国際関係における「力」の役割
国際関係における「力」の役割
鈴木英輔
国際関係の営みというものは政治であり、マックス・ヴェーバーが云うように「権力の分け前に預かり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力」なのです(マックス・ウェーバー『職業としての政治』)。 それが対外的に国の利益を追求するときは「国際政治」、「外交」と云われるものですが、いずれにしても「暴力行使という手段に支えられた人間の人間に対する支配関係である」というマックス・ウェーバーのいう政治の真髄は、国内政治であろうとも国際政治であろうとも不変なのです。ただ、国際政治が国内政治と根本的に違うのは、その社会構造にあるのです。国際社会は国内社会と違ってそれぞれの国家が主権平等の原則に基づき、一つの国家の上に立つ強制力を備えた意思決定機関が存在しないことです。国内社会を「垂直的秩序」とすれば国際社会は「水平的秩序」なのです。そのような社会で昔から国家の行動を規律してきたのは、自助と相互依存の原則であって、それを補完するのが互恵と威嚇・報復の原則なのです。これらの原則によって水平的な国際秩序は維持されてきたのです。今起きている尖閣諸島をめぐる日中間の対応の仕方をみれば良く分かるでしょう。国際司法裁判所が存在していても、国家間の係争関係は双方の当事国が合意をしなければ係争事件を裁判所の判断に任せることも出来ないのが現実なのです。そのことが国際社会が「無政府状態」といわれる所以なのです。
I.
そのような国際場裏で一国の対外政策を遂行するために、その国の為政者は政治力・権力を行使するのですが、もちろん、その国の持つ国力を基盤としてなのです。政治のことですから、競合関係に入っている相手国がいるわけです。その相手国の国力、追求している政策の目的、持っている手段、その手段の活用方法など様々な状況を考慮しながら、自国が追求する政策を遂行するために手元にあるすべての手段(外交的なもの、経済的なもの、プロパガンダ的・教宣的なもの、そして軍事的なもの)を運用していくわけです。そのような様々な手段のなかから、ソフトな手段、ハードな手段を巧みに使い分けたり又は混合しながら、政策の目的を確保することによって国益を追及するわけです。政策手段の組み合わせや、相手側に選択の自由を与えるか否か、強制力の行使が在るかないかで手段の硬軟が決まっていくのです。つまり、説得による方法で政策遂行をなすことで代表される一方の「平和極」又は「説得極」から始まって、その一線上に徐々に威圧や強制力を強めて選択の自由を絞って行くわけです。その反対側の極にあるのが「戦争極」又は「強制極」というのがあります。その両極のあいだには、強制力を強めたり、逆に弱めたり、選択の自由を狭めたり、広めたりしていくというのを繰り返すプロセスとしての継続性があります。その継続線上で発生する出来事の結果は一様ではないのです。残念ながらその事実があまり良く理解されていないのが現実なのです。
国際場裏で行動を起こすアクターの行為・行動によって作り出される実際の出来事としての事実状況とそこから発生する法的結果とは全く別のことなのです。その典型的な例が敗戦後68年経った現在でも日本の安全保障政策の議論を空虚なものにしているのが憲法第9条の「武力による威嚇または武力の行使」の禁止という一般規範なのです。武力行使の禁止によって、すべての「武力」が違法であるという議論がまかり通るようになったのです。法規範が何を目的としているかという吟味はそこにはなく、言語的な一貫性のみを追及するという無味乾燥な表面的な文理解釈で満足しているのです。その典型が、禁止されている「武力」という言葉は使用できないので、「武力」を「実力」という言葉に置き換えるという作業でした。小学館の『日本国語大辞典』によると「実力」とは、「武力や腕力など実際の行為、行動で示される力」と定義されています。さらに「実力行使」は「目的達成のために武力など実際の行動を持ってする手段に訴えること」と定義付けられています。すでにお解かりのように、内閣法制局の解釈は同義反復というもので(tautology)、異なった言葉で同じ意味を反復することでは、なんら新しい意味を与えたことにはならないのです。「武力」を「実力」と言い換えただけなのですので、憲法第9条では「実力の行使」は禁じられているのです。こんな結果になるのは、武力の使用目的を考えないからです。武力でも実力でも、それは単なる手段であって、その行使の目的とプロセスに対して中立なのです。使い方により合法にも違法にもなりうるものです。誰が誰に対して使用するのか、何の目的のために使うのか、どのような状況のもとで使用するのかなど、様々な異なった状況が「武力の行使」に関して存在するのです。そのようなそれぞれ異なった事実関係を無視して、「武力」は悪であると断定して、その言葉の使用すら忌避するのは目的価値を考慮しない不毛な言語論法にすぎないのです。
「武力」は、上述したように目的に対して中立なのです。目的達成のために採用する手段の一つに過ぎなく、国の力を形成する重要な要素なのです。「武力」は外交交渉を上手く進めるための暗黙の存在でもあるし、交渉相手に無言の圧力をかけるときの裏づけなのです。対外政策を遂行するプロセスの中で「武力」は、ほかの手段(外交的なもの、経済的なもの、教宣的なもの)とのいろいろな組み合わせで政策遂行のために使われるものであって、その利用される機会は絶えず存在するのです。したがって、クラウゼヴィッツが「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(『戦争論』)というわけは、「強制極」は「説得極」の反対側にある極であって、お互いに時間的に、且つ強制力の度合いを通して継続しているという事なのです。その強制力としての最も実効的な手段を自ら否定しているのが、内閣法制局の「武力」の行使を「自衛権」の発動にのみ限定した解釈なのです。これがいかに歪な解釈であるか、武力の行使の禁止という一般規範が生まれた経緯を考えればよく理解できると思います。
II.
国際連盟を初めとして国際機関は、世界公秩序を維持するために武力の行使を規制するために苦心してきました。紛争解決のために公的な権威・権限と強制力が備わった公的救済機関が存在しないという水平的な社会構造の中で、独立国家として国家主権を行使する権利をそれぞれ平等に持つ国に対して「自力救済」の権利を規制・拘束することは、著しく困難なことだったのです。悲惨な第一次世界大戦の後に、国際連盟は、初めて国際社会として紛争解決のために介入する道を拓いたのです。理事会の紛争介入は紛争当事国双方の合意に基づいて行われるのではなく、その紛争当事国一方だけの要求によっても(連盟規約第15条)、また双方の当事国の要求がなくても、連盟の加盟国のうち一国の要求があれば、理事会又は総会の介入を求めることができるようにしたのでした(第11条)。ただし、理事会が持つ紛争解決の条件を提示する権限は当事国に対する勧告、つまり、紛争当事国を拘束しない提案を示す権限にすぎなかったのです。理事会から提案を受けた当事国はそれを受諾するのも拒否するのも自由だったわけです。従って、紛争当事国双方が理事会の提示する条件に合意しなければその紛争は解決されずにいたわけです。
何故ならば国家間の関係は、それぞれの国家主権を原理とするものですから、ヘーゲルのいうように「そのかぎり諸国家は、相互に自然状態のうちにあり、自国の権利の現実的効力を、超国家的な威力として制度的に確立された普遍的意志のうちにではなく、各自の特殊的意志のうちにもつ」ものなのです。「それゆえ国家間の争いは、それぞれの国家の特殊的意志が合意を見いださないかぎり、ただ戦争によってのみ解決されうる」ものでした(ヘーゲル『法の哲学II 』)。連盟規約第12条第1項、第13条第4項、及び第15条第6項に規定されているように、加盟国は、ある一定の条件の下では「戦争に訴えないことを約束」していたわけです。換言すれば、その条件以外のところでは戦争を是認していたわけです。その欠陥をさらに是正しようとしたのが1928年の「不戦条約」でした。この条約は連盟規約よりもさらに一歩進み「国際紛争の解決のため」の戦争を否定し、「国策の政策の手段として」の戦争を放棄したことが画期的なことであったのですが、その条約違反国に対する制裁措置を全く規定していなかったのです。それでも、戦争を主権国家が保持する権限であるという「無差別戦争観」から離れ、許容される強制(戦争)と許容されない強制(戦争)とを峻別することに力を注ぎ始めた最初の成果が「不戦条約」だったのです。つまり、「戦争禁止」に対する一般規範とそれに相反する、しかし相互に補完的なもう一つの規範とで、一組になる二つの規範を作り出してきました。そのために、1928年の「不戦条約」で「戦争」が正式に禁止されたので「戦争に至らない手段」(measures short of war)に訴える口実や機会を止めることが出来なかったということもありました。そういう苦い経験を踏まえて、国連憲章はその第2条第4項に、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定したのです。「戦争」という言葉を使わず「武力」という言葉を使用することによって、いかなる規模の武力行使、それが「戦争」と呼ばれても、或は「戦争に至らない手段」と呼ばれても、そのすべてを禁止することにより、連盟規約や不戦条約の規定が持っていた抜け穴を塞いたのでした。さらに、単に武力の行使を禁止しただけではなく、憲章第2条第3項において、すべての加盟国に対して、「国際の平和及び安全並びに正義」を危うくしないように、「国際紛争を平和的手段」によって解決しなければならないという義務を列記しています。それを受けて、憲章第33条は「いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他の当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない」と紛争解決に向けての手順を課してます。「国際の平和及び安全の維持」に責任を持つ安保理は、紛争当事国からの要請がなくとも、「いかなる段階においても」任意に「適当な調整の手続き又は方法を勧告することができる」ことになっています。ただし、連盟規約と同じように、安保理が紛争当事国に提示する平和的解決のための手段や方法は、単なる「勧告」に過ぎなく、それを受諾するかどうかは紛争当事国の自由なのです。当事国の合意なしには紛争は解決しないのです。従って、国連憲章第2条第4項で武力の行使を全面的に禁止していても、そのために必要な国際社会の手によって、その社会の構成国間の紛争を解決する制度を作り出すことに関しては「連盟規約から一歩も進んでいない」のが現実です(田岡良一『国際法』)。
III.
憲法第9条の文言は国連憲章2条第4項が基本になっています。にも拘らず、日常の表現としては、一般に「戦争」が「平和」との反語として理解されており、「平和」に対峙する概念と見なされているわけです。あたかも、そのような二つの概念が別々に存在しているように考えられているようです。一つの概念が独立して存在していると、その概念を具現化する「平和な状況」や「戦争状態」にまつわる固定された「時間」と「場所」に焦点が絞られてしまい、その国際関係を担う当該二国家がどのような手段で対外政策を追求し何を勝ち取ろうとしているのか、というアクターの行為や行動を起こさせる要求や思惑などアクターの主観性を蔑ろにしてしまう事になりそうです。まして、「戦争」と「平和」というあたかも二者択一的、又は相互に排他的な表現には、強制力の行使が不在で、説得による方法で政策遂行をなすことで代表される一方の「説得極」から始まって徐々に威圧や強制力を強めていくという当該状況のプロセスとしての継続性が無視される危険があります。「説得極」から始まった政策交渉も平和裏に問題解決が見出せない場合には武力を散らかせ、さらに圧力を掛けることもありうるのです。穏便に話して埒が開かなければ、次の段階に移行するのです。相手が損失をこうむるようなことを示唆するのです。ただし、脅し、または威嚇にしろ、信憑性を持っていなければ実際のインパクトを生み出すことは出来ないのです。「狼少年の叫び」と見なされてしまえば何も起きないのです。メッセージを発する国がどれほどの決意を持っているのか、威嚇が意図した結果を生じさせなかった暁には、その威嚇を実際に行動に転換する意思と力を持っているのかなど、発信国のクレディビリティー、信頼性と尊敬されている度合いがメッセージ受信国の行動を決定づるわけです。
このように一国の対外政策を追求する手段にも強制力の強度の高低があるのと同じように、国際紛争解決の手段を規定する解決方法にも「説得的解決」から「強制的解決」まで強制力の不在から始まって武力の行使に至るまで多岐にわたっているのです。国連憲章の下での集団安全保障の構造を考えてみましょう。国連はその目的の第一に「国際の平和及び安全を維持すること。そのために平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとる」と定めています。さらに、集団安全保障が加盟国それぞれの責任で維持されるように、憲章第2条第5項には、「すべての加盟国は、国際連合がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合の防止行動又は強制行動の対象となっているいかなる国に対しても援助の供与を慎まなければならない」と規定しているのです。
「国際協調主義」や「平和主義」を謳った前文を持つ憲法にもかかわらず、国際の平和及び安全の維持に対して積極的な貢献をすべき機会を自ら閉ざすような解釈を内閣法制局は「武力」に与えたのです。これも「非武装・平和主義」の呪縛のお蔭なのです。その結果、国際主義や国連中心主義などを謳歌しているにもかかわらず、安全保障理事会の決議によってとられる国連の制裁措置や平和維持活動に対しても、身勝手な「武力」行使の解釈をかさに危険な任務を避け、自らの手を汚さずに済ませるように自分の活動範囲を都合のいいように勝手に線引きして主要加盟国としての責任を果たしていないのです。まさに、日本の「平和主義」の実践なのです。小室直樹のうまい表現を使えば、「照る照る坊主」平和主義なのです。「口で『平和、平和』と唱えれば平和になると思うのは、照る照る坊主を吊るせば、天気になると信じているのと何の変わりもない。平和宣言を出せば、国際平和につながると考えているのなら、それは中世の呪い師と同じ」なのです(小室直樹『日本人のための憲法原論』)。 田岡良一が正鵠を得た説明をしています。「戦前にあまり平和主義に熱心でなかった諸国民が、戦後にわかにこれに共鳴し、平和主義はそれまでと比べものにならないほど強く主張される原因」は、「戦争によって生じる生活の困窮、身体および財産が蒙る損害、政府の戦時統制によって受ける自由の拘束など、個人が戦争のために払わされる犠牲を嫌う感情」に日本の平和主義が基づいているからだと断言 しています。そのような個人的な損得という日本的な「平和主義の根底にある欲望は、平和建設のために払わなければならない犠牲に対しても、これを拒否する原因」となると断言していました(同上)。###