国際協調主義に不可欠な「一体化」のための「自己」の確立
鈴木英輔
憲法前文では「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ことを、「普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と高らかに宣言したのです。グローバル化が進めば進むほど、相互依存の度合いは高まります。他者との感情、嗜好、期待、不安などのへの同調、考え方、生活様式、情報、交通・通信手段などの一様化など他者との一体化がさらに進行しているのです。一体化を通しての自己の展開的拡大としての「集合的自己」又は「集団的自己」は、自己を否定して他者にべったりと癒着することではないのです。他者と一体化した集団的自己とは、ヘーゲルが言うように(『大論理学3』)、自己の確かな主体としての認識が存在することによって自己を他者へと映し出すものと、映し出たものが同一であるように現れることです。 自己の確立の基本になるべきものは自由な個人なのです。カントも、「すべての戦争が永遠に終結する」のを目指すために、「ある国家そのものの自由と、それと連合したほかの諸国家の自由とを維持し、保障する」自由な国家間の連合を提案したのでした(『永遠平和のために』)。 では、具体的に日本の安全保障政策を合理的なものにするには何をすべきでしょうか。自由な国としての自己の確立のために、日米関係の積極的な再検討だと思います。「積極的な再検討」ということが意味することは、敗戦後今まで続いてきた米国への依存、追従などに象徴される日本の対米政策の対応の仕方を積極的に見直すことです。つまり、米国は日本の最重要な同盟国であることという認識は変わらなくても、日本と米国との間にはそれぞれ違った利害関係を形成する分野がそれぞれの第三者との関係において出てくるという認識です。その根本的なところにあるものは、一人の個人はユニークなもので、他の人はいくら親しい人であっても、その人とは違った個性・要求などを持っているという認識です。その異なった個性をお互いに認め合うことこそが、一人の人の尊厳を敬うことなのです。そこから初めて人と人との平等な人間関係を創りだすことが出来るものと考えます。 1945年の敗戦以降、日本の安全保障はすべて戦勝国米国の主導の下に調えられてきました。もちろん、日米双方共に、お互いに利用し、利用されることが、それぞれ自国の利益にかなうことだという認識があったからこそ、不均衡な二国間の関係がこれほど長く継続することができたものと考えます。その間、日本は米国に「依存」することに慣れ、米国は米国で、戦勝国としての要求が、何の文句なく敗戦国から受け入れられるものと考えるようになったのも、ごく自然な成り行きであったのだろうと思います。長らく同じ政党が政権を握っていたこともあり、時が経つにつれ、日米二国間には奇妙な「甘えの構造」が形成されていったのです。米国側には「ジャパン・ハンドラーズ」と揶揄される国務省や国防省の現役やかつての対日政策担当者が存在しており、日本側には、その「ジャパン・ハンドラーズ」のカウンターパートである「親米ポチ」と揶揄される親米派の著名人が、政・官・財・産・学界のどこにでも存在しているのです。しかし、その両チームは対等な交渉相手ではあり得ないことは歴然としています。 不平等の関係、つまり基本的には「主従の関係」の上に成立する「互恵」関係としての「甘えの構造」は日本人にとってみれば解かりやすい、馴染みのある関係ですが、そこには、「主」の問題提起に反応して、出来るかぎり「主」の期待に沿うように行動することが前提ですので、「従」の地位にいる者は自己主張が出来ないのです。敗戦後の対日政策の一環として積極的に導入された日米文化交流が創りだしたものは、いつまでもたっても変わることがない米国への依存なのです。米政府・民間の研究基金を通じて形成されてきた日本の学界のヒエラルキーやその恩恵を被ってきた師弟関係という内輪でのアメリカ仕込の知識・人脈の共有・占有を通じての影響力の増幅と地位の継承は、逆に対米批判を避け、米国の政策の支持に回ることになり、そのことにより米国への依存症がさらに深まるという「甘えの構造」を創りだす結果になっていったのです。その実態は大阪大学大学院の松田武教授が鋭利実証した『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー――半永久的依存の起源』に詳しく分析されています。 依存症を温存させる環境の中で「従」である受益者はすべて「主」の考慮の枠の中で、「主」の思惑を先取りするように努めるのです。そこに「ポチ」といわれる所以があります。その典型的な例は占領状態をほぼそのまま踏襲して、「占領の残滓」と批判されている「日米地位協定」です。日米関係を根本的に規定しているこの「地位協定」が改正されない限り日米間に対等な互恵関係を構築することは出来ないことは明白なことです。基本的に今でも米軍は占領軍であるという意識を持っているのです。そのことを象徴しているのが横田空軍基地なのです。米国の軍人、軍属どころか議員、一般公務員など日本の出入国管理局や税関に関係なく自由に出入りしてきているのです。ですから、当時の駐沖縄米軍司令官ヘンリー・C・ストックポール中将は1990年3月に「誰も再軍備し、再起した日本など欲しない。だから在日米軍はビンの蓋なのだ」、と豪語できたのです。まして、このような「理解」は米政府の最高レベルで共有されているはずです。1971年7月に、当時のニクソン政権で安全保障担当の大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーは、同じような主旨の話を北京で周恩来首相としていたのです。キッシンジャーは周恩来に「我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしている」と言い、「総理、日本に関しては、貴国の利益と我々の利益とはとても似通っています。どちらも日本が大々的に再軍備した姿を見たくはありません。そこにある我々の基地は純粋に防衛的なもので彼ら自身の再武装を先送りすることが出来ます」と主張していたのです(『周恩来・キッシンジャー機密会談録』)。そういう政府高官の「理解」は、疑いなく下部へと浸透していっているはずです。 まして、日米安保条約の下で、集団的自衛権を行使できないという法的拘束の下で、つまり日本は米国を護る義務がないのに、米国に護ってもらっているのだという認識を持つ米軍の兵士にとっては、「俺たちが日本を護ってやってんだ」、という自負もあるのでしょう。このような大きな政治的環境の中に20代そこそこの若者が沖縄に来るのです。海外で生活をすることが初めてかも知れないのです。あるいはイラクやアフガニスタンという戦地から来たのかもしれない。もしかして、平和な南国でほっとして、気が緩んだのかもしれない。それでも、当事者である兵士自身にとって最も良いことは、沖縄に来る米軍兵士の間で世代から世代へと伝承されている「いいぞ沖縄は。『治外法権』があるからな」といういい話なのです。巷で通常「治外法権」と呼ばれているものはNATO諸国の地位協定に習い旧日米行政協定の時代と比べれば日米地位協定で改正されているのですが、協定第17条に規定されている日本側の「第一次裁判権」を自ら放棄する密約の存在が「従」の関係を持つ「甘えの構造」の実態を如実に示しています(琉球新報社編『外務省機密文書 日米地位協定の考え方 増補版』)。 2013年12月に、懸案の沖縄普天間基地の辺野古移設問題に対して沖縄の仲井真知事から地位協定の改正を求める要請が政府に出されたのです。この地位協定改正要請が沖縄の知事から出てきたというのが重要な事件なのです。当然、米国国務省は「米国は改定交渉を開始することに同意していないし、検討するつもりもない」と即座に突っぱねたのです。 今まで外務省は、所謂「運用上の改善」ということで地位協定の文面は一切変更することなく済ませてきたのです。この「運用上」の問題を処理するのが、地位協定第25条に基づいて設置された日米合同委員会なのです。ただし、外務省の機密文書である『日米地位協定の考え方』が説明しているように、「合同委員会の合意文書は、原則として非公開扱いとすることが日米間で合意されているので公表されないことになっている」と明記されているのです。つまり、そこで審議され、合意されたものは全て「密室」の中で処理されているのです。米国との地位協定は疑いもなく占領政策の延長であり、実体はその前身である「日米行政協定」とほとんど同じものなのです。地位協定第27条は「いずれの政府も、この協定のいずれの条についてもその改正をいつでも要請することができる」と明記してあるのにも拘らず、協定発効後53年を経ても、改正すべき条文を棚に上げして、山積する問題を米国の意向を汲み取ることによって片付けるという外務省の考え方と態度・姿勢に如実に「従」の側から「主」の期待に沿うという「甘えの構造」が具現化されています。『日米地位協定の考え方』には「政府は地位協定の改正は考えていない」と強調されているのです。 今回の沖縄知事からの要請と内閣・与党からの積極的な反応は前代未聞なのです。普天間基地の辺野古移設を成功裏に納めるために、出来るかぎり沖縄の要望を受け入れるという考えなのでしょう。仲井真知事をして、政府の沖縄振興策に関して「安倍内閣の沖縄に対する思いが、かつての、どの内閣にも増して強いと感じた」といわせるほどに、初めて、政府の心を配るべき対象が米国から沖縄に変わったのです。これも内閣に初めて縦割りの各省の権益を超えての政策作成を可能にする「国家安全保障会議」という仕組みが設置されたからだと思います。また「国家安全保障戦略」を初めて打ち出したことも、外国の基地が自国に存在することの善し悪しをも含む日本の長期的な国益の解明に寄与しているにちがいないないのです。 日米地位協定を見直すと言うことは必然的に日米安保条約の再吟味に結びつくと考えます。現在まで日米関係は絶えず共同歩調をとってきました。ただし、前田哲男氏が明言したように、日本の対米協調に関する「日本の路線選択基準がつねに変わらず、『アメリカの世界戦略』という独立定数の変化に応じて変わる従属変数の位置から動こうとしなかったことも厳然とした事実」なのです(『自衛隊―変容のゆくえ』)。特に1995年2月の「ナイ・リポート」から始まり、1996年8月の「日米安保共同宣言」を経て、日米防衛協力のための指針の見直し(新ガイドライン)と2005年の「日米同盟:未来のための変革と再編」へと日米関係の変質は驚くべきものがあります。この変質は安保条約の微塵の改定もなくしてです。しかし基本的には、江藤淳氏が言うように、日本の軍事力は「あくまでもアメリカの世界戦略上の補完的軍事力であって、北東アジアの日本戦域における現地人を充当した地域的・戦術的部隊である、と規定されている」(『日米戦争は終わっていない:宿命の対決―その現在、過去、未来』)というパラダイムはあまり変更がないのが現実なのです。ソ連邦崩壊と共に幕を閉じた冷戦以降の著しい「日米同盟関係の深化」と言われるものは、「米国とともに行動することを約束している同盟国として評価されている」状況の下で、米国の世界戦略の枠組みの中でどれほど貢献できるかが共同防衛の目標値として提示されるのが実態なのです(西原正・土山實男監修/(財)平和・安全保障研究所編『日米同盟再考』)。 現在の日本が置かれている国際環境を考えた時、特に尖閣諸島を取り巻く領有権の問題と集団的自衛権の行使に関する問題は、「同盟関係」が絶えず内包する二つの不安を喚起させるのです。一つは、武力攻撃が発生して援軍を必要としている時に、本当に同盟国が共同防衛に来てくれるのかどうか、という不安と、二つめは、同盟国の紛争に巻き込まれないかどうか、という不安です。そのような不安を払拭するためには、日米同盟の絆が、逆に縛りにならないように、どこに日本の国益があるのか再確認すべきなのです。日本の戦略的行動範囲というものは、超大国米国が持つグローバルなリーチとは比較にならないものなのです。日本は日本としての独自の重要な国家的利害を持っており、その利害関係は米国のそれと合致する場合も、しない場合も、ありうることを認識すべきなのです。尖閣諸島の問題がどのように米国によって創られて来たかが、矢吹晋横浜市大名誉教授の手により最近克明に分析されました(『尖閣衝突は沖縄返還に始まる―日米中三角関係の頂点』)。集団的自衛権の行使の問題に関しても、議論が一方的に米国のためという固定概念の下で進められているように見えます。村田良平氏の以下のような見解が適切なものだと思います(村田良平『村田良平回想録(下巻)―祖国の再生を次世代に託して』)。 「法律的には米国といった密接な関係にある国との間に限られるものではない。現実 には権利の行使はまず米国との間で行使されるであろうが、この権利を行使する対象は特に同盟関係にある国という限定もない。要するに日本の自衛力は広義の自衛上の必要があれば、いかなる国の自衛力を支援するためにも行使しうる。ただし政策的にはその行使の態様は慎重であらねばならない。」 同盟とは「騎士と馬から成る」と久しくいわれています。この名言はビスマルクが残したものだといわれています。村田氏は「ビスマルクのドイツ帝国も騎士であって、同盟国をもっぱら馬として利用したし、日独伊三国同盟でも、ヒットラーはドイツは騎士で、日本とイタリアを馬として利用したかっただけだ。日米同盟もこの点は基本的にはまったく同様なのである。騎士たる米国に、日本の領土にある基地も、自衛隊も、いいように利用され続けている」と述べています。日米二国間の力関係を考えてみれば、「米国が騎士であり、日本が馬であることもやむを得ない」ことかもしれない。村田氏が「しかし、日米の完全な平等はありえないとしても、より日本側の発言力が増大して当然である」ならば、なぜ、列挙された日本の同盟関係から日英同盟が欠落しているのでしょうか。 日英同盟における同盟国としての日本は主体性があったのです。たとえ「馬」の役割を果たしている時でさえ、自らの意思と馬力で日英同盟に乗じて第一次世界大戦に参戦したのです。あえて言えば、騎士たる英国の手綱を振り切ってです。勿論同盟国英国からの参戦の要請はありました。ただし、日本の中国における権益の拡大に繋がることを恐れた英国は、主に極東と西太平洋に参戦地域を限定しようとしたのです。日本はこれに対して、参戦地域を限定することは無理であると反対し、折衝の結果、参戦地域は限定を設けないことに落ち着いたのです。それどころか、陸軍は再三のヨーロッパ戦線への派兵の要請を拒否、海軍はバルト海への派遣やダーダネル海峡封鎖作戦への参加をも拒否したのです。それでも海軍は太平洋、インド洋と地中海での護衛・救助活動で大活躍をしたのです。それでも、欧州戦線への派兵拒否と海軍による主要戦艦や巡洋戦艦以外の艦艇の派遣に関しても緻密な事後の国際情勢を見据えた冷徹な国益の追求を考慮しての結論でありました。 その結果、日本の国際的地位の「騎士」としての興隆に対して危惧をいだいた米国が日英同盟を解消させ、その代替として出したのが実質上の意味がない「四カ国条約」と「九カ国条約」という「実体のない国際協調という約束」だけだったのです(ジョン・アントワープ・マクネリー原著/アーサー・ウォルドロン編著『平和はいかに失われたか―対戦前の米中日関係:もう一つの選択肢』)。 同盟関係は人馬一体であるべきなのです。騎士は馬を乗り換えることができるし、馬は騎士を振り落とすことも出来るのです。お互いの主体性を認め合うことによって同盟関係は成立するのです。それに比べて、現在の日米同盟は“Show the flag!”や“Boots on the ground!” などと恫喝されておどおどするような主従関係にあるのが実態なのです。1960年に新安保条約が締結されてすでに53年を経ています。旧安保条約の改定には10年の歳月すら必要としなかったのです。旧安保条約から始まる日米安保体制は戦勝国の敗戦国の占領の延長であったことは否定できないのです。今こそ、徹底的に日米安保条約を全面的に改正するか終焉させる方法を真剣に検討すべきだと考えます。すでに米国側からも「日米政治指導者は、いまある同盟関係のほか、実はいろいろオルタナティブがそれぞれについてあるということを認識しておくべきだ」と公言しているのです(谷口智彦編訳『同盟が消える日―米国発衝撃報告』)。2000年の第一次アーミテージ報告では米国と英国との「特別な関係」を「米日同盟のモデル」と考えているとしてます。そして日本が集団的自衛権の行使を禁止していることが「同盟国間の協力にとって制約」となっていると指摘していましす。勿論、日米同盟が米英間の「特別な関係」になるように日米同盟の非対称性を矯正するための「集団的自衛権」の行使の認容を迫ることであれば、その前に、「非対称性」を創りだした根本にある日米関係の「主従関係」を正すことが必要なのだと考えます。安保条約と地位協定の見直しと同盟国としてどのように主体性をもって日米同盟関係に対応するのか、日英同盟に対していかに日本が対応していたかを再検証することにより、日本の主体性がどのように打ち立てられてきたのか学ぶことができる考えます。###