集団的自衛権 と「自衛のため」:政府見解の問題点

 

集団的自衛権と「自衛のため」:政府見解の問題点

 

鈴木英輔

昨今の集団的自衛権の論議は、かねてから言い尽くされた議論の蒸し返しで、なんら建設的な意見が出て来ません。その理由は、「自国」と「他国」という二元論にたつ今までの政府の「集団的自衛権」の定義が混乱しているからだと思います。そこには「全体」の「一部」であり「一部」の利益が「全体」の利益を構成しており、その逆も同じであるということが認識されていないからです。まず、政府が「集団的自衛権」をどのように理解しているのか、『防衛白書』にある以下のような「集団的自衛権」に対する政府の基本的な考えを見てみましょう。

 

「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有するとされている。わが国は、主権国家である以上、国際法上、当然に集団的自衛権を有しているが、これを行使して、わが国が直接攻撃されていないにもかかわらず他国に加えられた武力攻撃を実力で阻止することは、憲法第9条の下で許容される実力の行使の範囲を超えるものであり、許されないと考えている」。

 

 この政府見解は基本的には2003年度の国防白書から定式化されたものです。「集団的自衛権の行使」の是非に関するもろもろの論議が混乱するのはこの定義に問題があるのです。「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という形容句が防衛の対象を「自国」と「他国」に峻別することによって「集団的自衛権」の本質を見逃すことになるからです。

 集団的自衛権の基本的な概念は、「自己同一認識」、セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)、という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することです。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的に新たな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される一蓮托生の「共同体」です。それが「自己」の展開的拡大といわれるものです。「地球はひとつ」という「プラネット・アース (Planet Earth)」が宇宙から日本以外の国が攻撃されたとき、日本は「自国が直接攻撃されていない」ので地球防衛のためでも自国に留まって何もしないでいるのだろうか。

 現在論じられている「集団的自衛権」の論理は根本的にその基本概念が間違っているのです。「自己同一認識」の展開的拡大は別に新しい概念ではなく、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由としているし、第37条でも、緊急避難の対象として「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、自己以外の他人の利益の防衛・保護の行為を対象にしているのです。したがって、『防衛白書』で記述すべき形容句は、より能動的に「あたかも自国が直接攻撃されたのと同等とみなして」と書くべきであって、受動的な「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」ではないのです。

 このように「自己同一認識」の下に「自衛のため」を理解すれば、「自衛」の「自」は「自国と密接な関係にある外国」をも自国と同じものとみなすことが可能です。当然のこととして、『防衛白書』にある「集団的自衛権」の後半の記述はこの新しい概念に基づいて書き換える必要があります。###