スノーデン事件と「世界市民」


 

スノーデン事件と「世界市民

鈴木英輔

  元CIA職員であったエドワード・スノーデン氏が暴露したアメリカ政府による世界的な個人情報の監視・収集活動は、米国の同盟国や非同盟国も含め全世界に衝撃を与えた。スノーデン氏は米国を離れ、まず香港に寄留し自らマスコミに登場し米国政府の人権・プライヴァシー侵害を糾弾した。米政府はスノーデン氏をスパイ活動取締法違反容疑で訴追し、香港政府に対してスノーデン氏の身柄引き渡しを要求した。スノーデン氏は「表現の自由を信じる国に亡命を求めたい」ことを表明した後、十数カ国へ亡命の申請を行ったが、未だに亡命の行き先は判明してない。スノーデン氏が亡命の意図を発表した後の米国を始め関係諸国のスノーデンの亡命申請に対する対応の仕方は、現在の国際社会の構造的実態を如実に露呈した。それと同時に、いま流行の「世界市民」という言葉が如何に実体のない空虚なものかと言うことを具体的にさらけ出す結果になった。何故ならば、人は自分の国の政府が発行する旅券なしには国境を越えることができないという現実だ。

 

I.

  スノーデン氏が香港を離れモスクワに飛ぶことができたのは、香港政府が米国政府のスノーデン氏の身柄引渡し要請を拒否したからだ。それを受けて米国がとった措置は、スノーデン氏のパスポートの実質上の剥奪だ。つまり、物理的にスノーデン氏から旅券を取り上げるのではなく、その旅券を発行者である米政府が一方的に無効にしたのだ。有効なパスポートを持たないスノーデン氏はモスクワまでは到着したが、それ以降の目的地への旅程を続行することはできなかった。道をふさがれたスノーデン氏はトランジット・エリア(乗り継ぎ区域)にある宿泊施設に留まることを余儀なくされたのだ。現在でも、スノーデン氏は正式にはロシアの土を踏んでいないのだ。たとえ航空券を持っていても有効なパスポートを身に着けていないと国境を越える旅はできないのだ。ここで何故そうなるのか基本的な知識をまとめてみよう。

 国際法上、一つの国が「主権国家」として承認されるには、一定の領土を持ち、その領域の中で生活を営む一定の人口を抱え、その国民と領土を実効的に支配する統治機構・政府を備えていることだ。いくらグローバル社会といわれても、基本的には、現在193の「主権国家」がそれぞれ「主権平等の原則」の下に構成されている社会だ。国と国との交易、通商、通信など、すべての交流が国と国との間の合意にもとずいて行われているということだ。ここで忘れてはならないのが、国民でも市民でも、その一人ひとりが国家の権力・権威に服しているということだ。だから、有効期限10年の旅券を保持していて、たとえ、まだ6年有効期限が残っていても、発行者である政府がその旅券の有効期限を無効にすると宣言し、諸外国の関係当局に正式に通達すればその旅券は失効したものと見なされ、その失効した旅券の保持者はその時点で足止めを余儀なくされるのだ。つまり、同じ主権国家が決定した行為を他の主権国家がその行為を尊重して認めることだ。このような国際社会は、1648年にヨーロッパの30年戦争を終結したウエストファーリア体制というものに代表される主権尊重、領土保全、内政不干渉という三大原則にもとずく水平的国際秩序を構築しているのだ。そして、同じ原則が国連憲章2条第1項、第4項、第7項に踏襲されているのだ。「水平秩序」というものは、一つの主権国家の上にその権威・権力を凌駕する第三者的国際組織が存在しないという現実の下に、お互いに平等で独立している主権国家が横並びに(水平に)国際秩序を自助と相互依存の原則によって造っていることだ。では、そのような「水平的国際秩序」の下で、スノーデン氏を逮捕すべく身柄引き渡しを要求している第一の当事国である米国はどのような方法で対処するのか、また米国からの要求を受けた第二の当事国はどのように対応するのだろうか。  

 

II.

 国際社会には、未だ客観的に一つの係争関係を分析・判断するような強制力を持った第三者的な意思決定機関が存在しない。そのような社会での国と国との関係は古代から人の行為・行動を規律してきた自助と相互依存の原則とそれを補完する互恵と威嚇・報復の原則によって維持されていくのだ。互恵は好意的な行為・行動に対しては同じような好意と友好を持って相手に報うことだ。威嚇・報復は自国の利益が侵害または毀損される虞があるときに、その行為をしないように脅すか、あるいは侵害・毀損が発生した後に相手に報復をすることだ。やられたら、やり返すことは、自助原則の一環だ。

国際関係の営みというものは、政治であり、マックス・ヴェーバーが云うように「権力の分け前に預かり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力」なのだ。それが対外的に国の利益を追求するときは「国際政治」、「外交」と云われるものだ。対外政策を遂行して、その目的を勝ち取るためにソフトの手段、ハードの手段を巧みに使い分けたり又は混合しながら国益を追及するわけだ。相手側に選択の自由を与えるか否か強制力の行使が在るか不在かで、手段の硬軟が決まってくるのだ。つまり、説得による方法で政策遂行をなすことで代表される一方の「平和軸」から始まって、その一線上に徐々に威圧や強制力を強めて選択の自由を絞って行くいくというプロセスとしての継続性がある。「平和軸」から始まった政策交渉も平和裏に問題解決が見出せない場合には武力に訴えることもありうる。それが「戦争軸」又は「強制軸」というものだ。その両軸は継続している一線上にある。その両軸の間には、特定の政策遂行のために用いる手段として、(1)外交的なもの、(2)経済的なもの、(3)プロパガンダ・教宣的なもの、(4)軍事的なもの、がある。政策遂行にはこれらの政策手段をいろいろ複合的に使いこなしながら、相手がこちらの政策を受け入れるようにするために必要な圧力を掛けながら求める政策目標を獲得するのだ。したがって、クラウゼヴィッツの格言のように「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」なのだ。

 話して埒が開かなければ、次の段階に移行するのだ。相手が損失をこうむるようなことを示唆するのだ。 米通商部はエクアドルの対米輸出物品に対する関税優遇特権の付与を更新するか、どうか検討する、と発表した。その翌日、エクアドル側は米国の脅しに対して自らこの関税優遇特権を放棄すると発表したのだ。当初、ウキリークの主宰者であるアサンジ氏の駐英国領事館への亡命を許した経歴のあるエクアドルは、スノーデン氏の亡命申請に対しても好意的であったが、現在では、余り掛かりあいを避けているように表に出てこないのが実状だ。

 脅し、または威嚇にしろ、信憑性を持っていなければ実際のインパクトはない。「狼少年の叫び」と見なされてしまえば何も起きないのだ。メッセージを発する国がどれほどの決意を持っているのか、威嚇が意図した結果を生じさせなかった暁には、その威嚇を実際に行動に転換する意思と力を持っているのかなど、発信国のクレディビリティー、信頼性と尊敬されている度合いがメッセージ受信国の行動を決定づけるのだ。そのことを端的に証明したのがロシアから南米のボリビアへの飛行航路をそれぞれの領空に持つ諸国だ。724日ロシア訪問の後、ボリビア大統領専用機がモスクワを離陸した後、その大統領専用機にスノーデン氏が同乗しているといううわさが流れ、飛行空路を持つフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの航空管制当局は大統領専用機がそれぞれの領空を通過することを拒否したのだ。行く手をふさがれた大統領専用機はオーストリア、ヴィーンの、空港に着陸せざるを得なかったのだ。当然のこととして、事実誤認が判明した後は、赤恥を搔いた政府当局者はボリビア大統領に深く陳謝したのは言うまでもない。

 ちょうど、ある特定の人が現れたときに、その人のプレゼンスをひしひしと感じ、その人の一挙一動に細心の注意を払い、粗相のないように、願わくば目に留めてくれればと一生懸命振舞う姿を思い浮かべれば、メッセージを発信する国と受信する国との力関係が良く分かるはずだ。力関係以上に重要さを持つものは、メッセージ受信者の送信者に対する思惑だ。どのような関係を築きたいのかという将来に対する構想への利害を分析・評価することが、当然スノーデン氏の亡命申請を判断するのに影響を及ぼすのは明らかだ。ロシアのプーチン大統領が述べたように「亡命を許可してもよいが、それには一つ条件がある。それは米国の批判を行なわないことだ」と釘をさしたことに端的に表れている。ロシアは未だスノーデン氏の仮入国の許可ですら与えていないままだ。 

 

III.

 どれほどグローバリゼーションが高らかに謳われても「主権国家」によって現在の水平的国際秩序が構築されているかぎりカントの言う「訪問の権利」は存在しないのだ。カントによれば、それは「外国人が他国の土地に足をふみ入れても、それだけの理由でその国の人間から敵意を持って扱われることはない」という権利だ。それが「訪問の権利」であって「地球の表面を共同に所有する権利」で、「すべての人間に属している権利」だという。残念ながら、そんな「訪問の権利」は「世界人権宣言」のも、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」にも存在しない。明記されているのは、「自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利」だ。「他の国に自由に行く権利」など存在しないのだ。主権国家は例外なくその国の国籍を持つ者を管理しているのだ。俺は「世界市民」だ、と意気込んでも国連系の国際機関が発行するLaissez-Passerなどを手に出来るわけがないのだ。国際組織は主権国家の集合体であって、国家と国家との合意に基づく結果であり、「国家主権」行使の前には私個人「世界市民」は何の力もないのだ。その冷酷な現実をこのスノーデン事件は赤裸々に示している。###