いつか来た道――明治新政府の朝鮮との国交回復交渉と今

                  鈴木英輔

  お隣の国、韓国、との関係は全くといって良いほどに改善する兆候は見えません。

ここで過去にどのような形で日朝の国交が回復されたか、もう一度想起するのも良いのでしょうか。

「我を知つて彼を知らず。その人、沈深狡獰(こうどう)、固陋傲頑(ころうごうがん)、これを覚ますも覚めず」という対朝鮮との交渉に関して途方に暮れた閉塞感を吐露した外務省の官吏がいました。なぜ、そのような気持ちになったのか、昔の経過を見てみましょう。

明治元年1月(1868)明治維新の後、新政府は関係各国に王政復古の旨と新たな政府の樹立を通告しました。隣国の朝鮮に対しては、幕府との朝鮮通信使の往来はすでに途絶えていましたので、昔から朝鮮との交流があった対馬の藩主、宗義達を通して維新王政復古の事情を伝え、国交回復を希望する新政府の国書を提出しました。

朝鮮は、国書の所管の形式が前例と異なるという理由で国交回復の提案を拒否したのです。その基本的な理由は何かといえば、維新政府の書簡の中に「皇」、「勅」「朝廷」などの言葉が使われており、これは従来の慣行と違っているということ、さらに、このような表現は宗主国である清国が朝貢冊封体制の下で属国に対して使うべきもので、日本が会えてこのようなことばを使用するということは、朝鮮を日本の「臣隷」にする魂胆であるとみなされたのです。また、使用された印章が従来朝鮮が宗氏に与えたものとは異なった新しい印章を使っている、ということも理由の一つに上がっていました。いくら朝鮮に対して維新の意義といかに政情が変わったことを説明しても理解することを拒否してたのです。

明治2年9月に朝鮮外交を宗氏の手から外務省に移し、その12月に外務省から佐多白茅(はくぼう)と森山茂の二人の官吏を派遣して、先の維新通知の国書への回答を求めましたが朝鮮側はそれにも応ずることもしなかったのです。そのときに、外務省からの最初の使節団の一員であった佐田が朝鮮に関しての感想をつづったのが冒頭に引用した寸評なのです。

 それでも、さらに翌年、つまり明治3年にも、今度は宗氏を介せずに直接外務卿からの書簡を持って国交の回復を求めたのです。その書簡には、以前朝鮮が嫌った「皇」「勅」「朝廷」などの字句はことごとく使用されていなかったのです。これも朝鮮は拒絶し、交渉は全て宗氏を介すべしと日本からの使節団を拒絶し、旧例に習うことを執拗に要求するだけであったのです。これが「鎖国排外主義」に凝り固まった朝鮮であったのです。

 時はさらに流れ、明治7年6月、朝鮮の国内政情が変化しつつあるとの情報に接し、先の使節団の一員であった外務省官吏森山茂を釜山に政情を視察させるために派遣したのです。その際、初めて朝鮮側が日本の外務省の官吏を公認し、応接したのです。朝鮮側は、日本側に「和解の意思」が明らかであると満足し、日本側の新たな提案、つまり、日本側が新しい書簡を送って朝鮮側がこれを受理するという案を承認する、と日本側の官吏森山茂に回答をしてきたのです。この回答を受けて森山は10月に帰国し、翌年明治8年2月に朝鮮との合意に基づく新たな書簡を携えて朝鮮に渉り新たな返事を求めたのですが、朝鮮側は前言を翻し、今度は、日本の使節団が汽船に乗ってきたこと、洋式の大礼服で宴会場に入ることに異議を唱え交渉を拒否するという従来と同じような排外色に染められた対応の仕方をとったのでした。

 朝鮮側は、日朝の国交は旧制を維持し、交通の手段、服装など過去の慣習に一つでも違えば交渉を拒否するということを伝えてきましたので、森山は外務卿の書簡を提出できずに、明治8年9月20に貴国命令を受け、21日に釜山を出たのでした。

 江華島事件はこの年1875年9月20日に発生したのです。

 それから123年を経て日韓両国は、「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」と呼ばれる「日韓共同宣言」を1998年10月8日に小渕恵三日本国総理大臣と金大中大韓民国大統領により行ないました。この共同宣言は1965年の「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」によって国交が結ばれて以来、過去の両国の関係を総括し、現在の友好協力関係を再確認したもので、これからあるべき日韓関係について意見を出し合い、新たな日韓パートナーシップを構築するとの共通の決意を宣言した文書であったわけです。しかし、韓国議会は、2001年7月18日に、日本の歴史教科書問題に関連し、この日韓共同宣言の破棄を韓国政府に求める全会一致の決議を行ったように、いつも日韓関係は過去の虜になっているようです。

 この共同声明には「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた」ことが記され、 「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた」ことと、「金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した」ことが声明文の冒頭に記されていたのです。

 この声明にあるように「両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力」していきましょう。