日本国憲法が示す「積極的平和主義」の法理

日本国憲法が示す「積極的平和主義」の法理 

 鈴木英輔  

現在国会で審議されている「安全保障法制」案を裏付ける「積極的平和主義」とはどのような理念に基づき構成されて、日本国憲法の掲げる国際協調主義と平和主義とに対してどのような位置づけがされるべきであるのか、憲法上の法理から考えて見ましょう。  「積極的平和主義」の理念を法理として明確に展開したのは、砂川事件最高裁の判決の田中耕太郎裁判長の補足意見なのです。以下に「積極的平和主義」の理念の裏づけとなる法理を補足意見の中より抜粋のかたちで重要点を直接に引用します。この補足意見を読めば、いかに今までの内閣法制局の解釈がおかしいものであるか分かるはずです。 *************************************** 
 抜粋始まり 

 「. . . 一国の自衛は国際社会における道義的義務である。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきではない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。  
   およそ国内的問題として、各人が急迫不正の侵害に対し自他の権利を防衛することは、いわゆる『権利のための戦い』であり正義の要請といい得られる。これは法秩序全体を守ることを意味する。このことは国際関係においても同様である。防衛の義務は特に条約をまつて生ずるものではなく、また履行を強制し得る性質のものでもない。しかしこれは諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的な道徳秩序すなわち国際共同体の理念から生ずるものである。」

 「. . . . 。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない。  
憲法九条の平和主義の精神は、憲法前文の理念とあいまつて不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによってわが国が平和と安全のための国際共同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去って普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法九条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。」 

 「. . . 平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法九条二項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない。 「要するに我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる『自国のことのみに専念』する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。  
「我々は『国際平和を誠実に希求』するが、その平和は『正義と秩序を基調』とするものでなければならぬこと憲法九条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち『法の支配』と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。」   

 抜粋終わり *************************************************************************************  この1959年の補足意見にある法理は、日本が責任ある主権国家として、国際の平和と安全の維持のために積極的に貢献する義務を説いているのです。そのために安保法制の整備は必要不可欠なものなのです。その中には、当然なこととして、日本国内だけで通用するような「日本版集団的自衛権」の理解ではなく、国際慣習法国連憲章により確立されたグローバル・スタンダードとして認められている集団的自衛権に関する基本的な概念の前提である「集団的自己」を認識することなのです。そして、そのような国際的理解の下で、国際司法裁判所が下した「ニカラグア事件」の判決にあるように、集団的自衛権の発動が合法であると見なされるための二つの条件を受け入れることなのです。それは、第一に、攻撃された被害国が外国から攻撃を受けたという声明を公に発表したこと。第二に、その被害国から支援の要請があること。この二つの要件に加えて、判決は、「他の国は自らの状況分析に基づき集団的自衛権を行使することはできない」、と念を押しているのです。 残念なことに、国会審議の内容は、日本の領海、接続水域、排他的経済水域での外国船舶による頻繁な違法行動の日常化という危機をそっちのけにして、無益な神学論争に明け暮れているのです。そんな神学論争の一翼を担ってきたのが、つい最近まで主張されていた内閣法制局の間違った日本国内だけで通用する「日本版集団的自衛権」の理解なのです。###