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日本の「国際化」教育に潜む閉鎖性の問題

 

鈴木英輔

 SNSで国の内外を問わず驚くほどの人脈を四方にもち、それに呼応する情報ネットワークの大きさを基に、精力的に日本の国内の出来事を外の世界で起きていることに関連付けてピリッとした味のある批評を繰り広げているKaori FTという人がいます。このKaori FT氏が次のような〝つぶやき″を最近投稿しました。 

  <riot against refugees とグーグルに検索入れれば、ヒットがAbout 1,320,000    results (0.32 seconds) ある。日本語で>難民に対する暴動と入れれば、About 247,000 results (0.46 seconds)と出てくる。

         <ニュースの差はヒット数の差と比例するのは当然か>

 

ニュースにしても特定の出来事に関する情報量が少ないということは、日本国内でそのことに対する関心が薄いということであり、日本の外の世界で起きている出来事、良いものであれば、共に歓喜する心、不幸な出来事であれば、それに対して惻隠の情を示すということが欠けているのです。この上に引用した短いひとことに滲み出ることは、その思考様式の基にある視野の広さです。私がKaori FT氏の批評に敬意を表するのは、単に、話題とする関心事の多彩で豊富なことだけではなく、その多岐にわたる問題意識の中にブレもせずに貫かれているグローバルな視界です。日本という一国の「自己完結的な閉鎖的社会」からの見方ではなく、そに開かれた思考により、日本を世界の中で捉えていく、という姿勢です。

 1964年の「東京オリンピック」を契機にして以来、日本の「国際化」が叫ばれてきましたが、半世紀もたった現在でも同じように、いやそれ以上に「国際化」の必要性が求められています。換言すれば、半世紀にわたる「国際化」教育というものがそれほどの期待された結果を出さずにいるという冷酷な現実があるのです。本稿では、その日本での「国際化」教育と言われるものが持つ基本的な「閉鎖性」の問題を取り上げたい、と考えます。

 

I.

 昨年(2015年)春以降繰り広げられた安保法制案の議論でも明らかになったように、日本の「一国平和主義」も、基本的には日本とその外の世界との関係が断続しているのです。 日本の ニュースの差はヒット数の差と比例するのは当然か 刑法には、犯罪行為の違法性を阻却する事由として、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」と「正当防衛」(第36条)として自衛権を定め、さらに、「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危機を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を越えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、または免除することができる」と「緊急避難」(第37条)という自力救済が認められています。その自衛の行動にしろ緊急避難にしろ、その行動の主体としての「自己」という概念には、単に個別的な「自己」のみならず、第三者である「他人」をも包容する自己の利益と他人の利益とを一体化した概念である「集団的自己」を認めているのです。

 一人の人間が他人と共に危機感を共有して一体化するからこそ、惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をするために行動をする、という概念です。昨今の集団的自衛権の行使にまつわる議論を聴いておりますと、いったい、いつからこのような「惻隠の情」は日本人同士間のみに適用されるものになってきたのでしょうか。つまり、日本国の刑法であっても、国内の出来事であっても、日本人は、外国人、つまり非日本人、が危険にさらされている時には、「君子危うきに近寄らず」と決めつけ、見て見ぬふりをして通り過ぎるのでしょうか。それとも、襲われたものが日本人であれば、「義を見てせざるは勇無きなり」と奮起して「同胞」を救済するために一肌脱ぐのでしょうか。それとも襲い掛かった者が同じ日本人であれば、「拘りあうのは御免だよ。ほっとけ、ほっとけ」と言って立ち去るのでしょうか。

 「義を見てせざるは勇無きなり」として行動を起こすか、「君子危うきに近寄らず」として知らん振りをするか、という、作為、不作為は別にしても、法的には、日本の刑法は「集団的自己」という考概念を認めている、という事実があるのです。それなのに、なぜ、国際社会の問題になると、この国内的に認められている概念が否定されるのでしょうか。なぜ国際法として、実定法でも、慣習法でも、確立している集団的自衛権の意味が日本の社会に入ると日本だけで通用する「日本版集団的自衛権」になってしまうのでしょうか。

 

 II.

 歴史学碩学岡田英弘先生によると、学校で習う日本の歴史の教え方に問題があるということです。なぜかと言えば「今の日本の歴史教科は日本史と世界史に分かれているが、この区分が示しているように、日本は世界の中にではなく、世界の外の宇宙空間にある。逆に言えば、世界は日本の外の宇宙空間にある。日本の歴史は日本の歴史だけ、世界の歴史は世界の歴史だけで、日本と世界は完全に断絶している」からであると断言しています。歴史を教える人も、国際法を教える人も、同じように全世界的な視野から日本を見ていないのです。 その結果、「世界の中での日本の位置(列強の中でのランクではなく)は考えてもみず、あくまでも自己完結的な、閉鎖的な日本という小さな宇宙の内部での瑣末的な詮索と論評に終始している」からだといいます。

 岡田氏によると、このような物の見方をするようになったのは、日本という国と文化が七世紀後半の唐をめぐる対外関係の大変動の衝撃から作り出されてきた国であり文化であったからなのです。したがって、「日本列島を外からの脅威に対して防衛することが国家の最重要課題であり、鎖国こそ日本の国是だったのである」、と説いています。

 ここでは、和辻哲郎の名著『鎖国―日本の悲劇』にならんで、「鎖国」を「国を鎖(と)ざす行動」を意味するものとして、「鎖(と)ざされた国の状態」を指すものではないことにします。

 ただし、そもそも、「鎖国」という言葉自体が、江戸時代18世紀後半に長崎で蘭学者で通詞として身を立てていた志筑(しづき)忠雄が、1690年から92年の間オランダ東インド会社の長崎の商館で医師として勤務していたドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペルが上梓した1733年のオランダ語第2版『日本誌』の中に収められている一章を訳して「鎖国論」と1801年になずけたのが始まりであって、それ以前に「鎖国」という言葉が使われたことは一切なかったのです。いわゆる「鎖国令」なども正式な名称ではなく、後に歴史家が、1633年と1634年の奉書船以外の交易の禁止令、1635年の日本船の海外渡航及び帰国の禁止令、1636年の非交易関係者ポルトガル人のマカオ追放令、1639年のポルトガル船の来航禁止令という五回に亘って発令されてた一連の「禁止令」の総称として名付けたものなのです。これにより、ポルトガルやスペインの植民地政策の伏兵としてのキリシタン宣教師を排除し、大村純忠高山右近に代表されるキリシタン大名を追放することにより、ポルトガルやスペインからの軍事干渉が発生する可能性を排除する政策の一環であったのです。と同時に、このいわゆる「鎖国」政策は、九州諸藩の対外交易(特にオランダ)との通商を長崎に限定して、それを徳川家で独占することにより、他の大名が外国勢力と関係を 作らないようにする目的があったのです。

 この「鎖国」政策の対象はヨーロッパ諸国だったのです。徳川幕府はすでに当時の「国際関係」を把握するのに必要な三つの窓口、薩摩藩琉球を通じての明との交易(薩摩口)、対馬藩の宗氏を通じての李氏朝鮮との交易(対馬口)、松前藩を通じての蝦夷地・樺太アイヌとの交易(松前口)ルートを押さえていたのです。ただし、今までの三つの口とは異なり、西洋の宗教、航海術、造船技術、大砲、火薬などの製造の知識と技術を幕府の利益を損なうことのないようにいかに「管理」するか、ということに配慮をしたのです。そのために、長崎という幕府直轄地に四つ目の口「出島」を設けて、ヨーロッパとの交易・知識・技術の渡来を幕府の直接管理の許においたのです。これは豊臣秀吉が1587年に出した第一回目のバテレン追放令(伴天連追放令)から始まり1639年のポルトガル船来港禁止令に至るまで52年もの年月を費やしていたことが如実に語っています。

 松方冬子氏は『オランダ風説書』中公新書(2010年)の中で、「キリシタン禁制のためヨーロッパ人の入国を制限して監督し、同時にそれまで九州全域で行われていた唐船との貿易を一括して管理するという幕府政策の大きな流れの中で、長崎は生まれた」という認識の下に、「幕府が危険視したのは、ヨーロッパの思想(キリスト教)や軍事力である」と言い,「『四つの口』がどちらかと云うと[日本が国交をもたない]中国と『つながる』ための装置だったのに対し、『鎖国』政策はヨーロッパ勢力から身を『まもる』ためのものであり『仮想敵』を持っていたのだ」と主張しているのです。

 このように、「鎖国」という言葉から連想される状況とは別に、実際は国を閉ざすどころか東アジア諸国との交流は密接に存在していたし、松前藩蝦夷地へ、対馬藩は朝鮮へ、薩摩藩琉球へ、それぞれ渡航が認められていたのです。これらの「三つの口」では、日本人および外国人双方とも出入りが可能であったのです。そもそも、外国との関係をもつ港をある一定の場所に限定することは極普通なことなのです。現在でも、海外からの航空機・船舶は出入国管理、税関、検疫などの業務執行が可能な都市にある国際空港や港湾に限られいるのは当然なことで、これを以て「鎖国」などという人は誰もいません。「四つ目の口」長崎が特異なのは、その港は既存の「三つの口」の対象以外の外国人のみが出入り出来ても日本人が出て行くことが禁止されていたという一方通行的であったことなのです。ただし外からの情報は確かに入ってきたのです。そうであれば、和辻哲郎大東亜戦争における敗北によるショックからその敗因を「日本の悲劇」として「科学的精神の欠如」として著した『鎖国』にあるくだり、「鎖国が問題になるのは世界的な交通が始まったからであって、一つの世界への動きはすでにそこに見られる。鎖国とは一つの世界への動きを拒む態度である」という主張は正しいのでしょうか。

 もちろん、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家光も、キリシタンの宗教的教義というよりも、領地の保全、統治組織の独立に対する干渉・脅威がなかったならば、経済的・文化的な交易は継続していたのでは、と考えます。ただ、岡田氏の言っていることは島国日本の外からの侵略に対する自衛としての必要性が「閉鎖的な性格」を基本的に生み出した、ということは否定できないのでしょう。250年も続いた「鎖国」の影響とは、和辻哲郎が言うように実際に「国民の性格や文化のすみずみにまで及んでいる」のでしょうか。   

 

III. 

 倭寇から始まり勘合符貿易を経て朱印船貿易に至るプロセスは、「私人」としての個人の集団がそれぞれの個性、気概、器量と財力をもとに外に活動の場を求めていったときに、その実利を目にし、支配者側がその実利を占有するための施策をとるという状況との間を行ったり来たりするようなものでした。それでも、支配者側には、「私」の集団の活動を黙認するか、逆に、支配者側の統治組織の維持・拡大のための収入源として海外通商活動から一定の税を徴収するという違いはあっても、あえて「公」の支配者側から積極的な支援を「私」の集団に差し伸べるとか、あるいは、「公」の方針として海外活動を計画し援助するということはなかったのです。もちろん、勘合符とか朱印状を与えるということは、「公」の支援といえるものですが、それは交易の相手側に対して当該交易者は倭寇などの海賊ではなく「公」に承認されている交易者である、という便宜と安全通航を与えていたわけです。つまり、交易相手国の保護を依頼していることと同じなのでした。これは、外国からの倭寇に対する苦情を処理するための「対倭寇対策」の一環であって、積極的に対外交易を重視してその発展を支援・促進するための理解と政策ではなかったのです。

 とは言うものの、対外交易は盛んに営まれ、17世紀初めまで富と情報・知識の取得と蓄積に多大な貢献をしてきたのです。ここで覚えておかなければならない大事なことは、徳川家光により「鎖国令」が敷かれ、後に「祖法」とまで言われた限定された‶対外関係維持規範″ともいえるものに依り「通信・通商」関係を清、朝鮮、琉球、オランダの四か国に限定した以前までは、朱印船貿易南シナ海沿岸地域の国々を対象に交易が成り立っていたのです。祖法となった「鎖国」体制の下でも、オランダの商館を通じての毎年恒例の参府が行われていたし、そのたびに、「オランダ商館風説書」の提出が求められていたのです。したがって、外からの新しい情報・知識の取得には、時間的な遅延があったとしても、それほど困らずにいた、ということです。1690年から92年に亘り長崎のオランダ商館で勤務したドイツ人医師ケンペルが当時に日本における西洋医学の普及度を明らかにしています。ということは、和辻哲郎の主張のように「科学的精神の欠如」をすべて「鎖国」に負わせることには少し無理がある、と考えます。では、どこにヨーロッパのいわゆる「先進国」と日本との自分の社会の「外」の世界に対する考え方に違いが出てくるのでしょうか。 

 外に出るということは、「私」個人一人では限度があります。海外で、グローバルな活動を可能にするだけの組織力とその組織が持つ支援の補給力を与えてくれるものが日本という国家の存在であって、日本社会全体の活力なのです。 それが統治機構が執る政策を支えていく総体的な国力なのです。残念ながら、日本では、ほかの人と違ったことをする者は「変人」であり、世間の「常識」をわきまえない者なのです。極端に言えば、「異端者」という烙印を押されるのでした。まさに、倭寇和辻哲郎が言うように「北九州や瀬戸内海沿岸の『あぶれ者』ども」が14世紀半ばに、鎌倉幕府の崩壊とその後の内乱が引き起こした生活の困難によって「押し出」されたのです。小学館の『日本国語大辞典第二版』によると、「あぶれ者」は次のように定義されています。「① 無頼で、持て余されているもの。ならず者。ごろつき。」とまずあり、次に、「② 仕事にありつけない者。失業者。浮浪者。」とあります。さらに、「あぶれる」には「① 水などがいっぱいになってこぼれる」に始まり、「② こぼれるかと思われる程にいっぱいになる。また、感情や才気などがいっぱいに満ちている」、「③ 余り者になる。おちぶれる。零落して放浪する」、「④ 法を外れた言動をする。無法なふるまいをする。あばれる。暴力をふるう」、「⑤ 仕事、獲物などにありつけない結果になる」、とあります。 

 以上のような言葉の意味を考えると、「外」の世界に出る人は、必ずしも自ら進んで、喜びと期待に満ちて、冒険心に溢れて、行動力と才能を備えた人たちばかりではなく、自らの仲間や村落から追い出された人、押し出された人、逃げて行かなければならなかった人、普通に生活できない弱い人もいたのです。 探検家の関野吉晴氏が南米の最南端のナバリーノ島の住民に出会ったことを記しています。「アフリカで生まれた現生人類がアフリカを出て世界中に拡散していったが、その中で一番遠くまで行ったのがナバリーノ島に住む先住民ヤマナの先祖たちだ。もし人類の移動、拡散の原動力が好奇心や向上心だったとしたら、ヤマナは最も新進の気鋭に富んだ、好奇心と向上心の権化のような人々のはずだ。 しかし、実際は南米大陸から追い出された弱い人たちだった」。つまり、現代的な例を挙げれば、大学生の「就活」で男女ともにダーク・スーツを着て、就職したいと希望する会社の説明会や面接試験に出頭する「大学卒業見込み」という範疇に入らない人が「あぶれ者」なのです。もう少し積極的な表現を使えば、「金太郎あめ」でない者が「あぶれ者」なのです。

 したがって、「金太郎あめ」の中に納まりたくない人、「ところてん」のように一つの規格の中で押し出されたくない人、つまり横並びに同じことをしない人を「厄介者」として扱うのではなく、「変わり者」こそが、国力の総体として国が持つ活力―財力であり、文化であり、技能、知識、名声、倫理観、など、一つの国の行動の基盤となり得る諸々の価値―を増大し、豊富にしてくれるということを理解し、認識することなのです。

  歴史的に、外に出るものは、支配者側からの派遣者でなければならなかったのです。制度上、あらかじめ定められた期限がたてば帰国することになっているからです。本社採用の社員が海外赴任するのと現地雇いの社員との雇用条件に大差があるのと同じです。つまり、基本的には、人の「移動の自由」を拘束することなのです。その逆に、「私」の個人あるいは集団として外に出たものは、「移動・行動の自由」があったとしても、「公」としての支配者側からの理解も支援も受けないわけです。昔、東シナ海南シナ海で活躍した倭寇、大陸に渡って夢を追った「大陸浪人」をはじめとして満州に移住した農民などがその例でしょう。満州に移住し開墾に従事した農民が満州で保護を向けていたのは、本土からの「公」の理解や支援ではなく、関東軍の兵士の中に貧困農家出身の兵士が多くおり、満州移住者への理解・同情があったからだったのです。

 現在の状況は、といえば、最近起きたアルジェリア天然ガス精製プラントの建設プロジェクトに参加した日本企業日揮の社員が反政府軍過激派テロ集団に襲われた人質事件やフリーランスのジャーナリストが「イスラム国」を称するテロリストにとらわれ、殺害されるという悲惨な事件に対する日本の公私の反応は、「自己責任」という言葉に集約されるという悲しい話なのです。

 一昔前、日本の国際政治学会でその風潮に媚びせずに、自ら「現実主義者」と自負していた高坂正尭は、この日本国内での関心事と日本の外の世界で起きている関心事との断絶について、「日本の歴史は、国内のエリートが外に開いた部分に注意を払う視野の広さを失ったときに悲劇が起こったことを示している」と指摘し、「エリートとその背後にある国民が、どの程度、外に開かれた部分を意識し、後押しするかということが問題の中核をなす」と断言していたのです。

 

IV.

 和辻哲郎は「近世を開始した大きな発明、羅針盤・火薬・印刷術などは、すべて日本人に知られて」いたし、秀吉にしても、「ポルトガル人の航海術の優秀なことも、大砲の威力も、十分に承知していた」のに、「その技術を獲得する努力をしなかった」のだ、と説明しいます。それでも、和辻は日本人に「文化的活力はかけていたのではない」と断言しており、欠けていたのはポルトガルの「航海者ヘンリ王子」であり「ヘンリ王子の精神」に象徴される「無限探求の精神、視界拡大の精神」であったと、と結論を下しているのです。さらに続けて、「恐らくただそれだけである。そのほかにさほど多くのものが欠けていたのではない」と念を押しているのです。

 この250年に亘る「鎖国状態」に満足と言わなくとも、その現状をおかしいと考えなかったのは何故だったのか。実際「無限探求の精神」とか「視覚拡大の精神」というものが欠けていることは250年もの長期にわたり現状変更を許さないほどに強靭な思考なのでしょうか。「攘夷」から「開国」への転換は実際に起きたのです。180度の思考転換の暁に貪欲なほどに西洋文化・科学・技術を学び、摂取してきた近代の日本人は、まさに和辻が「少なくともフランシスコ・ベーコンやグローティウスのような人々の思想を眼中に置いた学者の思想」と呼んだものを以て、「日本人の新しい創造を導いて行った」人たちであり、「それに耐ええる能力を持っていた」人たちであったはずなのです。それを、「開国後の八十年を以てしては容易に克服することができなかった」のを単に「為政者の怯懦」に求めるのはおかしいと考えます。そもそも、明治維新の原動力となった人たちは「為政者」ではなかったのですから。

 まして、和辻が「日本民族が国際的な交際の場面に入り込み、世界的な視圏の下におのれの民族的文化の形成に努めること」とか「世界における日本民族の地位を確立するために」とか、「民族」という概念が、所謂「鎖国」が執られた時には存在しなかったにもかかわらず、「日本民族」の「国際的地位」を強調するのは、昭和初期以来一貫して「日本文化」の世界における位置を考察して説いてきた和辻にとって、ごく自然なことなのでしょう。そしてそのような努力を潰したのが「国内の支配権を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人」であった秀吉であり、「国際関係を犠牲にして顧みなかった軍人の一人」であった家康であった、と「合理的な施策を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた」のだ、と大東亜戦争を敗北へと導いたのも軍人なのだ、と同列に扱うときには、あたかも「長期の孤立にもとづく著しい特殊性のゆえに」、「新しい時代における創造的な活力を失い去った」のは「為政者の怯懦」にある、とその理由を「精神」論で片付けられるものではないはずです。

 和辻自身も、日本人の「受動的閉鎖的な態度はまさにわが国の位置と歴史との産物なのである」と言明しており、「わが国の武士がただ内乱を背景としてのみ発生し、西欧におけるがごとく異民族や異なる文化圏との対立において発生したのではないという点」にその原因があるという。 つまり、日本では、

  「東亜の統一的世界への外からの侵入もなければ、また西方の世界との持続的な対立もなかった。従って限界はいつも国内に限られ、はるかなかなたの未知の世界への衝動を持たなかった。否、むしろそれは西方浄土への憧憬として、十字軍とはおよそ正反対の、柔和にして観念的なものとなった。」

 和辻がここで認めていることは、「鎖国」によって日本人が「受動的閉鎖的な態度」を形成してきたわけではない、ということです。和辻の言う「為政者の精神的怯懦」という「ただこの一つの欠点」のゆえに「日本人は近世の動きから遮断されていた」という訳ではない、と自らの主張を修正しているのです。 

 柄谷行人氏によれば、日本のような亜周辺に位置した国は、「帝国」になりえなかった、つまり単なる国家の拡大ではなく、「多数の国家の間」に生じ、「多数の共同体=国家からなると同時に、それらを超える原理」を持つものが帝国だと言います。柄谷氏によると、

   「亜周辺とは、中心から隔たっているが、中心の文明が伝わる程度には近接した空間です。それ以上に離れると「圏外」となります。亜周辺は、周辺とは違って、中心による直接的支配の恐れがなく、文明の摂取を選択的に行うことができるような空間です。」

 このように日本人の性格を見てくると、「近世の動きから遮断されていた」から「国民の性格や文化のすみずみにまで」その影響が及んでいるのではなく、もっと根本的な歴史的に古い日本という国とその文化の形成当時にまで遡ったところにあるようです。もう一度柄谷行人の言葉を借りれば、「亜周辺の者には『帝国』ないしその周辺のあり方が理解できない」からです。明治以降の「大日本帝国」の日本人も、戦後の日本人も、「帝国」を理解できないことには同じなのです。柄谷氏は以下のように結論を下しています。

    「そのため、東アジアの近隣諸国との間によい関係を築くことができない。結局、内に引きこもるか、ないしは、攻撃的に外に向かう。つまり、内閉的孤立と攻撃的膨張の間を揺れ動くことになります。日本が今後、「アジア共同体」の中に入ることはおそらく無理でしょう。」

 先に述べた岡田英弘氏によれば、「日本が現在、国際化という課題を背負って悪戦苦闘しているのは、日本がそもそも非国際化のための国家だった」からだ、と言います。『日本書紀』という歴史書が書かれたのもシナの侵略に対抗するための一種の「排外運動の一環」だったのです。「日本」と国号を名乗り冊封を拒否し、「王」の称号を「天皇」としてシナの天子に対抗できたのは、「日本を帝国の『圏外』とみなした」からであって、亜周辺に位置する日本が「何をしようと干渉できないし、またその必要も」なかった、ということです。

 その結果が、外の世界との関わりあいを拒否してできる限り排除しようとする思考の動きとなるのでしょう。言ってみれば「自己防衛」のための「外の世界」からの遮断なのです。これこそがまさに、昨今の日本の「集団的自衛権」に関する非生産的な議論と同じ発想なのです。

 和辻の『鎖国』の中に含まれている原資料に基づく記述はほとんどのものが外国人によるものであることが日本側からの興味の浅さを如実に示しています。例えば、異教徒であるサラセン人やムーア人との戦いを通じて形成されてきたポルトガルについて、「我々にとって意義深いのは、アラビア人との対抗や未知の世界への進出の努力が、学問と技術との研究という形に表れていることである」と指摘しており、ポルトガル人と日本人との外の世界に対する態度について「著しい性格の相違」があることを認めているのです。前者の運動には「無限探求の精神と公共的な企業の精神とが結びついていた」のに対して、後者の運動な、「『あぶれ者』の精神によって貫かれ、無限探求と公共性とのいずれをも欠いていた」、とその違いを以下のように示しているのです。

   「西からマラッカまで来た努力は、ヨーロッパ近世の視圏拡大運動の先端としての性格を持っていた。しかるに東からマラッカまで行った努力は、日本人の公共的な記憶に残らず、また日本人の探求心に寄与することのないものであった。」

 このことは、江戸時代後期に長崎出島におけるオランダ東インド会社との情報交換が定期かされていた時ですら何ら変化は起きなかったのです。ケンペルの好奇心、探求心とそれを学術的なものとして後世に残していくという公共的な記憶に残していくという努力と比べたら、日本側からの努力は単にケンペルの著作を翻訳することだけなのです。 

 日本文化の持つ力は、外からの文化を摂取できる包容力と、日本文化の中に摂取されたものを内在化させる能力です。芥川龍之介が『神神の微笑』の中で老人に言わせてるように、「我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです」と。その「造り変える力」こそ、「亜周辺性」ともいわれるフレキシブルな性格に象徴される自由な包容力です。それが亜周辺に位置する国として文明帝国から自立するために、日本人が古代より育んできた力なのです。ただし、この自由でフレキシブルな性格は逆に亜周辺であるが故に、「理論的・道徳的な態度」を嫌うことにより、「普遍的な理念性」を持ちえないと言われています。しかし、日本を世界帝国であるシナの亜周辺にある国と見ることによって、古代より歴史上、世界帝国の亜周辺にある国々は、日本と同じような文化的変遷の過程を経てきたことがわかります。ペルシャやエジプトに対する古代ギリシャローマ帝国に対するゲルマンの諸国、アラビア文明に対する中世ヨーロッパ、神聖ローマ帝国に対するイギリスなど、多々あります。その一つ一つの亜周辺にいる国々が、大文明帝国に吸収されずに、自立しようとする過程において文字言語という「帝国」の言語に対する自らのことば、音声中心主義的なことばを作っていったのです。そのように考えれば、柄谷氏が言うように「特殊日本的と見えた諸問題が普遍化できる」でしょう。

 それはジャポニカなどのように西洋から発見されるものではなく、日本から外に向かって発信する物なのです。『神神の微笑』の中で老人が言ってます、「西洋も変わらなければなりません。・・・御気をつけなさい。御気をつけなさい」と。あたかも私たちに、「確りしなさい。自ら造り変える力を行使しなければ、逆に呑み込まれますよ」と、忠告しているように。

 残念ながら、日本文化の中に内在化された外来文化は、日本版としての概念であり、日本の中でのみで理解されるものなのです。それが結果的に日本文化の排他性であり閉鎖性となるのです。ですから、異邦人同士の両親(日本人の父と外国人の母又はその逆)を持つ子供を「ハーフ」と公然と呼ぶことに、何ら「おかししい」と違和感を覚えないことが日本版概念の排他性・閉鎖性を立証しています。

 日本の「国際化」教育の悲劇は、外に出る者は、「公」の承認を受けた派遣計画の一環でない限り、基本的には「あぶれ者」であって、「国際人」として外で活躍していても、ひとたび日本に戻って来たとしても、「いつまでも『あぶれ者』であって、政治的な意義を獲得する」ことは難しいのです。岡田氏いわく、「社会がまず受け入れてくれないのである」と断言しています。そこに、日本の「国際化」教育に潜む根本的な閉鎖性があります。###