がただ生命所有保障することだけであると見なされるとすれば、そこにはひどい計算ちがいがある。というのはこの保障は、ぜひとも保障されなければならないものが犠牲にされたのでは、得られないわけであって、――条理はむしろその逆であるからである(ヘーゲル、『法の哲学 II』、404頁) 

以上のような論議を吟味すると、どうも「国民国家」論は日本の国内的な政治・社会状況と個人の関係を分析の対象としているのではないのかと思うわけです。つまり、その素は市民革命を経た国内政治体制の話なのですが、丸山教授が日本にとっては「民族主義」ではなく「国民主義」であるというように、日本的な固有な概念が創りだされてきたのです。小熊英二教授がその変遷をうまく総括しています。 

    ただし、敗戦直後の民族論と、一九九0年代の国民化論には、大きな相違があった。九0年代の国民国家論では明治以降の日本は近代化された「国民国家」であるという前提に立ち、「国民国家」が批判されていた。それにたいし敗戦直後の民族論では、近代化を促進して「国民国家」をめざすべきだと唱えられていたのである(小熊、前掲、124頁)。

 

II. 

絶対主義国家を崩壊させたフランス革命後の「主権国家」の「主権者」は絶対君主から一般市民に移ったのです。絶対主義王権の時代のときには、すでに国家の排他的領土権は確立されており、その領域内での君主の統治権に関しては、相互不干渉の原則を創り上げていたのです。政治権力が排他的領域の中に確立したことが「主権国家」の誕生を見たわけです。主権国家成立の条件は「他の主権国家」から「主権国家」としての承認を受けることなのです。その承認の前提となるものには、一国の国内の政治体制が君主制であろうとも、独裁政治体制であろうとも、民主主義体制であろうとも、あまり関係はないのでした。排他的領土権の確立は、その領域内にすむ人たちがその国家と一体化をなしていくプロセスであったのです。そのプロセスこそが政治権力者が創りだすシンボルの下に領域内の住民が政治的に統合されていくことでした。絶対主義王権が打倒されたことにより取って代った「主権者」を「人民」と呼ぼうが、「市民」と呼ぼうが、「国民」とか「民族」と呼ぼうが、そのどちらにしても、一つの「主権者」となるべきものの下地はすでに絶対主義王権体制の下で形成されてきたのです。このプロセスが国内的に集権化された領域内の政治統合の形態だったのです。ただし、これは主として国内だけの形態であったのです。ヘーゲルのいうように、「だから国家の正当性、もっと的確に言って、国家が国外に向かっているかぎりでは、その国家の君主権の正当性は、一面ではまったく国内に係わる関係」にすぎないのです(ヘーゲル、前掲、418頁)柄谷行人氏が的を射た以下のような観察をしています。 

  日本で「国民国家」という感じが出てくるのは、日露戦争以後、対外的緊張からしばらく解放されて、内部の問題を見る余裕ができた時期です。そのとき、いわば「民権」派が盛り返してきた。一九二五年には普通選挙法も通った。そのような過程が「大正デモクラシー」と呼ばれています。・・・ この時期には、明治時代にはなかったようなタイプのナショナリズムが出てきます。つまりネーションが重要な意味をもつようになったのです(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』インスクリプト79頁) 

ここで思い起さなければならないのは、当時の「大日本帝国」は既に念願の「不平等条約」の改正を成し遂げ、欧米の「民族国家(ネイション・ステート)によって構成される「国際社会」に「民族国家」として承認を受けて参列していたのです。ただし、国内的な政治形態のいかんを問わず、対外的には国際関係の主体である国家としての「主権」の性格は何も変化がないのです。「主権国家」として承認される三つの必須条件がそのことを端的に示しています。すなわち、(1)ある一定の領土、(2)その領域内に居住する一定の人口、そして(3)その領域を実効支配する統治組織制度です。この三条件は今も昔も変わりがないのです。もちろん、歴史的には、日本が欧米の世界」である国際社会に仲間入りした時点においては、「文明国」としての承認は享受していなかったのです。従って、「不平等条約」という屈辱的な西洋人に対する領事裁判権」という治外法権」の設定と「関税自主権」の喪失という条項を押し付けられた条約をまず米国と結び、「最恵国待遇」条項(the most favoured nation clause)による連鎖反応により次々と西洋列国との同様な不平等条約を締結せざるを得ない結果に甘んじなければならなかったという「文明国」という条件が19世紀には存在していましたが。 

そもそも日本で「国民」という言葉が一般的に使用されたのは、明治4年(1871)の戸籍法を制定した太政官布告であったのです。それまでの封建体制の下では、人は、士農工商という身分制度により上下に、幕藩制度により南北東西の地域に分断・分割支配されていたので、自分の身分や藩を越えた「国民」などという意識も概念も持ち合わせていなかったのです。したがって、近代主権国家として統合されるプロセスの中で「国民」という概念が導入されたわけなのです。通常、日本語で「国民」というのは、日本国籍ををもっているものであって、ある一つの国家に属する人のことを指しているわけで、既に国家が成立していることを前提としているのです。因みに『日本国語大辞典』に依れば「国民」は、「国家を構成する人民。その国に属する人。その国の国籍を持つ人」とあります。論理的手順としては、(1)ある一定の領域に一体化した民族が、(2)国家を創りだし、(3)その国に属する人が国民と呼ばれる訳です。それを、「民族国家」と呼んだのです。 

であれば、どうして「国民国家」と呼び「民族国家」と呼ばないのでしょうか。因みに、冒頭に挙げた岡教授は「民族国家」と呼んでいるのです。「国家」はその内部的構成要件によって民主主義制度であるとか、一党独裁制度だとか、市民革命後の「個人の自由と平等」の理念を反映するかどうかという内部的に規定される面と対外的に「主権国家」として他の国家との関係において規定されるという二重の側面を持っていることは前述しました。かつて「民族」と訳されていた“nation”が近年になって「国民」と訳されてきた流れには、市民革命以後の民主化の流れを汲み取る国内の政治状況と対外的な主権国家としての国家成立要件との混同にその原因があるように思います。この現象はきわめて日本的な敗戦後の現象だと思います。冒頭に挙げた岡教授の用語にあるように一般的な「国益」という言葉をあえて「国民的利益(ナショナル・インタレスト)」とルビを振って呼ぶことと同じ考えなのです。 

 そのような民主化時代の政治的な流れとは別に、もう一つの根本的な問題は西洋の概念・言葉を日本語に翻訳するという障害があります。この避けて通れない問題を篠原英朗広島大学教授は、その『国際社会の秩序』の中で以下のように詳しく脚注で説明しています。 

一般に日本語で「国民」とは、ある一つの国家に属する人間集団のことを指す。これに対して「民族」とは、多くの場合、人種的同一性を基盤として一つの社会的基盤を共有する人間集団のことを指す。両者は日本語では区別されるが、英語を始めとする欧米語ではともに、“nation” と表現される。国際社会の標準は、欧米語によって形成されているので、国際社会において日本語の「国民」と「民族」に対応する語はないわけである。またさらに事情を複雑にするのが、「国民=民族」は一つの政治共同体を構成していることが前提となっているため、欧米語における “nation” の 概念がしばしば「国家(state)」と同義で用いられてしまうことである。なお英語の “ethnicity” は、人種的な相違に応じて区分される種族集団を表現するために用いられる。しかし明確に一つの社会集団を構成していない場合にも使われるため、日本語の「民族」とはやはり異なる意味を持っていると言うべきであろう。「国民」「民族」「国家」の相違を、日本語の枠組みの中で思索した上で、国際社会にあてはめようとすることには、一定の限界がある。国際社会はそれらの語に対応した概念区分を標準にして動いてないからである。本章ではこのような概念上の問題を意識化するために、あえて意図的に「国民」を「民族」あるいは「国家」と置換できるようなものとして取り扱う。もっとも「国民=民族=国家」としての “nation” の概念が生まれたのが、近代以降の時代であることも確認しておかなければならない(篠田英明、『国際社会の秩序』東京大学出版会5657頁) 

ここで問題になるのは、単に翻訳の問題ではなく、もっと基本的な歴史の変遷への理解ではなかろうかと思います。まず第一に、どのような政治・社会体制の下に「国家」が成立してきたか、そしてその「国家」たるものを一定の領域に基づいた住民たちが一つの集団として組織化されて、政治組織の中に組み入れられながら、その政治組織を支えていくという過程です。その「国家」成立の前後において創り出されていく「民族」という概念なのです。『民族とナショナリズム』(Nations and Nationalism)を著したアーネスト・ゲルナーは、「民族」と「国家」の関係について以下のように述べています。

 

    実際、民族は、国家と同じように偶然の産物であって、普遍的に必然的なものではない。       民族や国家が、あらゆる時代にあらゆる状況の下で存在するわけではない。さらに、民族と国家とは、同じ偶然から生まれるものでもない。・・・この二つ[ 民族と国家 ]が互いに不可欠なものとなる前に、それぞれ出現しなければならず、しかもその出現は、相 互に独立で偶発的なものであった。国家は明らかに民族の支援なしに現れた。また、ある民族は明らかに自分たちの国家の祝福を受けずに現れている(アーネスト・ゲルナー、『民族とナショナリズム』、岩波書店11頁)。  

 このゲルナーの著書、Nations and Nationalism は、ベネディクト・アンダーソンの『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』の中では、『国民とナショナリズム』と訳されているのです(ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体』 書籍工房早山、11頁)。さらに、アンダーソンの著書では、ナショナリズムは「国民主義」と訳され「ナショナリズム」のルビが振られているのです。しかし、ゲルナーナショナリズムを「第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」と定義し(ゲルナー、前掲、1頁)、「ある政治的単位の支配者たちが、被支配者の多数が所属するのとは別民族に属している場合」に「ナショナリズムの感情がとりわけ敏感に反応する」という多民族国家の場合には(同上、2頁)、まさに丸山氏が指摘したように日本的な「国民」という概念は存在しがたいと思います。 

 ユルゲン・ハバーマス(Jürgen Habermas) も述べているように, “nationsは「定住地や部落のように地理的に統合されていて、文化的には共通な言語、習慣、それと伝統によって結ばれている 同じ祖先・血筋 を持っている人々が作る集団であるが、まだ政治的に国家組織として統合されていないもの」なのです( Jürgen Habermas, Citzenship and National Identity, in Ronald Beiner (ed.), Theorizing Citizenship 255, 258。これが伝統的な「民族」といわれるものなのです。(もっとも、米国に行けば、nations”は“Jicarilla Apache Nation,”Cherokee Nation,”Cheyenne Nation”などのようにアメリカ原住民を示す個別な部族集団が対象になりますが。)そして、その概念自体が人為的に創られたものであったかもしれないのです。外敵を前に自発的に醸成されるものも、あるいは特定の目的達成のために政策の一環として作り出されるものもあるのです。山内昌之教授が言うように、「<作為的・政治的>な力が働いてつくられたものが、時間を経るうちに<自主的・文化的>な性格に転化していき、それを共有する人びとの<共属感覚>を強めることもある。こうして人びとは同じ『民族』への<共属意識>をもつ」ものなのです(山内昌之、ネーションとは何か―日本と欧米の非対称性、『民族・国家・エスニシティ』、岩波講座・現代社会学第24巻、10頁)  

III.  

中世ヨーロッパの領域国家というものは、その領地の「境界」というものも明確には設定されておらず、隣接する領主との力関係によって左右されるような曖昧なものであったのです。まして、領域内に居住する所謂様々な被支配者たるものも、それぞれ別々の支配者に服し規律されていたのです。「貴族、農奴、商人、職人、組合の親方、僧侶そして聖職者などの社会的地位(身分)が、人々が何の法に従うべきなのか、そして誰がそれを行使するのかということを決めていた」のです(ハースト、前掲、59頁)。「領主」といえども、その統治下に居住する住民をして、その領主の領域に対して排他的な同一化を可能にする文化的、社会的、且つ政治的な要素が不在であったのです。ハンザ同盟にしろ、騎士団にしろ、交易で富を築き上げてきた都市にしろ、現代の自由貿易主義者と同じように、領域国家の境界を越えることによって海外の交易相手との間での共通の商慣習によって規律されていたのです。  

土地貴族と僧侶との勢力のバランスの上に存在しつつも、領主としての最終的な権威はローマ法王の権威に屈するという封建領主の下でそれぞれの領域国家が競合していた中世のヨーロッパの「世界」は、17世紀のヨーロッパでの30年戦争終焉と共に幕を閉じたのでした。30年戦争の決定的な成果の一つは、ポール・ハーストが分析したように「宗教と領土とが一対一で対応するような排他的同一化」を成し遂げたことなのです。そもそも、当時の宗教の自由とは、ローマ法王に代表されるカトリック教会の教義からの自由と解放であったのです。それが基本的な宗教改革の要求でした。その運動のプロセスの中に政治権力が介入したわけです。封建領主・君主の新・旧キリスト教の教義のどちらかへの加担です。君主が肩入れする宗教教義に反対するものは鎮圧か追放されるわけです。そうすることにより、君主が信奉する宗教と、その領地内に居住する住民との一体化が達成されていったのです。これがハーストのいう「宗教を領域化する」ということなのです(同上、69頁)。宗教の領域化は同時に排他的領土権の確立だったわけです。 

1648年のウェストファーリア条約の成立によって構築されたウェストファーリア体制といわれる新しい制度こそ現代の国際社会の原型を構築したものなのです。その基本的な原則は、領域国家の領土保全とその領主、国王の統治権の尊重です。今日的な概念で言えば「内政不干渉」です。この二つの原則が導いたのは領域内での国王の権限の増大です。長い戦争に疲弊した国内のかつては君主と拮抗できる勢力を持っていた土地貴族・僧侶に代表される封建勢力の衰退でした。もろもろの有力地主貴族の衰退と、それと同時に、国内の僧侶たちの実権が宗教改革に始まるキリスト統一教会の破綻と神聖ローマ帝国の実質上の崩壊により失われたことです。その間に、ハンザ同盟などに代表されるギルド集団などが象徴する都市部に生まれた中世以来の商業資本の発展は、昔からの土地に根付いた自給自足の経済を破壊し、物資・資本の流通網を狭い地域の枠を超えて整備する必要に迫られた都市商業資本は、領主である国王の権威に結びつき、国王は都市部の知識・技術・財力を基に自分に忠誠を誓う常備軍と官僚組織を育て上げたのです。こうして生まれてきたのが「絶対王制」なのです。従って「絶対王政への発展と民族国家の成長とは、しばしば相互連携の関係に立った」訳です岡、前掲、8頁) 

絶対主義王権は対外的にまず第一に神聖ローマ帝国やローマ法皇に対する独立を勝ち取り、対内的に一定の領域内に於いては、王権は他のいかなる領主・貴族や教会の司祭に対して絶対的に優位な地位に立つことになりました。その結果として、同時に対外的には他の絶対王権を認め合うということになったのです。つまり王権国家の国境の尊重とその領域内の統治に対する不干渉という原則ができあがり、[主権国家]として発展してきたのです。近代国家の下地となった絶対王権の下での排他的領域国家内の一般住民の政治的統合プロセスの中で、フランス革命を契機として創り出されてきた概念が「フランス人」としての新しい政治権力との一体化を図る被統治者の統合でした。それを“ナシオン”と呼んだのです。この新しく用いられた「ナシオン“nation”」という言葉を「民族」と呼ぶか「国民」と呼ぶかは、主権国家の形成過程における様々な歴史的状況の偶然の結果だと思います。ちょうどフランス革命当時にプープル主権(人民主権)とナシオン主権(国民主権)のどちらを取るかの議論があったように、その違いは「具体的な統治機構のあり方」にあるというのと同じです(樋口陽一『比較憲法 全訂第3版』青林書院、65)。 ウエストファーリア体制の下で絶対王朝が興隆していた当時の諸国は排他的国境が画定しており、中央集権的な統治制度が備わってくれば、その主権国家内の住民は、その国家に属するという意味で当然の事として「国民統合」あるいは「国民一体化」の対象になるわけです。塩川伸明東京大学教授は「ここでいう『国民の一体化』は、その時点では、言語・文化などの共通性に基づくものではなかった。フランス革命当時、住民の言語は統一されておらず、後に標準フランス語とされる言語を話す人たちは全人口のおよそ半分程度だったといわれている」と述べています(塩川伸明『民族とネイション―ナショナリズムという難問』岩波新書43。つまり、「国民」という概念は国家が存在することを前提としているのです。塩川氏が、その説明と同時に、「しかし、ではフランスにとって『民族』としての統一性がまったく不要だったかといえば、そうはいえない」と付け加えたところに歴史的偶然の結果があることを端的に示しています。何故ならば、「フランス革命後の長い期間を通して、フランス全土に『標準フランス語』が押し広められ、フランス語を共有するフランス国民がつくりだされた」のであって、「国民の一体性」という政治権力による統合政策の外枠があり、「その後に、上からの政策によって言語的統一が推進されていったのであり、それがある程度以上達成された後の『フランス国民』は『民族』的な意味をも帯びることになった」と説明されています(同上)。  

これをnation-state と呼んだのです。つまり、「一つの民族が一つの国家を構成するという国家形態であり、言語や文化も他と異なるのが通常」でした(梶田孝道、「民族・国家・エスニシティ」論の現状と課題、『民族・国家・エスニシティ』、岩波講座・現代社会学24248頁)。そのようなヨーロッパにおける歴史的発展に鑑み多数の異民族を抱える帝国は、その領域内の少数異民族の保護または異民族の解放の対象となり、旧帝国は解体し多数の民族国家として独立していったのです。まさにこれが第一次世界大戦後の「民族の自決」(national self-determination)の原則であったのです(Alfred Cobban, The Nation State and National Self-Determination  (1969) 参照) 

この系譜を柄谷行人氏が正しく以下のように記述しています。「オスマン『帝国』の解体、多数の民族の独立は、西欧諸国家の介入によってなされた。そのとき、西欧の諸国家は、諸民族を主権国家として帝国から解放するのだと主張した」のです( 柄谷行人『世界史の構造』、338頁)。ここで柄谷氏がいう「西欧諸国」とは「絶対主義王権国家」から「主権国家」となった「民族国家」なのです。さらに、柄谷氏は以下のように敷衍しています。 

  西洋列強は、清朝ムガールといった巨大な世界帝国には手が出せないので、それらの帝国の統治形態を非難し、あたかも帝国に従属している諸民族を解放し主権(民族自決)を与えるかのようにふるまった。その結果、旧世界帝国は解体され、多数の民族国家に分解しそれぞれが主権国家として独立する道をたどった。要するに、主権国家の存在は必然的にたの主権国家を創り出す。このように、西ヨーロッパに始まったとしても、主権国家がグローバルに主権国家を生み出さずにはいないのである(同上、249-250)。 

これがレーニンが最初に主張し、米国大統領ウイルソンによって広められたといわれている「民族自決権」の初期の適用です。対象になったのはレーニンにとっては、暴力的に合併されたか、あるいは暴力的に特定の国家の国境内に引き止められている民族であって、その民族がどれほど発達したものでも、遅れたものでも、ヨーロッパに住んでいようが、遠い大洋を越えた諸国に住んでいようが、関係なかったのです(V..I. Lenin, The Right of Nations to Self-Determination, in National Liberation, Socialism and Imperialism p.45 )ウイルソンにとっては、民族自決権の対象範囲は、第一次大戦の敗戦国に対する戦後処理としての「帝国の解体」を求めたヨーロッパに限定されたのでした。これが「民族自決権」と呼ばれた第一段階で、“the right to national self-determination” と表現されていました。レーニンもウイルソンも帝国領土分割のための境界線を“nationality”(民族)を基準としていました。 

第二次大戦の終結間近に採択・署名された国際連合憲章では、創設すべき組織自体が「連合国」(“United Nations”)と呼ばれ「連合国」のメンバー国であることが会議に参加する資格であったわけなのです。まだ独立を果たしていない自治権を強奪された領域を対象とするのに、nations” という言葉を使った“the right of national self-determination”あるいは“the right ofself-determination of nations”では問題があるということで、国連憲章では“the right of self-determination of peoplesに変更されたという経緯があります。つまり統一国家を持たない民族にとって、「国民」などという概念は一切存在していないのです。国連憲章の下での「自決権」は、まず大東亜戦争終結を契機としたアジアの植民地独立戦争と第二次大戦後の反植民地闘争・植民地解放戦争の起爆剤となりました。国連憲章下で脱植民地化を促進してきた「自決権」は、一般的には、欧米植民地宗主国が統治・維持してきた特定の植民地境界線をそのまま国境とした領土、宗主国の統治組織、制度・装置を引き継いで独立を果たしたのです。これが「自決権」の第二段階です。もちろん、この先駆けとなったのは、スペインからその植民地の行政区域を基に独立を果たした南アメリカの新生共和国だったのです。これを「占有物保護の原則」(the principle of uti possidetis)といい、近年、国際司法裁判所の「ブルキナ・ファソマリ共和国の国境紛争事件」の判決で示されているように、現在でも有効な原則として使用されています。 

もともと、植民地の境界線などは宗主国間の力関係と都合によって恣意的に線引きされてきたものにすぎないので、その境界線の内側には、異民族が同居していることが多々ありました。あるいは、一つの民族が居住していた土地が植民地となり線引きされ、二つの異なった宗主国植民地として分断されるということも珍しいことではなかったのです。それでも、同じ宗主国フランスの植民地であったインドシナのように、最初からヴェトナム、ラオスカンボジアという三つの別々の国に分かれて独立するという運の強い植民地も存在してましたが、脱植民地化のプロセスのなかで独立を成し遂げた多くの国家は、宗主国の植民地境界線を引き継ぐことにより少数の異民族を国内に抱え込む結果になったのでした。それは一口で言えば、多数民族の支配と少数民族の従属の関係を国内に創り出すことだったのです。国連憲章下で“national self-determination”という言葉が消え去ったと同じように、かつての第一次大戦後の独立国に与えられた一つの民族が一つの国家を創るという「民族国家」(“nation-state”)という言葉も、多民族が一つの国家を構成するという現実に直面して、単なる「国家」(“state”)と呼ばれるように変わって行ったのです。この国連憲章下での第二段階の「自決権」は新たに「主権国家」として承認された独立国の中から、更なる「自決権」を求める少数民族の存在です。これが「自決権」の第三段階といわれる既成の独立国家の一部が分離して新たな独立国となる段階です。インドのように長く「ヴィクトリア・インド」としてインド亜大陸を支配した宗主国イギリスは、インドと島国セイロンとに独立を許さずにはおられなくなり、そのインドも独立後まもなく、1947年の「インドの分割」(Partition of India)と呼ばれるイスラム教徒側のパキスタンが、双方合意の下に分離独立した例もあります。そのパキスタンも地理的にはインドを挟んで東西パキスタンに別れていましたが、1971年に東パキスタンが新たにバングラデッシュとして分離独立したのです。同じように宗主国イギリスから1960年に独立したアフリカのスーダンでも宗教・人種の違うディンカ人を中心とする南スーダン40年にわたる戦いの末2011年7月にスーダンから分離独立しました。 

 

IV. 

このような第一次大戦後から今日までの「自決権」の変遷を如実に捉えているのがユーゴスラビアの統合と分裂の歴史です。第一次大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、様々な王国が複雑な民族の離合集散を重ねて第二次大戦まで不安定な諸国家を形成していましたが、1989年にはユーゴスラビアは、ボスニア=ヘルツゴヴィナ、クロアチアマケドニアモンテネグロセルビア、スロバニアという別々の自治共和国を組み入れた連邦共和国でした。「国民国家」論者からしてみれば、ユーゴスラビア連邦も、同じく連邦国家であるアメリカ合衆国と同じように、連邦としての「国民国家」なわけです。1990年代初期に勃発したユーゴスラビア内戦の結果、ユーゴスラビアの解体が始まり、19916月にスロバニア共和国、同年9月にマケドニア共和国、同年10月にクロアチア共和国19923月にボスニア=ヘルツゴヴィナ共和国に分離独立して行ったのです。1999年末にはセルヴィアとモンテネグロだけがユーゴスラビア連邦に残っていました。そのモンテネグロ20066月に独立を宣言し、セルビアも同じく6月にセルビア共和国として独立したのです。これまでのユーゴスラビア連邦の分裂・解体は、それぞれの「民族」を主体とした連邦構成国が独立して新たな「民族国家」を創りだしたということは、国連憲章下の「自決権」の様態が第一次大戦後の「一つの民族による一つの国家」方式の第一段階に逆戻りしたような印象があります。そして、最後に、セルビア共和国からコソボ自治州を構成するアルバニア人が分離独立するわけです。新たに生まれたのが「コソボ共和国」なのです。コソボ自治州セルビア共和国の植民地ではなかったのです。しかし、政治的単位と一定の領域を基盤とする民族的単位が一致すべきであるというナショナリズム政治原理に従って分裂・独立して行ったのです。それと同じように中国西部のチベットウイグルなどの諸民族は「自決権」を要求しているのです。 

この一連の「主権国家」成立過程とその既存の主権国家から新たな「主権国家」が誕生してくるプロセスを考えると、「国民国家」などという概念・言葉がどこに入る余地があるのか理解できないのではないでしょうか。ここで最も大事なことは、ハーストが断言しているように、「一貫した領土性、排他的な主権を持たないすべての政治体は徐々に国際システムから正当性を奪われ、排斥され」てきたのが事実なのです(ハースト、前掲、69)。少数民族を抱える多民族国家においては、その国家の政治形態が民主主義に基づき実践されているものであれば、異民族間のそれぞれの市民の間には「国民的」政治統合を許すに必要な、ある程度の同質性が存在すると思います。従って、国連の「友好関係原則宣言」(A/RES/25/2625)にも、「人民の同権及び自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国家の領土保全又は政治的統一を、全部又は一部、分割又は毀損しうるいかなる行動をも承認し又は奨励するものと解釈してはならない」と規定されているのです。カナダのケベック州を考えてみましょう。イギリス系の勢力が圧倒的なカナダという主権国家の中で、本来、フランス領であったケベックはフランス語系住民が多く、フランス語が公用語であり、フランス民法典が踏襲されているという特異な立場を持っています。その根底には絶えずくすぶっている「ケベックの分離・独立」の心情が存在するのです。ケベック州のモットーこそ、Je me souviens(忘れない)、その心情を象徴しています。1970年にユネスコが主催した「紛争防止への貢献としての自決権の実践」と言う専門化国際会議の報告書に以下の記述があります。 

  国家はそれぞれの民族の特徴に基づき形成されるべきであるという仮説に基づいた19世紀ヨーロッパにおける民族国家の形成を導いた原則は、今日では欠陥があり、危険なものになりうるとされている。実際には、重複する民族ethnicitiesや複合的な自己認識(identities)が存在するのである。まさに、真の民族国家などはほとんど存在しないのだ。と、同時に、民族という概念も一つの現実なのだ。まして、非常に強力なものでもある。国家が創られ、崩壊したり、消滅したりしても、民族は生き延びる傾向がある。これは根絶された民族がいないという訳ではない。例えば、アメリカ大陸の初期の民族の多くは集団虐殺の結果もはや生存していない。問題は、国家が権限を実効的に行使する、単なる人工的で、実用的な産物であっても、そして、そのような国家としての産物の多くが外部の植民地宗主国により、地理的、民族的、あるいは歴史的現実を無視して、押し付けられたものであっても、民族は世代から世代を束ねる古くまた心の底から感じさせる現実であって、境界や支配者の変遷を生き残るものである。多くの民族は、それぞれの特異な独特な生活を消そうとする外部からの一致協力した努力をも生き延びてきた。よって、例えば、フランス国家権力によって、フランス国民としての自己認識を創りだすために、すべての民族集団を吸収して、それらの特有な自己認識を抹殺しようとした数世紀にわたる組織的な努力の後であっても、ブルトン人、コルシカ人、アルサシア人、そしてバスク人という諸民族は今でも生存し続けている(The Implementation of the Right to Self-Determination as  a Contribution to Conflict Prevention; Report of the International Conference of Experts held in Barcelona from 21 to 27 November1998 

以上のような「一つの民族」が「一つの主権国家」を形成するという原則は、その後の主権国家形成の変遷が明らかにしたように、「単一民族国家」という概念も、現代の脱植民地化による新興「多民族国家」の出現により、その誤謬性が露呈したのです。現代国際法では“nation-stateという用語は既に法律用語としては存在していないのです。よって、一般に使用されている言葉は、「民族」(nation)を削除して単に「国家」(“state”)なのです。 「国民国家」という日本だけで通用する概念を一つの主権国家の形成過程の歴史的な変遷を歪曲して、国際関係を分析するのに「国民国家」などと当の昔に捨てられた用語を今になっても使っていることが不思議でなりません。  

V. 

さらに不思議なのは、日本が「単一民族」であるという神話が敗戦後の江藤淳がいう「閉ざされた言語空間」の中で創りだされてきたという事実です。平和憲法といわれる新憲法を連合国占領最高総司令部の下で採択・公布された基本法を広く世に浸透させ、遵守させる必要があったことは事実です。多分、そこには、新生日本は「五族協和」などのスローガンの下での異民族支配を放棄するという期待があったのでしょう。新たな国民像を創りだすことこそ対日占領政策に合致していたのです。そういう占領下での政策的な流れの中で、かつて一般的に使われていた「国益」という言葉は、冒頭に挙げた岡教授の例にあるように「国民的利益」という言葉に代わり、その横に「ナショナル・インタレスト」とあえてルビを振るわけです。あたかも外国語のルビが振ってあれば民主的であるかの如くにです。坂本教授が、それに似たような面白いことを言っています。 

   「現実主義者」も「理想主義者」も、国際紛争解決の手段として「外交」の重要性を認めます。しかし前者は、「国益」という、誰の利益か曖昧にされたフィクションを目的として掲げる外交を指すのに対して、後者は、具体的な市民の利益である「民益」の擁護を目的とします。そして「民益」を定義するルールが民主主義です(坂本義和『人間と国家――ある政治学徒の回想 (下)』岩波新書195 

 坂本氏のいう「リアリズム」は「現実主義」に“リアリズム”とルビを付けたらどこに違いがあるのかと思います。まして、「民益」は「国益」と具体的にどこが、どのように違っているのかという説明はなされていないのです。「民益」を定義するルールは同じように「国益」を定義するために使用できるわけですし、「民益」というのも、誰の利益か曖昧にされたフィクションを目的として掲げる外交を指すものなのです。その理由は憲法学者のほうから出ています。 

     社会全体に共通する客観的公益などというものは存在せず、あるのは多様な利益集団が競合と妥協の末に各自の目的を可能な限り実現しようとする多元主義的なプロセスであって、その結論を「公益」と呼んでいるにすぎない(長谷部泰男「世代間の均衡と全国民の代表」、奥平康弘・樋口陽一(編)『危機の憲法学』弘文堂、205207 

つまり、「国益」と呼ぼうが「国民的利益(ナショナル・インタレスト)」でも「民益」でも「公益」であろうとも、すべて同じであって、そういうレッテルの下に、どのようなプロセスを経て、具体的な結論が創りだされてくるかの差だけなのです。ということは、国内の統治や民主政治制度のあり方の問題なのです。つまり、この現象はすべて国内的な政治事象なのです。にも拘らず、なぜ「国民」と言う概念がこれほど中心的な焦点となったのか明らかにされていないのではないかと考えます。ヘーゲルがうまい解説をしています。 

   国家が市民社会と取りちがえられ、国家の使命が所有と人格的自由との安全と保護にあると決められるならば、個々人としての個々人の利益が彼らの合一の究極的目的であると言うことになり、このことからまた国家の成員であることはなにか随意のことであると言う結論が出てくる(ヘーゲル、前掲、217-218)。 

この論理から導き出されるものは、ルソーやロックに代表される市民革命の理論付けを打ち立てた個々人の契約論なのです。そして「市民社会」を国家と対峙する位置に置くことによる国家への不振、嫌悪、否定等の問題でしょう。特に日本の場合には、超国家主義とまでいわれた「統帥権の独立」をかさに展開された政治状況に対する反動でしょう。そこから導かれるものが、西川氏が主張するように「国民国家は崩壊すべきもの、乗り越えられるべきもの」という考え方なのです(西川、前掲、281)。もちろん、現在の科学技術・交通・通信などの驚異的な発達に裏付けられたグローバル化の波は、主権国家の条件といわれた排他的国境を無きものとする如く資本、物、人の動きは、非国家組織・団体の増大する力をもって、主権国家の排他的権限を通り抜ける状態を創り出しています。その勢いは、あたかも「国家」たるものが徐々に解体しつつあると言われるまでに成長しているのも事実なのです。そのような非国家組織・団体が行使する機能的な専門分野における権限は重層的で、複合的で、しかも競合的なものなのです。いまや、かつての中世における社会的身分や職業に従ずる個々人の集団の如く、その属する集団の“権力者が”作り出す慣習・規則に服して、その集団が表面的には属する領域国家の“主権者”からは、実質的にあまり拘束されていなかったという状況を彷彿させています。ハンザ同盟に代表されるような中世ヨーロッパの「非領域組織」が、その「超領域性」あるいは「無境界性」ゆえに独自の権力と自治能力を増進して、一時は領域国家と競合関係に入るような勢力を享受していたこともあったのです。しかし、終局的には、領域国家の排他的領土権が確立していくプロセスの中で非領域組織は漸進的に領域国家君主の権力に従属して行ったのでした。相互に承認されることにより成立する「主権国家」の原則が確立された時には、排他的領土を保持しない非領域組織は「主権国家」となるべき必須要件を欠いていたので、より包括的な国際秩序システムが形成されるプロセスの中で排斥され消滅していったのです。そのことを端的に表しているのが国連憲章の前文です。「われら連合国の人民は」で始まった前文は、「われらの各自の政府」が「同意したのでここに国際連合という国際機構を設け」たのです。主体が入れ替わっているのです。「連合国の人民」はその人民を代表する「政府」に、そして、その「政府」は、「主権国家」を代表するものなのです。その主権国家が創る組織の基本法である国連憲章は相互の排他的権限を保護するために内政不干渉の原則を憲章第2条第7項に明確に組み入れているのです。 

この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託することを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第七章に基く強制措置の適用を妨げるものではない。  

この最後の憲章第七章に関する但し書きが実際に発動されるのは非常に稀なことなのです。安保理の実質事項に関しては「大国の一致」原則により安保理の常任理事国全員の一致を必要としているからです。 

 しかし「グローバリゼーションと呼ばれる、すべてがふくまれるような大風呂敷の概念」(猪口孝『国際関係論の系譜』東京大学出版会16が排他的領土権を中核とする主権国家の権限を弱体化させているといわれています。例えば、世界貿易機関WTO)の大原則の一つである「国内待遇」(national treatment原則により、外国企業でも一度国境を越えたら自国企業と同じ待遇を享受できるようになると思えば、資金、通信が手軽になればなるほど“国境を越える活動”は、主権国家の手で今まで無かったほどに締め付けが厳しくなっています。2013年に起きたスノードン事件が明らかにしたように(鈴木英輔「スノーデン事件と『世界市民』」http://hojorohnin.hatenablog.com/entry/2013/08/01/105545、国境の内外を問わず国家の静かな監視の眼は人々の日常生活の中までに入ってきているのです。便利だと思って日常使っているカードやディヴァイスは、その使用者個人の行動に関する情報を本人が知らずの内にすべて取得されているのです。それがビッグ・データといわれるものです。  

上に引用した国連憲章2条第7項の「国内管轄権」を楯に言語道断の人権侵害が特定の国家に発生していても安保理は「人権問題」を理由に憲章第7章の強制措置を執る決議を採択したことがないのです。その一方で、「人道的干渉・介入」という国際慣習法に基づく第三国の強制行動を容認する動きが出てきています。また、一昔には考えられなかった「保護する責任」(Responsibility to Protect)の決議が2006428日に安保理で全会一致で採択されているのです(UN Security Council Resolution 1674 (2006)。それほどに、「国際的懸念事項」(a matter of international concern)原則が益々受容されてきています。したがって、現在の主権国家を中心とした国際システムは、紆余曲折、試行錯誤をしながらそのシステムの構成員である主権国家に属する非国家組織・団体の持つ国際問題に関する要求と期待をいかに処遇するかに苦心しているのです。何故ならば、これら非国家組織・団体は一つの主権国家が持つ「国力」の一部を形成しているからです。国際的政治場裏で実効的な活動と有意義な役割を果たそうという期待は国家も非国家組織・団体も相互に共有しているものなのです。しかし、そこには主権国家としての大きなジレンマが存在します。主権国家は、国際システムの公式な「意思決定の場」に主権国家として承認されていない行動主体が参入することをを排除しなければならないという「門番」の役割を負っているからです。そのような門外漢を排除する一方で、主権国家は、非国家組織・団体が持つ特定分野における専門的な知識、技術、信頼性、信用度、現場の知識・経験、行動力などを自らの国益を追求する上で必要としているわけです。このような国際環境の変化を考えれば、もはや一国の政治を伝統的な「国内政策」と「外交政策」とに分離する意味がなくなったのです。当の昔に、外交は「外務省」の占有事項では無くなっているのです。この主権国家のジレンマを実効的に解消するためには、国際的な意思決定が執られる公式の場に「門外漢」とされる非国家組織・団体の参加を可能にするようなアクセスを創り出すことなのです。 

アントニオ・グラムシによると、「市民社会の強靭な構造」は国家の核心に存在しており(Antonio Gramsci, “State and Civil Society,” in Selections from the Prison Notebooks of Antonio Gramsci  210, 238、 国家こそ外郭の堀に過ぎなく、「市民社会」はその外郭の背後に「強力な要塞と土塁システム」として存在しているのです(グラムシ、同上)。グラムシは、国家は「政治社会」と「市民社会」とから構成されていると考えていました。さらに「政治社会の枠」の中に「複雑な、はっきりと、理路整然とした市民社会」を私個々人のイニシアティヴにより構築するべきだと主張していたのです(同上、268)。したがって、「市民社会」の民間の個々人が活動できる場を開けた形で設け、国内の政治場裏を通して公式な国際的意思決定の場へ開けたアクセスを確立することが、「市民社会」が一国の「政治社会」の一部として参加することを可能にし、一国の対外政策をより民主的な一般意志を反映するものにするのです。何故ならば、主権国家は現代の国際秩序システムの「門番」の役割を果たすことによって、自らの国力の一部である市民社会を排除しているです。その主権国家は政治社会と市民社会とによって構成されていることを認識して、相互に牽制・扶助できる関係を持つべきなのです。そのためにも、情報の開示と意思決定者の説明責任と、その意思決定に利害関係を持つ一般市民の意思決定プロセスへの参加というガバナンスに対する三つの基本的な要件を満たすことが前提条件になるわけです。 

このような視点に立てば、市民社会というものは、個人か国家かという二者択一を迫るものではなく、グラムシが主張するように、政治社会の一部であり、「私」の個々人が結成する非国家組織・団体は政治社会に対峙・抗争するべきものではないのです。それどころか市民社会は、政治社会の「通常の延長であり、その有機的な補完体」なのです(同上、239)。現在の主権国家中心の国際秩序システムを「単に外的所与として受取る人間から、秩序に能動的に参与する人間への転換」が果たされなければ、国内秩序システムから国際秩序システムへの連結はできないのです。丸山教授の言葉を借りれば、「個人的自主性なき国家的自立」はありえないのです。したがって、市民社会の一人ひとりが主体的な責任意識を持ち能動的に国家の政治に参加していかなければ、「苛烈なる国際場裏に確固たる独立性」を確立することは出来ないのです。 

国民国家」などというある歴史的な経緯のなかで生まれてきた過去の概念を使用することこそ、過去の言説(言語体系)(小熊前掲、18)に縛られることになり、現代の国際秩序システムの理解に障害こそになっても、メリットはまったく無いと思います。現代の国際関係を記述するのには、「主権国家」あるいは単に「国家」で充分なのです。今後、「国民国家」という表現は棄てましょう。###