集団的自衛権の行使は合憲である---マニラから安倍首相と高村副総裁への後方支援

集団的自衛権の行使は合憲である---

マニラから安倍首相と高村副総裁への後方支援

 

 鈴木英輔❋

 安保法制の国会審議の趨勢に潮目が変わったなどと歓喜する群集が出てきている今日この頃、敗戦後70年になるこのときに、「一国平和主義」からの決別を鮮明にし、国際社会で責任ある国としての日本の安全保障に関する法体制を整えようとしている安倍首相と高村副総裁の決意と尽力に対してエールを送るとともに、更なる理論的後方支援をマニラから行ないたいと思います。

I.

 日本国憲法第9条を何回読み返しても、「自衛権」という言葉は見つからないのです。それどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、「自衛権」という言葉に言及しているものはなんら存在しないのです。したがって、「非武装・平和主義」に陶酔していた新憲法採択時において、吉田茂首相をも含む多くの人が、日本は「自衛権」も放棄したと考えていたということがあったのです。憲法公布の時点ですら、その主体である日本国は敗戦国として連合国の占領下に置かれており、日本国政府のすべての権威・権限は連合国最高司令官の権威・権限に従属していたのですから、あえて、時の政府の首相が連合国最高司令官の意向に反するような意見を述べるというようなことは考えられなかったのです。まして、1952年3月、吉田茂首相は参議院予算委員会の証言で、「自衛のための戦力」といえども、再軍備に違いないから、憲法改正を必要とすると言明してたのです。さらに、1954年12月鳩山内閣も、自衛隊憲法に違反してはいないが、政府はは憲法に関する誤解を避けるために機が熟すれば、憲法改正のために適切な処置を講ずるであろう、と以下のような政府見解を出していたのです。 

 「第一に、憲法自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権   利である。憲法はこれを否定していない。従つて現行憲法のもとで、わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である。  二、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。二、他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

  自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。  自衛隊は軍隊か。自衛隊は外国からの侵略に対処するという任務を有するが、こういうものを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかしかような実力部隊を持つことは憲法に違反するものではない。  自衛隊違憲でないならば、何ゆえ憲法改正を考えるか。憲法第九条については、世上いろいろ誤解もあるので、そういう空気をはつきりさせる意味で、機会を見て憲法改正を考えたいと思つている」。(昭和29年12月22日鳩山内閣政府見解。第21回国会衆議院予算委位階第2号)

 では、どうして、憲法に全く書かれてない「自衛権」なるものが出てきたのでしょうか。さらに、どうして「自衛権はあるけど、自衛のための武力行使違憲である」といわれていたのが、どうして実力部隊を設けることが違憲ではないことになったのでしょうか。

 日本側から積極的な意味で「自衛権」なる言葉が発せられたのは、マッカーサー連合国最高司令官が1950年元旦に出した「年頭声明」の中で、日本国憲法自衛権を否定したものではない、と表明した時点からなのです。何故かと言えば、日本を取り巻く国際環境が変化したからです。ますます米ソの冷戦の激化が進み始め、それまでの対日占領政策(非武装化・国力弱体化)に全面的な修正をなさざるを得なくなったからです。劇的に変化した国際環境に対応するため、新たな憲法解釈を施したわけです。

 どの法律条文を一つの事実関係に適用するのにも、人の解釈を必要とします。法規範というものは、一定の数値と必要な情報を法規範装置に入力すれば自然と答えが出てくるような自己完結的な自律的規範ではないのです。生身の人間が該当する条文を読み、理解し、解釈して適用するものです。その解釈の基になったのが、独立を回復した主権国家として日本国が保持する国際法上の「自衛権」の認定でありました。第二次世界大戦後の世界秩序を構築した基本法である国連憲章にある国際慣習法を踏まえた権利です。1951年9月に署名されたサン・フランシスコ講和条約第5条(c)項は国際法上の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を明確に規定していたのです。当時新たな憲法解釈によって自衛権を保持することになった事実に対して「立憲主義の否定である」などつまらないうわ言を発するものはいなかったのです。

 その後の警察予備隊の創設から保安隊を経て自衛隊にいたる変質は、そのたびに国際環境・状況の変化に対応しながら憲法解釈によって自衛力の増強と任務・役割の拡大がなされてきたのです。安全保障に関する議論は憲法第9条の文言と現実に執られている政策との乖離を整合させるために、絶えず苦悩に満ちた詭弁や紆余曲折の説明を軌跡に残してきたのです。憲法第9条第2項の核心的問題に言及することを避けて来たからです。何故ならば、憲法前文が描く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという虚構の世界では「われらの安全と生存を保持」するために持つべき自らの手段は否定されたのです。「安全と生存」 を担保すべき強制力が不在なのですから、日米安保条約はその制度上の不備・欠陥を補完したのです。そして米軍による戦力の補填に関しては,最高裁判所憲法9条第2項の言う「その保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国軍隊はたとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力に該当しないと解すべきである」と判断したのです。つまり、最高裁の意見では、米国の補填による「戦力」は合憲だが、「自衛隊」は「わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であるので違憲という結論になってしまうこともありうるのです。そういう状況の中で、日本の漸増的防衛責任は第9条の文脈では居場所を失う虞があったのです。そこで、第9条第2項に関して新たな「創造的」な憲法解釈を必要としたのです。

 

II.

問題は、この「戦力」の保持に関する解釈が「自衛隊は戦力なき軍隊」から始まり「自衛の為の戦力は憲法の禁ずる戦力ではない」また「自衛のための必要最小限度」の兵力という所に至るまで「まるで三百代言のような、ごまかしの論弁をしておりました」と辰巳栄一に言わせるごとく、憲法解釈を通じて詭弁を弄してきたのです。現在、憲法解釈によって集団的自衛権の行使を容認することを「立憲主義の否定だ」などと、のたまう御偉い先生方は、柄谷行人氏の「憲法九条戦争放棄、軍備放棄を唱えていることは明からですが、実際には、それを適当に解釈して、現状を肯定してきた。だから、憲法を守るといっても、欺瞞的です」という批判を噛み締めるべきなのです。もっとも、「護憲」を主張するお偉い先生方には、「知の利権」とも云うべきものが絡んでいるのでしょう。自分の人生を「九条を守る」ために研究してきたその成果としての知的財産が新しい憲法解釈によって潰されることに耐えられないのでしょう。

 最高裁の1959年「砂川事件判決」以来、裁判所は、自衛隊の存在が憲法第9条に違反するかどうかの判断は「統治行為」に属し、それが「一見極めて明白に違憲、違法と認められるものでない限り司法審査の対象ではない」という最高裁の判決を踏襲しており、「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものである」としているのです。従って、自衛隊憲法第9条第2項の「戦力」に当るかどうかについては、裁判所の司法審査の及び得ないところであるとし、最高裁は、原告の主張を斥け、自衛隊の合憲性の判断を行わないまま訴訟を終結させたのです。

 独立した主権国家としての日本を徹底して弱体化する原点が憲法第9条であったとき、その“聖域化”を成功させたのが検閲によって創り出された「閉ざされた言語空間」だったのです。その「言語空間」から作り出された政策論は総て“聖域”に含まれている憲法改正を必要とするような政治性の高い核心的な問題は上手に避けて議論されてきたのです。それが多くの日本の政治家も、政治学者・憲法学者も含めて、彼らの姑息な「リアリズム」であったのです。しかし実際には為政者も、それを支えるべき官僚も、啓蒙すべき学者も、それぞれ「交戦権」が第9条第2項で放棄されている事実が国際関係や国際政治の実際の現場でどのような結果をもたらすのかを吟味する人は数少なく、多くの人は、憲法にある「交戦権」と言う「ことば」の解釈を机の上でアカデミックな研究対象としてして来たに過ぎなかったのです。 まさにそれは「国ごっこ」をしてたにすぎなかったのです。

 先日(6月12日)亀井静香氏は「ジジイだからといってこういう危機に黙っておるわけにはいかん!」と気勢を上げておられましたが、一体どんな「危機」のお話なのでしょうか。尖閣諸島の周りの接続水域どころか領海を毎日の如く中国海警局の巡視船が侵犯していても、日本の海上保安庁の巡視船は、不法侵入する中国海警局公船に対して、警告を発することしか出来ないでいるのです。その警告を無視して不法な測量や調査を推し進めていても、日本の巡視船はその不法行為を止めることも、何も出来ないでいるのです。そのような、まさに危機状況にある現実に対して、何をすべきかという実質審議は何もなされないままで、机上の「立憲主義」の神学論争が行なわれているのです。国家の安全保障を議論すべき時に、今起きている現実の安全保障の危機は棚に上げて、集団的自衛権に関する全く不毛な神学論争に明け暮れるのは、なんという政治家としての不作為なのでしょうか。亀井氏は「日本は戦後、国際的に、いわゆる普通の国ではない国ということを国是として進んできた」とのたまうていらしたのです。敗戦後、占領下で「閉ざされた言語空間」の中で新憲法を採択する以外にすべがなかったために、「いわゆる普通の国ではない」ということを受け入れなければ成らなかったことがジジイに成った今まで続いてきたのです。その敗戦後の壮年期の政治家としての無作為を正当化するための「危機」のお話なのでしょうか。「安全保障環境を整えることは国家の最重要課題だ。しかし、僕は今の国会に国の運命絵を委ねる気にはなれない」と橋下大阪市長が嘆くのはもっともなことなのです。

 先日、民主党長妻昭代代表代行が旨いことをおっしゃっていました。6月12日の衆院厚生労働委員会の渡辺博通委員長の入室を実力行使で阻止し、議事を妨害したことに関し、暴力による妨害を正当化したことを、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」と。まさに、同じことが尖閣諸島の現在の危機に当てはまるようです

 中国は尖閣諸島近くに一大基地を造ることが既に明らかになりましいた。尖閣諸島から最も近い温州市に建設するといいます。長妻氏のおっしゃるように、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」でしょう。これほどの危機が切羽詰っているのにも拘らず、中国に媚を売るだけで自国の安全保障に真摯に向かい合っていないのです。藤井裕久氏の如く、「中国の肥大化が危惧されているが、これは対立的軍事同盟ではなく、国際連合による対応を第一義とすべきである」とのんきなことをおっしゃっています。不法な、国際法や国際慣行にことごとく違反する中国の南沙諸島の埋め立て、軍事基地化に対して国連が何をしたとお考えなのでしょうか。ご教示をお願いしたいものです。

 

III.

 6月15日に憲法学者長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授と小林節慶應義塾大学名誉教授が、わざわざ日本外国特派員協会に出向き記者会見を行ないました。両教授は、政府・与党が今国会での成立を目指す安全保障関連法案について、笹田栄司早稲田大学政治経済学術院教授とともに、6月4日に行われた衆院憲法審査会で「違憲」との認識を表明していたのです。その中で長谷部教授は「核心的な部分、つまり集団的自衛権を容認している部分は明らかに憲法違反であり、他国軍隊の武力行使自衛隊の一体化、これをもたらす蓋然性が高いからです」と鬼の首を取ったように集団的自衛権の行使は違憲であるとのたまうのでした。

 しかし、両教授の「違憲」という結論を導く前提となるべき集団的自衛権の概念が具体的にどのような意味を持つものであるか、両教授ともに全く間違えているのです。前提が誤っておれば、必然的にその結論は間違っているのです。そもそも内閣法制局の解釈自体が間違っているのですから、国際法の専門家でない両教授を責めてもしょうがないのですが、得意になって外国特派員の前ではしゃいでいるお偉い先生方の議論に冷や水を掛けるようで申し訳ないと思いますが、なぜ間違っているかをこれから明らかにしたいと思います。

 集団的自衛権の有権的解釈は1986年の国際司法裁判所の「ニカラグア事件」の判決に示されています。第一に、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が国連憲章第51条に規程されているだけではなく、既に国際慣習法として確立していると判断が下っているのです。その意味するところは、慣習法と実定法(条約)とは別々に平行して存在しており、実定法で同じ権利を扱っていても、一方が他方を無効にするわけではないということです。第二に、「集団的自衛権」という概念は、個別的な自己(自国)の防衛権(自衛権)と同一線上にあり、自己(自国A)に対しては直接攻撃されていないけれども、自国(A国)と密接な関係にあるB国に対する攻撃を自国への攻撃と見なして、B国の防衛のために参戦するのが「集団的自己」(collective self)の防衛権というものです。国際司法裁判所が「ニカラグア事件」の判決の中で集団的自衛権の内容を解明するのに、米州機構憲章にある「米州の一国の領土保全又は領土不可侵あるいは主権又は政治的独立に対するいかなる侵略行為も、米州の他の全ての諸国に対する侵略行為」とみなされることにあるということを教示しているのです。それと同時に、集団的自衛権の発動要件として、A国(自国)と密接な関係にあるB国への攻撃が発生しても、そのB国から攻撃されたという宣言と、A国に対してB国の防衛に支援してほしいという要請がなければ、A国は集団的自衛権を行使できないと規定しているのです。

 ところが、日本国だけが、摩訶不思議なことに、内閣法制局の統一見解に見られるように、国際慣習法として認められている「集団的自己」を実際には否定しているのです。日本は主権国家として集団的自衛権を有する、と認めることは「集団的自己」つまり、密接な関係にある外国との安全保障上の一体化によって成り立つ「集団的自己」の確立を認めることなのです。にも拘らず、国連憲章にも明記されているし、国際慣習法として確立しているので、敢えてその事実に逆らって否定することも出来ないので、集団的自衛権は保持しているといい、その中身の一番重要な、この「一体化」をことごとく否定しているのです。実際には、集団的自衛権を有すると公言することは単なるリップ・サーヴィスをしているのに過ぎなかったのです。そこに、内閣法制局の解釈の欺瞞があるのです。

 内閣法制局の都合のよい憲法解釈によると、集団的自衛権は、個別的自衛権とは違い、攻撃されていない第三者の国が自国の防衛のためではなく、攻撃された外国の防衛にはせ参じるものであるという話にしたのです。そこには、守るべき「集団的自己」(collective self)という前提が欠落しているのです。つまり、直接攻撃されていないA国が、何故攻撃されているB国の防衛のために参戦するのかという意義を理解していないのです。守るべき自己を対象とする「個別的自衛権」の延長線上にある「集団的自衛権」は、他国の利益と自国の利益を一体化することによって、B国への攻撃を自国(A国)に対する攻撃と見なし、集団的自己を防衛するという概念が前提にあるのです。

 敗戦後70年になる現在でも日本の安全保障政策の議論を空虚なものにしているのが憲法第9条の「武力による威嚇または武力の行使」の禁止という一般規範なのです。武力行使の禁止によって、すべての「武力」が違法であるという議論がまかり通るようになったのです。法規範が何を目的としているかという吟味はそこにはなく、言語的な一貫性のみを追及するという無味乾燥な表面的な文理解釈で満足しているのです。その典型が、禁止されている「武力」という言葉は使用できないので、「武力」を「実力」という言葉に置き換えるという欺瞞的な作業でした。 

 『日本国語大辞典』によると「実力」とは、「武力や腕力など実際の行為、行動で示される力」と定義されています。さらに「実力行使」は「目的達成のために武力など実際の行動を持ってする手段に訴えること」と定義付けられています。すでにお解かりのように、内閣法制局の解釈は同義反復というもので(tautology)、異なった言葉で同じ意味を反復することでは、なんら新しい意味を与えたことにはならないのです。「武力」を「実力」と言い換えただけなのですので、逆に言えば、憲法第9条では「実力の行使」は禁じられているのです。こんな結果になるのは、武力の使用目的を考えないからです。武力でも実力でも、それは単なる手段であって、その行使の目的とプロセスに対して中立なのです。使い方により合法にも違法にもなりうるものです。誰が誰に対して使用するのか、何の目的のために使うのか、どのような状況のもとで使用するのかなど、様々な異なった状況が「武力の行使」に関して存在するのです。そのようなそれぞれ異なった事実関係を無視して、「武力」は悪であると断定して、その言葉の使用すら忌避するのは目的価値を考慮しない不毛な言語論法にすぎないのです。

 

IV.

本題に戻りましょう。政府の統一見解によると、「集団的自衛権」の定義は「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利を有するとされている」と規定されています。この定義では、主権国家として日本も集団的自衛権を保持しているように見せかけていますが、実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法集団的自衛権の存在を認めていないというのです。今までの集団的自衛権の論議は、攻撃の対象が「自国」であるか「外国」であるかによって決定されるという二元論に立脚するものです。つまり、「自衛権」というものは「自国」を防衛するものであって、「外国」の防衛にはせ参じるということは、憲法第9条第1項で許されている「自衛のため」に合わないので「集団的自衛権」は行使できないという論理なのです。「行使できない 」というと、集団的自衛権は保持しているが、自らの意思でその権利を使わないことを決定したという響きがあります。しかし、現実にはこの統一解釈には「集団的自己」という概念が存在しないのです。内閣法制局の表面的な文理解釈では、極めて理不尽な限定的な定義を恣意的に与えることによって、集団的自衛権の行使を全く出来ないようにしたのです。

 内閣法制局による憲法第9条の解釈には、日本以外の諸外国とともに共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際協調主義に不可欠な基本的な認識が欠けていることです。「一国平和主義」なのです。その結末が国連武力行使を伴う制裁措置やPKOへの参加と集団的自衛権憲法上での否認なのです。この基本的な認識の欠如により導かれたものが、驚くこと無かれ、独善的な「一体化」否定論なのです。まして、憲法前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と戒め、この「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と断言しているのにも拘らずにです。内閣法制局の「一体化」を否定する論理は憲法が歌う「国際協調主義」を根本から否定するものなのです。

 集団的自衛権の基本的な概念である「集団的自己」の防衛の基礎には、「自己同一認識」(self-identification)という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することにあります。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的にまたは集合的に、新たな、より大きな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される「共同体」なのです。それが「集合的自己」なのです。現在の極度に密接化した世界的な相互依存と瞬時に世の中の出来事のインパクトが身にしみるというグローバル化の世界では、益々「集団的自己」に対する認識が深まるのは当然なことなのです。まさに、集団的自衛権の基になるものは、他者への「一体化」を通して「自己」を展開的に拡大して、集団的自己として拡大された主体を形成するものなのです。内閣法制局憲法解釈は、必須条件であるその「一体化」を否定するものなのです。2004年1月に秋山収内閣法制局長官は、「自国」と「外国」とを峻別した法制局独自の「集団的自衛権」の概念を以下のように端的に言明しています。

「お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます」。

現在論じられている「集団的自衛権」の論理は根本的にその基本概念が間違っているのです。「自己同一認識」の展開的拡大は別に新しい概念ではなく、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、急迫不正の侵害に対して、「他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由としているし、第37条でも、緊急避難の対象として「他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、他人と共に危機感を共有して「一体化」するからこそ、惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をする行為を対象にしているわけなのです。残念ながら内閣法制局の「自己同一認識」の「自己」に対する理解が、日本の刑法ですら採っていない理解に基づく旧態依然とした硬直した理解に基づくものです。その理解は「自己」を一人の個人又は一つの国家のみに限定したハンス・ケルゼンの亡霊に取り憑かれているからです。 

 

そこで、老婆心ながら、以下の書籍と論文をお勧めいたしたく存じます。

佐瀬昌盛『新版 集団的自衛権 ― 新たな論争のために』(一藝社、2012年)

鈴木英輔「内閣法制局の『集団的自衛権』に関する解釈を超えて:日米安全保障体制の再検討」、『総合政策研究』、第46号、pp27-66。<http://hdl.handle.net/10236/12211>

 

フィリピン共和国マニラのアテネオ・デ・マニラ大学ロー・スクール教授。元アジア開発銀行法務局次長、業務評価局局長、関西学院大学総合政策学部教授