ものの考え方
ものの考え方
鈴木英輔
何をするのにも、何故、何のためにするのかを考えることが大事だと私は考えます。これは政策指向というより政策志向といった方がより正確なのかもしれませんが、何の目的のために特定の行動をとるのかを考えることです。ある人が目標や目的を定めるのには、その人の内から出てくるもの、つまり、これがしたい、あれが欲しい、という欲望・欲求がまずあり、そしてその欲求を満たそうと、獲得しようとする意志があって、初めて行動に移すことができるのです。ですから人を評価するときに、「あの人は欲がないから」とか「もう少し向上心を持て」などと言われるのは、一つの行動を起こす時、ある行為をなす時の基になる身体の中から出てくるような気力です。気力があっても支離滅裂な行為や盲滅法な行動をしていれば、「しっかり目標を持て」とか「ちゃんとやることに眼をすえろ」などと叱咤されるのです。従って、政策志向の考え方というのは、目的を実現するためにどのような行動をとるべきであるのか、その人が持つ力や置かれた環境・境遇や状況を鑑みて現実的に実現可能な最善策を求めていく思考方法です。これを「目的論的解釈」という人もいます。その真逆の立場で考える人は「文理解釈」をする人でしょう。それがどれほどの違いを結果として作り出すか簡単な具体的な例を使って考えて見ましょう。
例えば、日常生活で絶えず直面することです。交差点に差しかかりました。横断しようとした時には信号は「赤」になりました。でも車は何も走っていません。どうしますか。このときに、「急用があって急いでいる」場合もあるでしょうが急いでいなくても考え方は同じです。交通信号がなかったらどうしますか。信号がそこになければ、誰でも自分の頭で、横断しても大丈夫か、安全を確かめて渡るはずです。どうして信号が「赤」の時に全く車が走っていなくても「青」になるまでじっとして待っているのでしょうか。遵法精神が強いといえば聞こえが良いですが、実は他人の判断に任せていて(この場合は機械任せですけど)、自ら自分の頭で考えていないのです。信号が「赤」となればとまり、「青」となれば歩くのです。それは、自ら考えることをやめ、自らの判断を放棄しているわけです。これが一口で言えば「文理解釈」といわれるものです。
ではもっと基本的なことを考えて見ましょう。なぜ私たちは信号がないときに横断する前に左右交互に眼を向けて車が走っていないか、来ないかどうかを確かめて、はじめて横断するのでしょうか。車は便利な交通手段ですが、人に危害を与え殺すこともする凶器に成り得るものです。ですから車が走行する道路を横断する時には、自分の身の安全を確かめるのが目的になるのです。もちろん、交通量が多くなれば信号は交通が混乱・渋滞しないように交通整理の目的も二次的にありますが、第一義的な目的はまず「安全」の確保でしょう。交通事故を防ぐこと、車対車の事故を防ぐことはもちろんのこと、車対人の事故を防ぐことが第一義的な目的でしょう。そこに「歩行者優先」という政策が出てくるわけです。従って、信号「青」で走行してきた車でも人身事故を起こしてしまった場合には、歩行者の過失70-80%に対して自動車の過失は30-20%という過失相殺をしているのです。
交通信号の目的がまず人身の安全の確保であれば、身の安全が確かな場合とは車が全く走行していない時でしょう。その場合、たとえ私が「赤」信号を無視して横断したとしても、だれにも迷惑を掛けないものと思います。そのように考えて行動するのも「政策志向」又は「目的論的解釈」といわれてもいいようなもので、反対に、信号が「赤」だから「青」になるまで待つのが「文理解釈」といわれるかもしれないものです。もちろん、そのような「目的論的解釈」に立った場合でも、その場に交通整理のための警察官が任務についていたら、たとえ身の安全が確保されていても、あえて「赤」信号を無視して横断しようとは考えないでしょう。そんな行動は警察の権威に対する挑戦であり、その任務についている警官に対する侮辱にもなるわけです。そんなことをしたら「信号無視」のかどで交通規則違反で罰金を食らうのが落ちでしょう。それこそ身の安全を危うくする破目になりますよ。