「国連中心主義」とは何か

 国連中心主義」とは何か

 

鈴木英輔

   日本が国連の加盟国になったのは、1956年です。サンフランシスコ講和条約発効後4年も経っています。そもそもサン・フランシスコ講和条約自体が、その条約作成と関係諸国間での交渉というものが、冷戦という「世界的規模における国際的抗争のさなかで進められた」(山本満『自主外交の幻想』中公叢書、1974年)という異常な国際環境を母体としており、国内の政治場裡を「多数講和」か「全面講和」かに二分化したという経緯があったのです。まして、その条約の草案作成・交渉・署名というすべてのプロセスにおいて、米国の主導の下に進められていたわけです。つまり、講和条約こそ、日本の敗戦後の対外政策を根本的に位置づける米国の対日政策であったのです。そのような状況の下で、米国の対日政策の枠組みに対して、占領下に置かれている日本側から独自の方針を打ち出すために執りえる、ほのかな唯一の抵抗が「国連中心主義」というシンボルに隠された米国路線への追従ではないという主張でもあったのです。国連憲章の原則を日米安全保障体制の枠組みの中に導入しようとした日本側の精力的な働きかけがそこにもあったのです。まして講和条約も旧日米安保条約も高らかに国連憲章に言及していたのです。では「国連中心主義」は具体的にどのようにその内容を変えていたのでしょうか。

                                                                           I,

講和条約締結により独立を回復した日本は、新たな主権国家として国際社会に復帰するために国連に加盟することは必須要件とみなされていたわけです。しかし、独立回復後も、日本の国連加盟申請はことごとくソ連の拒否権に逢い却下され、1956年の日ソ国交回復の後にならなければ悲願の国連加盟は実現しなかったのです。それ故に、国連は理想化された、望ましいもの、一体化すべきものとして見られていたのです。これこそが日本政府側からの積極的な政策でした。1957年9月の『外交青書』は日本外交の基本方針として、まず第一に「国連中心主義」を掲げていたのです。しかし、米国の国連に対する政策が変化し始めたのが、脱植民地化が進みアジア・アフリカの新たな独立国が国連の加盟国になるにつれて、米国がかつてのように国連の政策決定に主導権をとることが困難になってきたときだったのです。米国の国連離れが始まると、日本もその流れに同調して行かざるをえなかったのです。『外交青書』からは1958年を最後に「国連中心主義」という言葉は消え去ったのです。ちょうどそのころが旧安保条約の改定の議論が政局を席巻し始めた時だったのです。このような経過を考えれば、北岡伸一教授の云うように、「日本外交が本当に国連中心だったことはないのではなかろうか」、という疑問にも一理あると思います(北岡伸一国連の政治力学』中公新書、2007年)。しかし、北岡氏は、同じ著書の「はじめに」では、「日本外交が国連中心主義であったことは一度もない」と断言しているのです(同上、iii頁)。               

 日米関係の中心課題が安全保障に移行して行くにつれ、日本政府が本来主張した「国連中心主義」は、野党のリベラル・革新陣営からの反日米安保体制という基本的な方針を支えるものとなり、「国連中心主義」の主唱者が変わったのですが、その「自己暗示的成就予言(セルフ・フルフィリング・プロフェシー)」としてのメッセージは踏襲されてきたのです。その結果、「国連中心主義」は憲法前文に謳われる「平和主義」と共に、憲法第9条の規定する「武力による威嚇又は武力の行使」の禁止条項が国連憲章第4条第2項に由来することもあり、「非武装・中立」・「反安保」の「護憲」運動の一翼を担うようになったのです。そして政策論であるべき「国連中心主義」は「信仰」の対象として「国連信仰」とまで云われるようになっているのです(浅井基文、『「国連中心主義」と日本国憲法』岩浪ブックレットNo.309)。同じような「信仰」レベルに属する「非武装・平和主義」の呪縛の結果、この「国連信仰」たるものは、安全保障理事会が執る制裁措置や平和維持活動に対しても、日本が何か実効的な役割を果たすことができるような政策の作成に寄与することもさせないでいるのです。それどころか、危険な任務を避け、自らの手を汚さずに済ませようと自分の活動範囲を勝手に線引きすることに利用されているのです。これが日本の「照る照る坊主」平和主義といわれる所以なのです。(小室直樹『日本人のための憲法言論』集英社インターナショナル、2006年)。つまり、小室直樹氏によると、「口で『平和、平和』と唱えれば平和になると思うのは、照る照る坊主を吊るせば、天気になると信じているのと何の変わりもない。平和宣言を出せば、国際平和につながると考えているのなら、それは中世の呪い師と同じ」だということなのです(同上)。

 この「国連信仰」を支える「照る照る坊主」平和主義の延長線にあるのが、小和田恒外務事務次官(当時)が主唱した「補って余りある犠牲」を払うという「ハンディキャップ国家論」なのです。この「国家論」は以下のように説明されていました。

  <日本は過去の自己の行動や国民の信条として、日本自身が属する共同体たる国  際    社会の共同の利益のためであっても、“特定の行動”には参加しませんということを国家として明確にするわけです。しかし共同体の一員として責任を果たすために、他の分野でそれを補って余りある犠牲を払うことを求められるでしょう>(村田良平『なぜ外務省はダメになったか―甦れ、日本外交』、扶桑社、2002年、214頁からの引用)。

  「共同体の一員として責任を果たすために」と主張する「ハンディキャップ国家論」は、支払い能力原則(theprinciple ofcapacity to pay)に基づき、国連への拠出金を米国についで第二位の金額(2013-2015年は10.833%)を担っている以上に「補って余りある犠牲を払う」べきだと説いているのです。これも「ハンディキャップ国家論」などというつまらない考えを自ら実践している外務省の役人の姑息な態度の弊害です。国民の税金を使いながら「拠出金額第二位の大国」代表を気取って威張っているのです。もちろん、国連の分担金は三年ごとに総会の決議によってその比率が決定されて行くもので、各国連加盟国の国民総所得(GNI)比率を基礎に共通の算出方法に従って決定されるので、外務省の一存で決定されるわけではないことは十分理解できますが、それ以外に、加盟国の「任意」に基づく莫大な規模の拠出金が存在することも否定できないことなのです。

    日本の安保理常任理事国入りの大義は、一言で云えば、日本の財政的貢献が米国の次に大きいということなのです。従って、日本の拠出金の総額に見合う責任を負うべきであり、その責任を担う場所は安保理がふさわしく、日本はその資格を十分に持っているというわけです(北岡、前掲書)。五大国としての常任理事国は既に初めから与えられたものでしたのでその選出のための資格とか基準などは元もと国連憲章には存在していないのです。ただし、憲章第23条第1項に非常任理事国選出に関する要件が規定されています。それによると、「総会は、第一に国際の平和及び安全の維持とこの機構のその他の目的とに対する国際連合加盟国の貢献に、更に衡平な地理的分配に特に妥当な考慮を払って、安全保障理事会非常任理事国となる他の10の国連加盟国を選挙する」とあります。国連憲章第23条のコンメンタールを著したガイガー教授は以下のように「貢献」の内容を説明しています。

 

     <憲章には国際の平和への貢献をどのように決定するかに関してこれという詳しい記述 はない。安保理のメンバー国は平和を確保する機能を果たさなければならないのであるから、安保理事国への立候補国が持つ軍事力に対して特別の考慮を払うべきである。その反面、平和の確保に対する財政的貢献の重要性に鑑み加盟国の経済力も考慮することもよいと考える。又、たとえば仲裁を通じて国際紛争の解決への貢献とか、あるいは、単に国際紛争の当事国としての行動が平和的であるとかのような、小さい国々でも満たすことができるような基準に特別な気配りをすることもよいことだと考える。>(Geiger, “Article 23,” in The Charter of the United Nations: A Commentary (Simma ed. 1995).

 

   これらの基準は二年ごとに改選される非常任理事国の選出に関するものです。しかし、実際の選挙の時には、憲章第23条に規定されている「貢献」基準とは無関係に、政治的かつ地理的な考慮がことごとく本来の基準に取って代わっているのです。ここで問題にすべきものは、外務省が追求したものは安保理の改革による日本の常任理事国入りだったということです。国際の平和と安全の維持に第一義的な責任を担う最も重要なメンバーである常任理事国になろうとする日本であれば、やはり軍事的な貢献ができるかどうかが大きな比重を占めるようになることは避けられないと考えます。大事なことは常任理事国として国連の権威を裏付ける力とその行動力を持っているかどうかなのです。いくら財政的な貢献が大きくても、「ハンディキャップ国家論」にある如く「国際社会の共同の利益のためであっても、“特定の行動”には参加しません」という「平和主義」であれば「国際社会において、名誉ある地位」を占めることができないことは既に1990年の湾岸戦争で実証されているのです。

   云うまでもなく安保理の常任理事国という地位は国連という一大組織の中で、もっとも重大な圧倒的権限を行使できるものなのです。この日本の安保理入りという“改革”には国連憲章の改正を必要としており、憲章第108条の下での改正は、国連総会における全加盟国の3分の2以上の多数によって勧告され、安保理のすべての常任理事国を含む全加盟国の3分の2以上の批准が求められているのです。この常任理事国の定数を増加するという改革は、1963年の非常任理事国の定数増加と違って、直接的に常任理事国の既得権を根本的に揺さぶる大問題なのです。それでも、この困難な憲章改正要件を克服して、もし日本が常任理事国ともなれば、日本の国際の平和と安全の維持に貢献する役割は未曾有の可能性を持つものだと考えます。それはそれで賞賛に価する目標であり、国連のみならず日本の国際的地位の向上と国益の増大にに貢献することは疑いの無いものなのです。

 しかし、外務省に連綿と流れる「ハンディキャップ国家論」やそれに類似した日本の国際社会での役割に関する基本的な考え方と安保理の常任理事国の地位とには相容れないものが存在すると思います。前者は「照る照る坊主」平和主義で小切手を切ることで国際問題を処理しようとする「国連中心主義」が標榜する消極的方法なのに対して、後者は強制力を用いても国際の平和と安全の維持に責任を取るという集団安全保障に能動的に参加して行くという積極的な平和主義なのです。そこには犠牲を払わなければならない場合もありうるということの認識があるからです。にも拘らず、この相反する行動理念に共通していることは「小切手を切る」ことなのです。「国連中心主義」と謳っていても集団安全保障に能動的に参加する意欲も無く制度も整備されていなくても、国連に対する拠出金の額の大きさを根拠として安保理の常任理事国の席を憲章の改正をしてまでも求めるからです。それなのに、これほどに膨大な財政貢献にも拘らず、日本がいまだに「敵国」と見做されている条文(第53,77,107条)が国連憲章の中に存在していることにはお構いなく「国連中心主義」を謳っていられるのが不思議です。「国連中心主義」という「国連信仰」は、加盟国の「主権平等」原則を無視した「敵国条項」が現在も歴然として存在することを許すことにも繋がっているのです。この「敵国条項」も憲章の改正を必要としているのです。

                                                                          Ii

    「戦後秩序」を構築してきたのは「戦勝国」で自らを「平和愛好国」と定義してきた「連合国」なのです。その「連合国」が創りだした連合国憲章を日本だけが「国際連合憲章」と呼ぶものには、「敵国条項」というものがいまだに残っているのです。最近の中国による反日プロパガンダのように、その条項を利用する国も出てくるのです。国連憲章第53条と第107条の基本的な主旨は、連合国の敵国に対して、第二次大戦で確定した事項に反したり、侵略政策の再現を図るような行動などを起こした場合には、国連加盟国や地域的取り組み又は地域的機関は安保理の許可がなくとも、その敵国に対して軍事的制裁を課すことができるという規定です。 

     2012年9月26日の野田首相国連演説に対する「敗戦国が戦勝国の領土を占領するなど、もってのほかだ」という中国からの批判の根拠はこの「敵国条項」にあるのです。直接的な「敵国」であった当事者である日本では、「敵国条項」の死文化とか実際の法的効力は存在しないなどという自国に都合のいい話しを外務省はしていますが、そんな話は「連合国」を主張する国には通用しないのです。国連憲章第107条が第106条と共に「安全保障の過渡的規定」を定めた第17章に組み入れられているのを根拠に、かつての「敵国」は全て「平和愛好国」として憲章第4条が規定する加盟資格を満たして国連加盟国になっているので、「敵国条項」は実質的効力を失ったといわれています。ただし、「過渡的規定」であっても、通常そのような過渡的規定に特定されるべき、限定期間や満たすべき条件・発生すべき、あるいは成し遂げるべき出来事などが一つも規定されていないのです。つまり、「敵国」が「敵国」でなくなる条件が何一つ規定されていないのです。国連第50回総会で採択された「敵国条項削除」に関する決議は、「国連憲章第53,77,そして107条が時代遅れなものになっている」ことを認識しつつも、「敵国条項」の削除による憲章改正のために手続きを開始する意図を表明したに過ぎないのです。それも、いつするのかは “at its earliest appropriate future session”(将来適切な早い会期に)という差し当たり無難な先延ばし策にすぎないのです(国連総会決議A/RES/50/52、15December 1995)。

 2005年9月16日の“世界サミット成果文書”も総会の決議ですが「我々は、総会決議50/52を考慮し、総会で行われた関連の議論を想起し、国連の創設にかかる深遠な大義に留意し、我々の共通の将来を見つめて、国連憲章第53条、第77条及び第107条における『敵国』への言及を削除することを決意する」と決意を表明しただけで、そこには法的拘束力はなにもないのです(「2005年世界サミット成果文書」国連総会決議 A/RES/60/1,2005年9月16日)。この総会決議は、全文書が178段落ある内、「敵国条項」削除に関する段落は177番目なのです。つまり重要性がないと言うことで、外交辞令としての親切さの表現なのです。

     日本と同じように「敵国」であったドイツは、1990年の「ベルリンの壁」の崩壊を契機として東西ドイツの統一が現実のものになるというプロセスの中で締結された「ドイツ条約」によって、四大国(米国、ソ連、英国、フランス)がベルリンとドイツ全体に関する各々の権利と責任を終結する」ことを第7条で規定しています。四大国条約によってドイツに関する限り国連憲章の「敵国条項」は実質上無効になったといえるでしょう。同じように、一般的に連合国、つまり戦勝国と敗戦国との間の講和条約が締結されれば、「安全保障の過渡的規定」に基づく安保理の許可なく軍事行動を起こす自由は消滅するものと考えられます。何故ならば、そのような講和条約には、通常、締約国間相互に対する武力行使の禁止が規定されているからです。この規定は国連憲章の規定を飛び越えて、1928年の「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン条約)に結びつくからです。

     日本も、「敵国条項」の削除という国連憲章の改正が事実上現実味を持たないという現状では、同盟国アメリカを始めとして、他の主要連合国との二国間条約に基づき「敵国条項」に関する当該国の権利・責任の終結を求めるべきだと思います。日本は、1991年4月18日の日ソ共同声明で「双方は、国際連合憲章における『旧敵国』条項がもはやその意味を失っていることを確認」する、と記されています(日ソ共同声明、第18項、1991年4月18日)。ちなみに、中国はというと、「日中平和友好条約」には「敵国条項」に関する言及はありませんが、その第一条には以下のような規定があります(日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約、1978年8月12日)。

 

  1. 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
  2. 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

                                                                                                            

    この条約第一条の規定に誰も異議を出す者はいないでしょう。しかし、中華人民共和国は建国以来「戦後秩序」の基本原則をことごとく破ってきたという過去をもっているのです。ここでヘーゲルの格言を思い出してみましょう。「諸国家の関係は、相互に約定を結びながら同時にこの約定を越える独立者の関係なのである」とヘーゲルが言明しています(ヘーゲル『法の哲学II 』中公クラシックス(藤野渉・赤沢正敏訳)、2001年)。従って条約が遵守されるかどうか、つまり「自国の権利の現実的効力」は各々の国家の「特殊的意志のうち」にあるものであって、上記のような「国際法の普遍的な規定は、どこまでも当為たるにとどまり、その実態は、条約に従う関係とこの関係の破棄との交替ということになる」と言明しています(同上)。 

     従って、問題なのは、「敵国条項」第53条に規定されている「侵略政策の再現」というものが具体的に何を意味するのか、また、誰がその判定を行なうのかに関しての規定は存在していないのです。まして、「敵国条項」の下での軍事行動に関しては、「関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで」安保理は何の権限を持たないのです。さらに、中国は拒否権を持つ安保理の常任理事国なのです。自国に不利になるような決議案が出されれば、中国は拒否権を行使するのは明らかです。結局、「連合国」であった加盟国自身が各々の「特殊意志」によって判断するだけなのです。突如として中国が尖閣諸島を「核心的利益」と断定して、一方的に1992年に中国の領海法を新たに制定し、その中に尖閣諸島を組み入れたことにより尖閣諸島問題の「棚上げ合意」をまず最初に破棄したのは中国なのです。これこそ、まさに、中西輝政京都大学名誉教授が指摘するように「日本の尖閣への実効支配の強化を『再侵略』と位置づけ」ることが、「敵国条項」を発動させる口実なのです(中西輝政「中国の奥の手は『敵国条項』」月刊WiLL、2013年2月号)。今まで、この「敵国条項」をないがしろにしてきた外務省の怠慢が尖閣諸島の領有権をめぐる争いを契機として、その付けが回ってきたのです。

 

                                                                            III,

    以上のように、「国連中心主義」というシンボルは誰がそのシンボルを操作するかによって大きな違いが出てくることは疑いのないところです。但し、そこに共通することは、「国連中心主義」は、その主張者が良いと思う政策を推進するために利用されてきたということです。「信仰」ですから、帰依者の主義・主張や行為・行動を正当化する権威であり、後ろ盾なのです。国連といえども世界193の主権国家の集まりであって、それぞれの加盟国が自国の置かれた地理、文化、歴史、期待、危機、利害関係などの環境に制約を受けながら、いかに自国の利益を増大するか政策を作成していくわけです。その国益を追求するプロセスの中で、対外的に友好関係を築き、同盟を結び、複合的な社会を構成しながら、その内と外でも競合関係を維持して行くのが現代の国際社会なのです。その国際関係の中での行動を律するのが国連憲章の原則なのです。その原則の中でも、個人の選択の自由という基本的人権の尊重こそが、全ての多様性の基になる実証的な根拠となるものなのです。

       したがって、「国連中心主義」というシンボルは、”世界統一政府”などという強制力を備えた世界統治組織が不在のときに、いかにして「国際の平和及び安全の維持」を確保するために、各々の国連加盟国が国際的な集団安全保障体制に対して補完的な役割を能動的に果たすことができるかということなのです。