非ヨーロッパ国家による「世界史の転換」の試みの失敗と大東亜戦争の意味すること

非ヨーロッパ国家による「世界史の転換」の試みの失敗と

大東亜戦争の意味すること

 

鈴木英輔

 

はじめに

グローバリゼーションの波がうねっている今日この頃であっても、世の中の思考の仕方、理念・原則の実践の仕方、嗜好、生活様式などは、いくら「世界は一つ」と謳歌しても一様には成らなかったのです。非ヨーロッパ世界の独立により高山岩男(こうやままいわお)のいう「世界史の転換」が起こったのです(高山岩男『世界史の哲学』こぶし書房、2001年)。国際連合が「植民地独立付与宣言」を総会で採択したのは1960年12月14日であって、その時の総加盟国数はわずか99カ国でした。 

   1839年から始まった英国と清国のアヘン戦争はアジアと西洋との100年戦争の始まりと呼ばれた戦争だったのです。 それは、高山岩男のいうように「自己の特殊な歴史的世界の原理」、つまりヨーロッパという一個の特殊的世界の原理を「そのまま連続的に延長拡大して、普遍的原理でもあるかの如く考える一元論」の実践でした(高山、前掲)。その原理は15世紀中ばから17世紀の「大発見時代」(“The Age of Discovery”)とへと繋がり、18、19世紀の「帝国主義時代」へと延長拡大されていきました。そもそも日本で“The Age of Discovery”というヨーロッパの特殊的世界の立ち位置からの見方を退け、それとは別に「大航海時代」という新たな名称を創り出し使用することこそがヨーロッパ的世界一元論に対する非ヨーロッパ国家日本からのささやかな抵抗であったのです。

   日本が執ったその抵抗の歴史は開国の時点から既に始まっていました。現在、「主権国家」として「他の主権国家」から承認されなければ国連の加盟国になれないと同じように、18世紀後半以降の世界の中で、「大航海時代」を拓いてきた技術、知識、財力と未知の世界へ行くという気概を持っていた「文明国」と認められる「国」だけが同等の待遇を受けられたのです。つまり、柄谷行人の言うように、「主権国家という観念は、主権国家として認められない国ならば、支配されてもよいことを含意する。ヨーロッパの世界侵略・植民地支配を支えたのはこの考えである。ゆえに、そのような支配から脱するためには、諸国は自ら、主権国家であると主張し、それを西洋列強に承認させなければならない」(柄谷行人、『世界史の構造』岩波書店、2010年)、という現実がありました。「文明国」として承認されなければ、「国際的水準」に見合う統治能力を否定されたのでした。それが近代の国際法にのっとって日本が結んだ最初の条約である日米修好通商条約に規程された「治外法権」の設定と「関税自主権」の喪失という形で現れたのでした。この屈辱的な「不平等条約」の改正こそが歴代内閣の大きな課題となったのです。「治外法権」つまり「領事裁判権」の撤廃は1894年の日英通商航海条約の締結を待たなければ成し遂げることはできず、「関税自主権」の方は、さらに1911年まで交渉を重ねる努力を強いられたのです。この「不平等条約」の種本がどこに在ったかといえば、アヘン戦争を終結した1842年の南京条約でした。

   その「不平等条約」を西欧列強に拡散する手法が「最恵国待遇条項」(Most Favoured Nation Treatment Clause)と呼ばれるもので、「文明国」である仲間同士は、その仲間内のどの国でも、第三国とよりよい条件で条約を結んだときには、同じ様に良い待遇を他の仲間同士に与えることにするという条文です。但し、この「最恵国待遇条項」というのは、「文明国」同士の間で適用されるものでした。したがって、日米修好通商条約の条文には、アメリカがよりよい特権や待遇を他の諸国に与えた時には、同じように日本にも同等な特権や待遇を与えるとは規定されていなかったのです。この「最恵国待遇」原則も一方的に「文明国」の利益のためだった不平等極まりない条文だったのです。その結果、次々と西欧の列強と「不平等条約」が結ばれたのでした。それが「世界史」の流れだったのです。本稿では、その「世界史の転換」を考えてみたいと思います。

 

I.

国際連合の創設時点、1945年における加盟国、つまり主権国家として認められている国の数はたった51カ国でした。ですが、そのうちのフィリピンはまだ1946年7月4日まで正式に独立国としての宣言もしていなかったし、同じようにインドもイギリスから独立したのは1947年8月15日であったのです。本来ならば、主権国家でないものは国連加盟国には、成れないはずなのです。これも植民地宗主国が連合国の大国であったからできた話なのです。2011年に国連の監督の下にスーダン共和国から分離・独立した南部スーダンが最も新しい加盟国となり、現在の加盟国数は193カ国にもなったのです。どこにこの差が出てきたのかというと、その多くのアジア・アフリカ諸国はかつては欧米の植民地であったという歴史的事実なのです。そこには、高山が云う新たな「世界史の転換」を求める動きがあったのです。それが大東亜戦争という植民地宗主国英国、米国、オランダを相手にした戦いであったことは否定できないのです。

   アジアに焦点を定めれば1940年時点の真の独立国は日本、タイの二カ国だけだったのです。「植民地アジアでは、インドネシアもマレーもインドシナもみなこれまで西ヨーロッパのための大きな所得生産者であった。しかもそれが生産する物質はゴム、錫、石油、ボーキサイト、晩や、キニーネなどという国際的重要性を持つ戦略物質であった」と当時米国随一のアジア通であったオーエン・ラティモアが『アジアの情勢』のなかで淡々と述べています。フィリピンは米国の植民地、ミャンマービルマ)、マレーシア、シンガポール、香港、インド、パキスタンスリランカ(セイロン)は英国の植民地、インドネシアはオランダの植民地だったのです。カンボジアラオス、ヴェトナムはフランスの植民地でした。日本は当時、対中国国民政府軍への米英の援助を阻止するために、時のヴィッシー政権との合意の下で日本軍は仏印に進駐したのでした。但し、ヴィシー政権というものは、ナチ・ドイツがフランスを占領することにより成立したもので、他の世界からは承認されていない政府だったのです。日本にとってインドシナ進攻こそ最大の失策だったのです。

   その戦いを遂行するプロセスの中で、対戦相手の領土である植民地を攻撃し、占領したわけです。それを「侵略」と呼ぶならば、日本軍が攻撃する前に既に植民地として宗主国の利益のために経営されていたこれら欧米の植民地は、どのような経緯を通じて欧米宗主国の植民地になったのか考えるべきなのです。「非文明国」又は「未開の地」として欧米宗主国に略奪されていたのです。「正しい歴史認識」を主張するお偉い方々は、当時のアジアには、日本とタイの二カ国以外の他の国や民族・部族は、欧米宗主国に征服され、支配され、隷属させられていたのだということを忘れているようです。ドナルド・キーンが欧米の植民地支配からの解放をもとめ、自国の独立を戦い抜こうと決心していた植民地の原住民指導者たちの姿をリアリスティックに描いています。

    

 「日本人が東南アジアに作った政府は、よく「傀儡(かいらい)政権」と呼ばれた。これは各政府が無能な人物によって率いられ、その主な仕事は日本からの命令を実行に移すことにあるという意味だった。しかし、当の「傀儡」たちの名前を一瞥すれば、この命名がいかに見当違いなものであるかがわかる。日本が支援したビルマ、フィリピン、インドネシア各政府の首脳(それぞれバー・モウ、ホセ・ラウレル、スカルノ)は、いずれも傑出した人物で、日本の敗戦後も各国で高い地位を維持し続けた。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)は自由インド仮政府首班を自任し、インド独立のために献身的に働き、しかも断じて日本の卑屈な追従者ではなかった。これらの指導者たちは、いかなる困難があろうとも、日本との協力によって自分たちの国の植民地支配を終わらせることができると考えていた(キーン、『日本人の戦争』、前掲)。」

 

 もちろん、これらの指導者は、「大東亜共栄圏」を主唱し「大東亜新秩序」を創りだそうとした「大日本帝国」のなかには、朝鮮と台湾が組み入れられていて、その住民は「大日本帝国臣民」として扱われていたことも知っていました。さらに、「八紘一宇」や「五族協和」というスローガンの下で日本が創り上げて、支配していた「満州国」が存在していたことも周知のことだったのです。にも拘らず「彼らが日本を支持したのは、大東亜共栄圏に属する国々に独立を与えるという約束を日本が本気で果たすと信じたからだった」、とドナルド・キーンは断言しているのです。

 こういう話は戦勝者の「太平洋戦争史」の中には出てこないのです。所謂「正しい歴史認識」を甲高く叫ぶ御仁は、敗戦後の「閉ざされた言語空間」が創りだした虚構の世界から未だに抜け出すことが出来ずにいるのです。その結果、東南アジアのすべての国々が欧米宗主国の桎梏の下に置かれていたことを全く忘れているのです。

 当時のアジア諸国の実状は、ヨーロッパ中心の世界一元論の下で、欧米諸国は宗主国として自国の姿を植民地に移植し自国との同一化を押し進めたのが実態でした。これは、高山が云う「無自覚な世界一元論」の原理を「連続的に延長拡大」してきた結果でもあったわけです。日本が世界史の転換を求めたのは、多元的な世界史的世界の構築には、ヨーロッパという特殊的世界とは別に非ヨーロッパの一つの別な特殊的世界の創造が必要であったからです。何故ならば、「特殊性の自覚は同時に普遍性の目覚め」であり、「普遍的世界或は世界史的世界の成立には、却ってその半面に特殊的世界の確立」が供わなければならないからです(高山、前掲)。そこに創り出された地域的秩序が「大東亜共栄圏」というものでした。そしてその大義のために戦ったのが「大東亜戦争」だった、といわれました。しかし、多元的な世界史的世界を追求する「世界新秩序の原理」(西田幾太郎『世界新秩序の原理』青空文庫(2004年))は欧米の一元論的な「帝国主義」ではないと言いつつも、英国の植民地が英語を話し、オランダの植民地でオランダ語が使用され、米国の植民地でアメリカ英語が以前の支配言語であったスペイン語に取って代ったのと同じように日本の占領下においても日本語教育が強制されたのでした。(但し朝鮮においては日本は、その植民地政策の一環としてハングルの使用を復活させ漢字・ハングル混じり文の奨励を進めました。)つまり、日本も欧米の植民地宗主国と同じように自国の「万世一系」と「八紘一宇」の世界観を強制的に押し付けるという「帝国主義」を実践することに忙しくて、欧米宗主国からの独立を求めて日本に協力した被統治者の希望や期待は踏みにじられたのでした。従って、「『大東亜戦争』を植民地解放戦争とみるよりは、むしろ植民地再編成をめざす戦争とみるほうが、事実に即している」と批判されたのです(上山春平『大東亜戦争の意味―現代史分析の視点』中央公論社、1964年)。

 それでも大東亜戦争の大義の一つは大東亜共同宣言に掲げてあるようにアジアの解放と人種差別撤廃を目指したものだったのです。かつて、国際連盟規約採択過程で、「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」という「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとした日本の提案も、パリ講和会議の議長であった米国ウィルソン大統領の反対にあい否決されたという苦い経験をしてたのです。これは、昭和天皇をして「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時、之を抑へることは容易な業ではない」と記録させているほど日米間の禍根となっていたのです(『昭和天皇独白録』、文春文庫(1995年))。日本が大東亜共栄圏を謳い、大東亜新秩序というものを建設することを明らかにした大東亜共同宣言は、欧米宗主国の植民地に対する主権の回復を唱えた米英の「大西洋憲章」に対抗するために出されたものだったにも拘らず、その作成過程においては「植民地に生きる」当事者である大東亜会議の参加者のさまざまな修正案を悉く退けたという日本の独善的な宣言に終わりました。それが満場一致で採択された宣言といわれたものでした。だからといって、ビルマのバー・モウ首相、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースにしても、南京政府汪兆銘(おうちょうめい)にしても、その全ての人が各々確固たる政治信念を持っていた立派な人物であり、単に傀儡政権と切り捨てられるものではなかったはずです。日本が彼らを利用したと同じように彼らも日本を自分の国の独立のために利用したのでした。そこには基本的な共通意識として、ヨーロッパ的一元論の世界への非ヨーロッパ世界の従属からの解放と漸次対等な存立を求める行動があったことは否定できないのです。オーエン・ラティモアの評価がそのことを裏付けています。「日本が立派にやり遂げたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀的構造を破壊することであった」と(オーエン・ラティモア『アジアの情勢』河出書房(市民文庫))。結果としては、

   

   「これまでかつて武装したことのなかった植民地諸民族は武器を所有しだした。かれらは領土のもろもろの部分を支配するようになった。新聞やラジオを自分たちの手におさめた。日本人の下では、かつて財力と権力とをふるった人々のなかの一部のものはその金力や特権を、また時にはその両方を、失った。新しい人々が勢力を得たのであった(同上)。」 

 

 大東亜戦争には敗れたといえども、戦時中に日本が占領した欧米の植民地は、その大義に沿って欧米宗主国から解放され、オランダによるインドネシアの、フランスによるインドシナの再植民地化の試みにも拘らず、すべての植民地(香港を除く)が新たな独立国となったのです。

 

II.

 日本は、幕末以来、怒涛の如く押し寄せる帝国主義から身を護るため帝国主義を身につけ、独立を維持してきました。その結果として帝国主義国家にならざるを得なかったのです。そして「世界史の転換」の戦いに無残にも敗れたのです。 

 歴史は勝者が自らの行為を正当化するものなのです。田原総一郎が言うように、「敗戦というのは決定的な結果であり弁明のしようのない致命的な失敗なのである。どうも私たち日本人には、連合軍がきめつけた“侵略戦争”というよりは敗れる戦争をしたことこそが致命的な失敗という認識が希薄なようだ」と(田原総一郎『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか―アジア主義者の夢と挫折』、PHP研究所、2011年)。その勝者の歴史認識を徹底的に敗者である日本人に“洗脳”させたのが敗戦後の日本を占領支配したGHQだったのです。連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の政策の第一弾が民間情報教育局の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の一環として作成された『太平洋戦争史』が「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した」のだということを認識すべきなのです(江藤淳『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫、1994年)。この『太平洋戦争史』は昭和20年(1945年)12月8日から全国の新聞紙上に10回にわたって掲載された占領政策用の宣伝記事であったのです。この連載の開始の日付が12月8日というのは、たまたま偶然のことではないことは明白なことです。そして、その一週間後、GHQは、12月15日に出された神道の国家からの分離、神道教義から軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除を目的としたGHQ覚書、「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(所謂「神道指令」によって、「『大東亜戦争』、『八紘一宇』ノ如キ言葉及日本語ニ於ケル意味カ国家神道軍国主義超国家主義ニ緊密ニ関連セル其他一切ノ言葉ヲ公文書ニ使用スル事ヲ禁ス、依テ直チニ之ヲ中止スヘシ」としたのです。これによって「大東亜戦争」という用語の使用が禁止されたのです。 同時に、徹底した言語統制を実施しました。連合国の占領下のことですので、この指令に服すことは致し方ないことだったのです。

 ここで「大東亜戦争」という名称について一つ確認しておきましょう。「大東亜戦争」は1941年(昭和16年)12月12日に、以下のような文面で閣議決定されたものです。

   

   「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス。」 

 

 これを受けて、内閣情報局は「大東亜戦争と称する所以は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」と同日発表しました。この呼称が政府の公式名称であり、前記のGHQの指令が出るまで使用されていたのです。そしてサン・フランシスコ講和条約の発効に伴い、「神道指令」も1952年4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」によって、その効力を失いました。しかしこの「神道指令」は「別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、この法律施行の日から起算して180日に限り、法律としての効力を有するものとする」の規定によって自然失効した訳です。

 「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのです。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではないのです。しかし、所詮、「勝てば官軍、敗れば賊軍」の世界なのです。GHQの熾烈な事前検閲によって強制的に勝利者の「太平洋戦争史」のみを許すという「閉ざされた言語空間」の中で育まれてきた「特異」な歴史観が醸成されてきた訳です。熾烈かつ執拗なGHQの事前検閲の下で、時がたつに従って、強制的に押し付けられた歴史観は不思議なもので「自発的な」もの、「習慣的な」ものに成ってしまったのです。事前検閲は既に述べたように、1945年10月から実行され1948年7月まで続いたのですが、それ以降は「事後検閲」に移行しました。

 検閲が「事前」に行なわれるのか、「事後」に執行されるのかには、大きな差があったのです。「事前検閲」は発行・出版以前の編集者としてのゲラ刷りの最終校正を検閲に提出するので、たとえバッサリ切られても、その箇所を再度校正し直せば済む事で、それに掛かるコストも時間も我慢できるものでした。それに比べ「事後検閲」は最終校正を済ませ、その最終校を実際に印刷し、発行・出版した後に完成品を検閲に差し出すのでした。その場合のリスクは計り知れないものがあったのです。従って、本来のGHQの検閲官の判断を忖度しながら「自己検閲」をするわけです。リスクを出来るかぎり排除しようとすれば、それだけ「自己検閲」を通過するためのバーは高くならざるを得なかったのです。つまり、自らGHQの掲げた検閲基準よりも厳しい基準を設定し、その基準に恭順したのです。そしてその習慣が新聞、雑誌、その他のマスコミ・メディアに従事する記者、報道者、編集者のみならず、学術研究者の脳裏にも内在化されていったのです。上山春平はその原因を以下のように説明しました。

 

   「私たち日本人は、自分の思想や行動が社会に安全なものとして通用するかどうかという点について、じつに鋭敏な感覚をもつ国民ですから、ときの権力がいわば言論活動の枠として示したものにたいしては、驚くべきほど忠実にふるまったのです。そしていつのまにか、その枠が占領軍によって強制されたものであるということを忘れて、自分の考えであるかのように思いこむようになっているむきが多いのではあるまいか、という気もいたします(上山、前掲)。」

 

 そのような状況の下で、勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が「追放をまぬがれた言論人の虎の巻となり言論界の常識となって、今日にいたっている」のです(同上)。その傾向に拍車を掛けたのは云うまでもなく、GHQの検閲のために日本語を英語に翻訳するために雇われた、一時8000名を越える知識人たちで、その多くの人がマスコミや大学の職場に戻ったり、あらたに就職して行ったのです。こうして世代を超えて勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が今でも受け告げられているのです。

 従って、サン・フランシスコ講和条約の発効と共に主権を回復した時点で、「神道指令」の強制力は既に失効したにも拘らず、政府はなんら手を打たず、あたかも「神道指令」が効力を持つ如く「今次の戦争」、「先の戦争」、或は「第二次世界大戦」など、「太平洋戦争」という名称は使用してなくとも自らの歴史観を取り戻すことはしなかったのです。この恥ずべき状態が今でも継承されているのです。

 異色な歴史作家、関祐二によると、近代日本は、二回過去を捨て去っているといいます。最初は明治維新であり、二度目は「第二次大戦後のことだ」と記しています。関によれば、明治維新が創りだした「『王政復古』は、純粋な古代天皇制への復古ではなく、実際には西洋的で一神教的な天皇への変貌であった」といい、二度目に過去を捨て去ったのは、「戦後のインテリ層は、連合国が押し付けた『すべての責任は日本にある』という歴史観に『迎合』し、過去の日本を拒絶してしまった」からだと説いています(関祐二『呪う天皇の暗号』新潮文庫、2011年)。結果として「大東亜戦争」という名称は日陰者めいた扱いを受けてきました。この扱いは、自衛隊を「日陰者」扱いするのと同じことであったのです。そこには、上山春平によると「『太平洋戦争』史観を鵜のみにする反面、「『大東亜戦争史観には一顧だにあたえようとしないという二重の錯誤の根」があるのです。つまり、「大東亜戦争史観とその国家利益との関係は克明に検証され批判されてきたにも拘らず、その批判の基準として持ちいれられた「太平洋戦争」史観や「帝国主義戦争」史観などはに対しては、それらの各々の戦争が当然持っている国家利益との結合に関しては真摯な批判的考察はなされる事なく、「額面どうり普遍的な人類的価値尺度」として受け入れられてきたのです。その結果、「大東亜戦争史観とそれに対峙する「太平洋戦争」史観等に対する評価がゆがんだことによって「二重の錯誤」が生じたというのです(上山、前掲)。 

 従って歴史というものが、覇者の行為の正当性と、その大義の正統性を世に広く知らしめることであり、それが覇者の権威・権力の維持に繋がることは明らかなのです。『日本書紀』の編纂を通して如何に藤原氏が千数百年もの間日本に君臨してきたか、そして「為政者が過去の自家の『犯罪行為』を隠蔽するためにも、歴史書の編纂は必要なもの」であることを誰よりもよく熟知しているはずの関祐二すら(関祐二『藤原氏の正体』新潮文庫、2008年)、「大東亜戦争」という名称は使わずに、あえて「第二次大戦」という用語を使用するのです。その原因は、単に上山の言う「二重の錯誤」が在るためだけではないのでしょう。占領時代にGHQの統治に服してる間に、やむを得ざる処世術として「太平洋戦争」という名称を採用しているのなら理解も出来ます。しかし、独立を講和条約締結後に取り戻したにも拘らず、その後70年もの間いまだにその「錯誤」を認識せず、「太平洋戦争」史観の「覇者の論理」をそのまま後生大事に抱え込んでいるのは異常なのです。なぜこのような異常な状態が継続しているのでしょうか。 

 それは、ちょうど藤原氏が「華の貴族」として権威・権力を欲しいままにし、現在も「エスタブリッシュメントとして、日本社会に隠然たる影響力を及ぼしつづけている」ことを許すような空間が存在するのです。関はそれを「藤原の呪縛」と呼んでいます。それと同じようにGHQが占領政策を成功裡に遂行するために強いた言論統制こそ、「大東亜戦争史観や「太平洋戦争」史観の客観的な批判・考察を許さない環境を創りだした元凶であり、それは、「いうまでもなく現行憲法、とくにその第9条は、今日にいたるまで『一切の批判』を拒絶する不可侵の “タブー”として、日本の国民心理を拘束しつづけている」のです(江藤淳『1946年憲法―その拘束 その他』文春文庫、1995年)。この「タブーの呪縛」こそが日本の歴史観を歪めてきたのです。まして、そのような「閉ざされた言語空間」の下で日常生活を敗戦の凄惨さから取り戻そうと苦労している多くの人の心の片隅には、「あのように頑迷な独善主義の陸軍が温存され、戦時中病的に異常な様相へと高められた神国史観、天皇史観も残り、旧民法のもとに旧家族制度が存続し、農地改革婦人参政権も行われない戦後の日本を想定した場合、無条件降伏のもったプラス面」もあるという思いを実感として持っていたことは否定できないのです(大島康正「大東亜戦争と京都学派―知識人の政治参加について―」、西田幾多郎その他『世界史の理論―京都学派の歴史哲学論考』、燈影社、2000年)。そういう状況の下で、多くの人は戦時の苦しみからの解放感とともに、その惨めな結果をもたらした国の政策に加担したことを慙愧した結果としての「平和主義」であり、「民主主義」であり、国家の否定としての「世界」であり「個人」だったのです。

 

III.

敗戦後の知的混乱と既存の価値体系の否定から生じる精神的衝撃と動揺は、「一億総懺悔」という無責任の論理を以って戦時の各界の指導者層(政府、政界、官僚、軍部、学会、新聞等)が持つ責任は、中堅層や一般市民が持つ責任との間には雲泥の差が存在することをまったく無視し、「その責任の感じ方、または引責の方法についての考へ方は、各人に信ずるところがあり、それを、とやかくあげつらふべきでない」と自ら取るべき責任を包み隠したのです(朝日新聞天声人語」、1945年9月6日)。まして、「一億総懺悔」論理の実践者は本来ならば自ら取るべき責任を他に転嫁し、その責任追及の役割を極東国際軍事裁判東京裁判)に委ねたのです。日本の指導者層が責任を取らないということは、「覇者の論理」に乗ることであったのです。その結果は、必然的に「太平洋戦争」史観は砂地に水が流れるように浸透していったのです。この間、「覇者の論理」を押し付けられた当事者である日本政府の方からは別にこれという意見は出されず、以前と同じように「今次の戦争」、「先の大戦」または「第二次世界大戦」という呼称をあたかも第三者の如く使用することに甘んじていたに過ぎなかったのです。無作為の受け入れなのです。(無作為といえば、余談ですが、橋下大阪市長のいわゆる「慰安婦問題」発言に関して、政府は米軍当局の占領開始直後に出された“慰安婦”の提供施設の設置要求に応えるべく、「特殊慰安施設協会」を設立した事実に第三者のごとく沈黙を保つのと同じことなのです。)   

 それでも「太平洋戦争」という呼称は定着したように見えたのですが、革新勢力の方からの異論は「15年戦争」に始まり、今や「アジア・太平洋戦争」という呼称にまで発展しました。その中で、最も衝撃的であったのは、信夫清三郎の論文「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」でした(信夫清三郎「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」『世界』1983年8月号)。信夫は、「日本の歴史学者は、『太平洋戦争』という呼称で何を見据えようとしているのであろうか」と疑問を呈したことでした。もし、それが「大東亜戦争」の呼称から逃れるために、「太平洋戦争」の呼称を「科学的に必ずしも正確な名称とはいえない」と認識しつつも、「次善の方法」として「便宜的」に使用するのは、「怠慢」、「怯懦」であると、家永や歴史学研究会編『太平洋戦争史』などを批判したのです。そのうえで、ドナルド・キーンの論文「日本の作家と大東亜戦争」に言及して、キーンが自国製の「太平洋戦争」という呼称を使わず「大東亜戦争」という呼称を使用しても、それが大東亜戦争の肯定や支持を意味するものではないことを明らかにして、「私は、過去には『太平洋戦争』の呼称を用いたこともあるが、目下は戦争の実体を最も広く蔽いうるものとして『大東亜戦争』の呼称を用いている」と主張したのです。もっとも、それ以前に信夫は、「日本の歴史学は、通例、『大東亜戦争』のことを『太平洋戦争』と呼んでいる。 [中略] 対米英戦争は、まさしく『支那事変』の矛盾のなかから日本が突入した戦争だから、戦争の歴史的性質を正しく把握するためには、『太平洋戦争』というよりは『大東亜戦争』と呼ぶ方が正確である」と1982年の著書『大東亜戦争への道』で説明していました。信夫の論文に啓発されたのか、「15年戦争」という呼称を創りだした鶴見俊輔自身も、最近ではもっぱら「大東亜戦争」と自然に呼んでいるのです。 

 「大東亜戦争」という名称を使用することは、それが実際に起こった歴史なのだ、という事実を、善かれ、悪しかれ、総体として受け止めることなのです。この戦争を「大東亜戦争」と激論の末に決定した軍部の指導者、その戦争の遂行にさまざまの政策決定をしてきた政治家・官僚、その戦争に参加した又はさせられた将兵、兵士を送り出した家族、戦況を日々報道した新聞、ラジオの記者・編集者、その報道に一喜一憂した一般市民、その戦争の現代的意義と歴史的重要性を論じた一般・学術雑誌・書籍の著者・編集者など、その時代を生きた人の実体験として、その戦争は政府の公式文書でも民間の一般文書でも例外なく「大東亜戦争」と呼ばれれていたのです。その事実に蓋をして、「太平洋戦争」という呼称を使うことが「正しい歴史認識」であり、「正義」であるというのは、単に戦勝国の論理をそのまま請け負っていることと同じことなのです。たどり着く所は、悪いのは軍部、特に陸軍であり、国民は無辜の犠牲者だという詭弁を恥じもなく都合よく受け入れているのです。ドナルド・キーンの嘆きをもう一度吟味するのも価値があると思います。

   

    「この本(『日本人の戦争――作家の日記を読む』)が生まれるきっかけとなった数々の日記はすべて公刊されていて、戦前戦中戦後の時代史の研究家にはよく知られたものである。しかし意外にもこれらの日記は、日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨極まりない三年間について語る人々によって、時代の一級資料として使われたことがほとんどない(ドナルド・キーン『日本人の戦争』、前掲)。」

 

 既に述べたように、上山春平は戦勝国の「太平洋戦争」の解釈を無条件で受け入れ、反対に「大東亜戦争」の解釈を悉く否定する論理を「二重の錯誤」と呼んでいたのです。何故ならば、「大東亜戦争史観と国家利益との関係に関しては克明な批判がなされたが、その批判の根拠又は考察の基準となった「『太平洋戦争』史観」や「『帝国主義戦争』史観」などは「普遍的な人類的価値尺度」として額面どうりに受け入れられてきたが、それらとの史観と「特定の国家利益との暗黙の結合」については批判的な考察がなされてこなかったからだと批判したのです。そこにそれぞれの史観に対する「評価のアンバランス」が生じ「二重の錯誤」につながったと結論付けていました。さらに上山は、このような「二重の錯誤」を打破せねばならぬとする根拠を以下の六つの要点にまとめていました。

     1.国家が人類社会における最高の政治単位をなすかぎり、二つ以上の国家の利益が妥協の余地なき対立に追いこまれたばあい、戦争という暴力的解決の道をえらぶほかはない。

     2.こうした状況のもとでは、武装自衛権ないし交戦権は国家主権の不可欠の要素をなす。

     3.そのかぎりにおいて、国家は暴力装置をそなえた潜在的戦争勢力にほかならない。

     4.戦争勢力としての国家が、戦争行為のゆえに他国を倫理的に非難したり法的に処罰したりするのは背理である。

     5.しかるに、核兵器の発達にともなって、国家利益の暴力的貫徹の手段としての戦争が人類絶滅の危険をはらむにいたり、国家利益を人類全体の利益に従属させることが緊急の課題となってきた。

     6.この課題を解決するには、それぞれの国民が自国の国家利益を粉飾するイデオロギーの虚為にめざめ、国家的価値尺度の相対性を確認することが先決問題である。

 最も重要な教訓は「大東亜戦争」にしても「太平洋戦争」にしても、それぞれの国家利益に密接に繋がる価値・理念や世界観をあたかも普遍的な価値・理念であると考え、それを第三者の国々・民族に押し付けたことなのです。日本の価値・理念や世界観もアメリカの価値・理念や世界観もそれぞれ相対的であって特殊的なものなのです。まして、現代の世界秩序が主権平等の原則に基づき互恵の関係の上に成り立っているわけですから、各々の国家は相互に相手国の価値・理念や世界観に対して尊敬と対等な権利を認めるといううことだと考えます。

 徹底的なGHQによる言語統制下に浸透して行った「勝者の論理」とその「歴史認識」は世界史の継続性は勿論のこと、日本の歴史の継続性すら封印してきたのです。『日本国語大辞典 第二版第10巻』によると「捏造」とは「事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと。ないことをあるようにいつわってつくりあげること」と説明されています。「太平洋戦争」とはまさに捏造された用語なのです。 

 

IV.

同じ民族間の争いであっても、その戦いの原因、戦いを遂行するための目的、その戦いが持つ意義、そして争いが終焉した後に生じた変化を踏まえた上での歴史的な評価も、それぞれの戦争の当事者は異なった歴史観歴史認識を持っているのが自然であり、お互いの生活慣習・環境、風土、気候、地勢、宗教、伝統、歴史など、そのすべてを抱えている地域や国の違いを考えれば当然なことなのです。岡田英弘によれば「歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ『これが歴史だ』というものができ、ほかの集団が『これが歴史だ』と主張するものと違うということも起こりうる」のです(岡田英弘『歴史とはなにか』文春新書、2001年)。

 1951年に勃発した朝鮮戦争に対する韓国と北朝鮮とのそれぞれの歴史観は同じである筈がなく、むしろ正反対であるに違いないのです。にも拘らず、相手に対して「正しい歴史認識」が欠如しているなどと批判はしていないのです。同じようなことは、南北戦争を経験したアメリカについても、セルビアから内戦を通じて独立した「コソボ共和国」についても云えるはずです。ましてや、われわれ自身の経験も例外ではないのです。

 明治維新に対する歴史認識は、会津の人の認識と長州・薩摩の人が持つ認識との間には埋めることができないほどの差があるはずだ。京都守護職の職務を勤め上げた松平容保が抱く長州・薩摩の手法に対する義憤は計り知れないものがあったはずです。鳥羽・伏見の戦いが、もとをただせば岩倉具視による勅書捏造と、それに乗じた薩長の出兵と、その出陣を正当化する「錦の御旗」を岩倉具視が創作した、つまり、今流行のことばで言えば、捏造したことによって始まったものだったのです。「王政復古」の名の下に「新政府」が宣言された時には、まさに、坂口安吾が言うように、薩摩・長州・公家の倒幕指導者は「天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」のです。そこには、会津が長年の京都守護職の務めを通じ、孝明天皇の厚い信任を得てきたことも、会津が薩摩と共に長州と戦ったことも勝手に忘れ去られていたのです。度重なる理不尽な要求を会津に突きつけることこそ、会津に「朝敵」という烙印を押しつけるための手段だったのです。岡田英弘が『歴史とはなにか』で、「歴史というものは、それぞれの政治権力の中心で書かれるものだ。権力の正当化が、歴史本来の使命である」と述べるように、ひとことで云うならば、「勝てば官軍。敗れば賊軍」なのです。そして、勝利者の歴史が書かれたのです。

 マックス・ウェーバーが第一次世界戦争後の経験を踏まえていみじくも言ったように「勝者は、道義的にも物理的にも、最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な状勢を買い取ろうという魂胆がある」と結論を下していました(マックス・ウェーバー『職業としての政治』岩波文庫、1980年)。従って、「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのです。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではないはずです。今、流行りの「正しい歴史認識」とは、相手側と同じ歴史認識を持つことでしよう。まして一国の歴史認識を他国との歴史認識との交渉の対象とすることなど言語道断です。そんな理不尽なことはありえないのです。従って、日本の教科書編纂に当たって近隣諸国の主張に配慮するという所謂「近隣諸国条項」などという代物を採択したことは一大失策であったのです。過去の出来事を現在の道徳観念の正悪基準から判断・評価すべきではないし、ましてや、「過去の真実の探求」のための知的作業のプロセスの中に政治が介入して、何が歴史的真実であるかを時の政治的都合により決定されることなどは、思想・言論・表現の自由がない全体主義国家がやることであって、自由を尊ぶ民主主義国家がやるべきことではないことは当然なことです。###