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「警察官職務執行法」の準用を止め、自衛隊法第95条の改正を

警察官職務執行法」と準用を止め、自衛隊法第95条の改正を

 

                 鈴木英輔

本書『矛盾だらけの日本の安全保障―「専守防衛」では日本は守れない』は、元陸上自衛隊幕僚長であった冨澤暉氏と高名な老練ジャーナリストの田原総一朗氏との対談です。もともとこの対談の企画自体は冨澤氏が上梓した『逆説の軍事論』(バジリコ株式会社、2015年)に感銘し、刺激を受けた田原氏の提案に始まっています。ですから、冨澤氏の軍事力の役割に対する包括的な考え方を理解しておけば、より本書の価値を十二分に認識できると考えます。

 本書のタイトルが明らかにしているように、日本の安全保障は良く言って「矛盾だらけ」で、悪く言えば、有事の際には役立たず、というところなのでしょう。その典型的例が「専守防衛」という日本だけで通用する机上の概念です。サッカーの試合でも明白なようにドリブルとパスだけうまくてもシュートができなければ試合に勝てないのです。「こちらは攻めていかなくとも、向こうが弾を撃ってきたら全部叩き落せばいい」というこれほどまでに理不尽で非現実的な前提の下に、「全ての弾を叩き落せば日本は絶対安全」だという「絶対にできない」ことを依然として防衛政策の基本方針としているのです(p.28)。 

 この「専守防衛」という愚策の延長線にあるのが武器の使用に関して「警察官職務執行法」第7条を準用することで済ましていることです。従って、対象は「職務」につく「警察官」と同じく、自衛隊法第95条は武器等を「職務上警護するに当たり」武器の使用に関して、その判断を「自衛官は…武器を使用することができる」と自衛官個人に課しているのです。それどころか、武器等の破壊・略奪を目的に攻撃してくる相手から武器等を守るべきなのに、攻撃してくる相手側の「人に危害を与えてはならない」と規定しているのです。その唯一の例外は国内法である刑法の正当防衛(第36条)または緊急避難(第37条)に該当する場合だけなのです。但し、自衛官一人の判断で正当防衛・緊急避難として武器を使用した時には、刑法上その行為が正当であったのかどうかという自衛官個人の責任が問われることになります。

 この状況を南スーダンに派遣された「駆けつけ警護」という任務を帯びたPKO部隊に適用してみましょう。まず第一に日本の刑法が国連のPKO司令の指揮の下で外国で行動するPKO部隊が執った行為に適用されるのかという基本的な問題があります。それどころか、第二に、たとえ日本の刑法が外国で起きた行為に対して適用されると仮定しても、日本の警察・検察が南スーダン共和国という主権国家で現場検証などを遂行する権限は存在しないのです。そもそも文官である警察・検察が兵士である自衛官の武器使用の妥当性を判断するのが理不尽なのです。兵士は軍法に従い武官により構成されている軍法会議と呼ばれる軍事裁判所で裁かれるべきなのです。

 残念ながら、そんなことはお構いなしに、内局の背広組指導の下に「文民統制」(シビリアン・コントロール)は防衛官僚である背広組が制服組を支配することという歪曲した理解の下に自衛隊に関連する法律が今まで創られてきたからです。治安が不安定で国連のPKO部隊の手を借りて秩序を保たなければならないような地域や破綻国家で、自己の生命または身体を防衛するためにやむを得ない必要がある場合とは、相手が危害を加えようとその自衛官のほうに向かってくる時なのです。そのような時に、たとえ武器を構えたとしても、単なる警告や警告射撃だけで十分であるはずがない。にも拘らず、PKO部隊の派遣条件は、戦闘行為が行われておらず、且つ、そこで実施する活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる地域、つまり「非戦闘地域」であるから、「戦闘地域」で必要になるような武器や装備は必要ないという「言葉」の定義から割り出される机上の結論なのです。 そこには現場での流動的な治安状況の理解などなく、「駆け付け警護」と「宿営地の共同防衛」という新しい任務を課された自衛官の生命、身体の安全を危険に晒しているという自覚などは毛頭ないのです。その証左に1978年7月に起きた当時統合幕僚会議議長であった栗栖弘臣陸将の有事法制の早急な整備を促す発言以降「この問題は全然解決していないのです」(p.44) という。

 文民統制の主体的責任を負うべき為政者も、それを支えるべき官僚も、啓蒙すべき学者も、内閣法制局の独善的な言語的な一貫性のみを追求するという無味乾燥な表面的な文理解釈による目的価値を考慮しない不毛な言語論法に翻弄されたままでいるのが実態です。その結果、敗戦後の法・政治思想状況下で日本の国を自ら守るという国民的コンセンサスも、有事の際にその防衛行動の意思決定を実施に移すメカニズムも存在しないのが現実なのです。世界的な戦略家エドワード・ルトワック氏が断言するように、「日本は国家安全保障面でアメリカから独立していない」からです。まして、日本国憲法の前文にある「平和主義」と第九条の「不戦」と「非武装」を守るという、いわゆる「護憲原理主義者」は、日本を永久に敗戦国として米国に従属させるという米国の対日政策を代弁しているのです。

 残念ながら、日本の政策論争には、「自衛権」の保持を認めながらも、その権利を行使するのにどのような手段をとるかという問題に真摯に向かい合ってこなかったのです。その良い例は、尖閣諸島の防衛でしょう。2005年の『日米同盟:未来のための変革と再編』という日米合意文書で「日本は、弾道ミサイル攻撃やゲリラ、特殊部隊による攻撃、島嶼部への侵略といった、新たな脅威や多様な事態への対処を含めて、自らを防衛し、周辺事態に対応する」と明記されているにも拘らず、日本の一番の懸念事項はアメリカが助けに来てくれるかどうかなのです。なぜそうなるかといえば、ルトワック氏が指摘するように「日本が自国の安全保障をすべてアメリカに依存する」からであって、その結果、本来日本の責任である自国の島嶼防衛すら自分でできないのは、日本が独立した機能をもたないからです。本書の著者冨澤氏が端的に指摘するように、「当初から、アメリカが日本に置いた基地は日本を守るため」ではなく、「西側陣営の東アジアを守るのがアメリカの狙いだった」(p.24)のです。このことは現在でも同じで、「アメリカの主な活動は必ずしも自衛ではない。それよりも、世界の秩序を維持すること、世界の平和を守ることです。そのために仲間と一緒になって夜回りをやる。その本質は、『平和の敵』である国や集団に制裁をかけること」であり、それが「集団安全保障」であると説いているのです(p.148)。       

 本書の痛快な点は、「内閣法制局が、国連軍であれ、多国籍軍であれ、有志連合軍であれ、PKOであれ、要するに集団安全保障に参加して武力行使することを、自衛の問題と勘違いしていることです」(p.219)と内閣法制局憲法解釈が間違っていると指摘することです(p. 217-220)。内閣法制局こそ、刑法第36条で正当防衛として急迫不正の侵害に対して「他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」を違法性阻却事由として認め、第37条でも、緊急避難の対象として「他人の生命、身体、自由または財産に対する現在の危機を避けるため」にした行為を認めているのにも拘らず、その独善的な自国と外国という二元論に則り、日本以外の諸外国と共に共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際協調主義を否定し、恰も日本国憲法が「一国平和主義」を支持奨励している如く、「集団安全保障についてはまったくトンチンカンな」(p. 218) 詭弁を展開してきたのです。

 本書は対談を通じて疑問に答えるというプロセスの中で国際社会の責任ある一員として日本の直面する防衛問題を分かりやすく、明確な説明と解説を提供しています。ただ二人の対談のために時たま用語の混乱が見受けられることです。田原氏は「日中戦争」と言い(p.172-174, 181)、冨澤氏は「支那事変」と正しく言及しているかと思えば (p.167, 173-177,180)、冨澤氏が「日中戦争から太平洋戦争」(p.181) などと口走ると、一貫して「太平洋戦争」(p.4、165、187)と言っていた田原氏も反対に「まさに大東亜戦争の始まる直前ですね」(p.181)とか「それは大東亜戦争と同じことではないか」(p.188)などと興に乗る始末です。まぁ、これも御愛嬌だと思いながら読みました。一方、冨澤氏の単著である単行本『逆説の軍事論』では「太平洋戦争」という言葉は一度だけ「大東亜戦争(太平洋戦争)」(p.209)と出てくるだけで、あとは一貫して「大東亜戦争」と正式な名称を使っているのです(p.208、241)。

 本書は、小室直樹氏の表現を借りれば、祈るだけという「テルテル坊主平和主義」ではなく、「日本の平和」は「世界の平和」があってこそ達成できることを認識して、積極的に平和を創り、維持するために「世界の平和」に積極的に貢献すべきであるという著者の主張に共鳴します。少しでも日本の安全保障に関心のある人は、ぜひ本書を一読して基本的な問題を整理してみることを勧めます。本書は対談本によくある以前に書かれた題材の蒸し返し本ではない。驚くほど内容の濃い稀な対談本です。###