南シナ海を舞台にした米中の「カブキ」興行? 米駆逐艦「ラッセン」の無害通航の影響

南シナ海を舞台にした米中の「カブキ」興行?

駆逐艦ラッセン」の無害通航の影響

 

鈴木英輔❋

米国は、日本では普通イージス艦と呼ばれている誘導ミサイルを搭載している駆逐艦ラッセン」を国際慣習法国連海洋法条約によって認められている公海での「航行の自由」権を行使するために「航行の自由」作戦(FONOP)を実施いたしました。「航行の自由」という権利は公海上のことであり、中国が領有権を主張している南沙諸島にある一つの岩礁を埋め立てて人口の島を造成して、その周辺の海域を中国の領海であるという国際法に違反する主張を認めないという意思表示を行動を以って示したわけです。そのために、中国が領海であると主張する海岸から12海里の海域内に入って航行をしたという発表がありました。

 この「航行の自由」作戦には対潜哨戒機P-8Aポセイドン機とP-3オリオン機を同伴したのです。南沙諸島海域での中国の傍若無人な活動に懸念を表明していた南シナ海の関係諸国は、やっと米国が重い腰を上げて中国の不当な行動をチェックしてくれるものと安堵し、米国の行動を歓迎し、支持したのです。

 ところが駆逐艦ラッセン」の航行の自由権の行使から三日も経たないうちに、「ラッセン」が実際に行なったのは、公海上での「航行の自由」権の行使ではなくて、領海内を航行する「無害通航」権の行使であった、という事実が出てきたのです。「国防ニュース」によると、

 

   「米国海軍筋からの「ラッセン」の通過に関する新たに分かってきた詳細によると、「ラッセン」は合法的な無害通航を行なっているのであり敵対する意図は全くないということを表示する手段を執った、ということです。駆逐艦の発射管制レーダーは作動させておらず、艦載機であるヘリコプターも飛ばせていなかった、と同海軍筋は明らかにしたのです。その付近に飛行していた米国海軍のP-8Aポセイドン対潜哨戒機は海岸から12海里以内の空域に入ることはしなかったのです。」

 

 ここで留意すべき大事なことは、「無害通航」と公海での「航行の自由」というものは全く違う概念であり、それぞれ異なった結果を生じさせるものである、ということです。国際慣習法国連海洋法条約によって規定されている現在の海洋法体制の下では、「無害通航」というものは沿岸国の領海を通航するというすべての主権国家が同等に持つ権利であり、その通航が継続しており迅速に行なわれること、沿岸国の平和、秩序又は安全を害しない限り、無害とされる、と規定されています。また、その通航にはいかなる兵器や艦載機の使用、 調査活動又は測量活動の実施、通航に直接の関係を有しないその他の活動をすることは禁じられているのです。

 したがって、中国人民解放軍海軍艦隊が今年9月始めにアリューシャン列島のベーリング海域の米国の領海を通過したことは、まさに同じことをしたのです。但し、ベーリング海の通過には一つ大きな決定的な差があります。それはベーリング海の領海はどの国からも挑戦を受けておらず疑いなく米国の領海なのです。南沙諸島の主権が南シナ海を巡る多数の係争当事国によって争われているのとは大きな差があります。

 そもそも米国が「航行の自由」作戦にスビー礁を選んだのは、その岩礁が低潮高地のためと、その全部が本土又は島から領海の幅を超える距離にあるため、それ自体の領海を有しないからです。さらにその岩礁を埋め立てて造成された人工島は島としての地位を有しないし、それ自体の領海を持っていないからです。ですから駆逐艦ラッセン」の「航行の自由」作戦の目的はスビー礁の上に埋め立てをして人工島を造成したとしても、最初から領海をもち得ないのですから、そのような中国の一方的な領海の主張は承認しないことを示すところにあります。つまり、スビー礁の周辺の海域は公海である、という前提があります。残念ながら「ラッセン」が成し遂げたことはその逆のようでした。挑発と見られることを避けることに気を配りすぎ、「ラッセン」は公海上での航行の自由権を行使しないことを選んだのです。米国国防省は「ラッセン」が無害通航を行なったことを否定しており、航行の自由権を行使したと主張していますが、その論理が堂々巡りをしているのです。(1)低潮高地であるスビー礁は先ず最初から領海を持たない。(2)無害通航は沿岸国の領海の中でのみ適用されるものであり、スビー礁の周辺海域は公海である。(3)従って、「ラッセン」がスビー礁の12海里以内の海域を通過しても、それは「公海」を通航したのだから、それを「無害通航」とは呼べない、というのです。

 過去には違法な「航行の自由」権の侵害に対して断固として「航行の自由」を行使した事件として、「シドラ湾事件」があります。1973年にリビヤが発表したシドラ湾は閉鎖海でありその海域は「内水」であるという主張に対する「航行の自由」作戦です。そのときの米国の対応の仕方とその状況は今回の事情とは異なりますが、人工島に3000メートルの滑走路を持つ飛行場が完成真近になっているという状況は、シドラ湾の状況よりも深刻な問題を孕んでいるのです。しかし、オバマ大統領が執った中国の非合法な主張に対する対処の仕方は、従来のFONOPとは著しく異なったものでした。 シドラ湾事件では、ロナルド・リーガン大統領は、1981年のFONOPでは。航空母艦二隻を含む艦隊を派遣するというほどに大事に扱われていたのです。

 イージス艦一隻だけを派遣するということは確かに、あえてこれ以上の緊張を高めることは避けたい、という意図が読み取られるのですが、逆にどの国が理不尽な拡張政策を執って、この緊張を高めてきたのかを考えれば、米国の反応は時既に遅きに失し、「航行の自由」という示威行動の内容もあまりにも控えめで、穏便なものであったのです。何故ならば、イージス艦ラッセン」の執った行動は沿岸国の領海を通航するのに要求されている「無害通航」の条件を全て満たして通航する権利を行使したからです。

 「ラッセン」が、無害通航権を実質的に行使した、という事実は、結果として、「ラッセン」の執った行動は、スビー礁の海域は中国の領海であるという中国の主張を、その行動によって受け入れた、ということになります。「ラッセン」は搭載されている自前のヘリコプターを飛ばすことをせずに、対戦レーダーの運転を停止したままで12海里以内の「領海」を通航したのです。まして、「ラッセン」の艦載機ではないP-8Aポセイドン対潜哨戒機も、スビー礁から12海里の領空内に入らずにその空域の外にいた、という事実がこの「航行の自由」作戦の実態を如実に語っています。 端的にいえば、「ラッセン」の航行の自由作戦と呼ばれているものは、名称のみであって、実際の作戦行動自体が明らかに表明したものは、中国の領海であると中国が主張する海域の中を通過する「無害通航」権を行使した、ということなのです。当然のこととして、中国側はこの実態を十分に理解していたはずです。したがって中国外交部の呂・カン(Lu Kang)報道官の発言があまり激しくなかったのも、そのことを表しているようです。呂報道官は、10月27日の通例記者会見で「米海軍艦艇による一連のアクションは、・・・中国の主権と安全保障の利益を脅かすものである。中国側はここに強い不満と反対を表明する」と述べたのです。

 もし実際に「ラッセン」が公海上での「航行の自由」権を行使していたならば、航行の自由権は、国際法で領海では許されない活動であっても、公海上では合法である活動を執行することができたはずなのです。「ラッセン」は、あえて、それをせずに公海上での航行の自由権が与える飛行の自由をも行使しなかったのです。つまり、「ラッセン」は、カーター国防長官が表明したような「どこでも国際法が許すところで飛行し、航行し、行動を執る」ことをしない道を選んだのです。同伴飛行をしていたP-8Aポセイドン対潜哨戒機は、スビー礁の人工島の上空12海里の“領海”と主張される空域には入らない、という選択をしたのです。

 イージス艦ラッセン」の「航行の自由」作戦に纏(まつ)わる一連の出来事に真相はあるようです。(1)前もって「航行の自由」作戦の実施以前に政府筋からリークされた情報、(2)中国人民解放軍海軍への「ラッセン」の行動は中国に対して危害を加えるようなものではなく、中国だけを差別的に対象としていない、ということを伝達していたこと、(3)作戦実行直後、10月29日に持たれた米中海軍トップのテレビ会談、(4) 米海軍太平洋軍司令官ハリス提督の11月2日の北京訪問、そして、(5)その直後、11月7日に行なわれた大西洋での最初の米中合同海軍演習、(6)11月16日の米海軍イージス艦「ステザム」の上海寄港、(7)さらに、『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じたように、ホワイト・ハウスの指示として国防関係者に対する「ラッセン」の行動に関する緘口令(かんこうれい)が敷かれていたことなどが、何を示唆しているかといえば、米中の密接な情報交換とそのための交信回路の維持です。同時に、そのことはイージス艦ラッセン」の「航行の自由」作戦には、その台本が在り、それに沿って振り付けがされ、演出されたものだ、という疑いです。

 実際に起きたことは、領海を予告なく通過するという国際法で許される「無害通航」をしたという事実です。米中両国がそのお互いの権利主張を公然と言い合うことは、公海上の「航行の自由」という公に発表された虚構を維持するための「カブキ」興行だった、との印象を避けられないのです。

 「ラッセン」の無害通航以後、11月7日にシンガポールで行なわれた最初のスピーチで、習近平国家主席は、南シナ海の領有権に関して従来通りの主張を自信を持って繰り返しています。「南シナ海の島々は、古代より中国領土であった。中国政府はその領土主権と正当な国益を守る責任を果たさなければならない」と。 さらに、11月22日に、ASEAN 首脳会議で、劉振民中国外交部次官は、平然として「中国は自分の岩礁に必要な軍事防衛施設を建設している。これは多くの国がやっていることだ」と主張したことにも表れている、と考えます。

 以上のような分析が正しいとすれば、米国はスビー礁周辺の海域を領海であるという中国の主張を暗黙のうちに認めたわけです。この「承認」を与えたということが南シナ海のみならず、東アジアの安全保障にどのような変化をもたらすのか少し考えてみましょう。

 (a)米国は今後も同じような「航行の自由」作戦を継続することを言明していますが、このことに関して、米国側は、ちょうど日本の海上保安庁の巡視船が日常茶飯事として中国の海警船による尖閣諸島周辺の領海への日常的な侵入に対して絶えず対峙するように、

中国がこの「新たな正常態」に慣れて来ると考えていることが日本にとって危険なのです。今回の「ラッセン」の無害通航の直接的なインパクトは、尖閣諸島の状況に出てきます。既に11月11日に発覚したように中国は海警船ではなく人民解放軍海軍の艦艇を尖閣諸島海域に出動し始め、その活動もこれから一層厳しくなるはずです。

 (b)「ラッセン」の無害通航は、現在、オランダ・ハーグにある常設仲裁裁判所で争われている南沙諸島を巡るフィリピン対中国の領海問題の今後の展開に不利な影響を与える可能性があります。常設仲裁裁判所はつい先月29日に裁判所の管轄権に関してフィリピンの主張した仲裁裁判所にこの事件を審査する管轄権があるという訴えを受け入れた判決を出しました。フィリピンはこれで、一応第一関門と突破しましたが、これに喜んではいられないのです。この勝利は単にリングに上がれるということだけであり、これから実質内容の審議が11月24日からハーグで始まることになっています。「ラッセン」の無害通航により、米国は中国の領海の主張を暗黙に承認したという情報は多くの人に共有されており、仲裁裁判所の判事の認識にも影響を与えることは避けられないと思います。

 (c)この中国に対するフィリピンの訴訟の成否は、中国の「偉大な中華民族の複興」という「中国の夢」の実現を追求する壮大で、でも醜い、歴史を根拠とした九段線の主張の今後の成り行きを決定させることになるはずです。九段線の主張は、単に南シナ海の航行の自由を脅かすだけではなく、九段線の南に位置する南シナ海とインド洋を結ぶマレー半島スマトラの間にあるマラッカ海峡と、ジャヴァ海とインド洋を結ぶスマトラとジャヴァ島の間を通るスンダ海峡という重要な二つの海峡の使用価値を著しく損なう可能性があるのです。この二つの海峡はインド洋と太平洋を結ぶシーレーンをコントロールする最も重要な戦略地点なのです。さらに、北の方にも、台湾とフィリピンの間を抜けるルソン海峡の中にあるバシー海峡と、沖縄島と宮古島の間にある宮古海峡という二つの重要な海峡が存在します。この北にある二つの海峡を通って中国の人民解放軍海軍は太平洋に進出することができるのです。2010年に初めて中国人民解放軍海軍が宮古海峡を通り抜けました。それ以降、中国海軍の宮古海峡の通過は、太平洋で演習をする中国艦隊にとって毎年恒例の行事になりました。

 バシー海峡中国人民解放軍海軍が日本の監視下にある宮古海峡を通過せずに南シナ海へ戻ることを可能にするものです。中国はこれから次の課題である第二列島線と呼ばれる伊豆諸島から始まり、小笠原諸島マリアナ諸島グアム島カロリン諸島を経てパプア・ニューギニアに繋がる列島に対処しようとしています。

 スビー礁の造成地に飛行場が既に完成真近にあるのは、米国の領土・海域の領有権紛争に関しては中立の立場を貫くという政策方針が、紛争当事国のうち、力の強い側が勝ち残るという結果を許してきたのです。中国のA2/AD(接近阻止・領域拒否)能力が増大している時に、東シナ海南シナ海も中国に実効支配される日も遠く無いのかも知れません。

 アセアン(ASEAN)国防相会議で南シナ海の紛争に対して共同声明が採択されなかったことは、アセアン加盟国間の利害の錯綜のみならず、中国の増大する影響を無視できないことを示しています。中国は、自らが最も好み、得意とする外部者を排除して直接利害関係を持つ者のみを対象にした「一本釣り」をすることにより、その当該国と「二国間交渉」に入ることにより、自国の力を活用するのです。中国の「富」から恩恵を得たいと考える国は多々おります。中国の人民元が、近じかIMFのSDRの構成貨幣の一つとなり国際通貨として認められるはずです。人民元の国際化を世界財源として歓迎すべきなのでしょうが、人民元が国際決済通貨として使用される度合いが増せばますほど中国のブレトン・ウッズ体制への挑戦となります。中国は国際法規範、慣行を無視し、何のおとがめも無く拡張政策を追求しているのです。このような中国の政策は、膨大な陸のシルク・ロードと海のシルク・ロードと言われる「一帯一路」の大計画は「人民元金融圏」の構築への一翼を担うものですし、アジア・インフラ投資銀行は中国の世界覇権掌握のための道具なのです。中国の狙うところは中華世界秩序の構築と朝貢体制を再び復興させることなのです。

 人民元資金供給こそが中国の軍拡の原動力なのは周知の事実です。国際通貨となり、英国の援けもあり、ロンドン・シティーでユーロ・人民元金融市場が出来上がれば、中国の軍拡は益々高まります。米中の軍事バランスは均衡するどころか、米国に不利になるでしょう。そうなる前に米国はその国益を護るために動くはずです。

 その時に、日米関係の重要性が故に、その緊密な関係を維持すること自体が日本外交の目的となるような国益を忘れ、独立国としての主体性を失った外交政策を執った結果、日本の頭越しに米中和解という「ニクソン・ショック」という悲哀と屈辱を二度と味あわないように、備えなければ成らないのです。それは、中国が公然と表明している願望である、「太平洋は米中両国を抱擁しても余るほど広大である」ので、太平洋を東西に二分して、東側は米国が、西側は中国が、それぞれ支配する、という中国が求める米国との「新しい大国関係」がいずれ成立する時に備えなければならないのです。

 「ラッセン」のスビー礁周辺の海域での無害通航は、米中がいずれ共に手を握る前触れだと危惧するのは私だけなのでしょうか。###

 

フィリピン共和国アテネオ・デ・マニラ大学ロー・スクール教授。法学博士(国際法、イェール・ロースクール、‘74); 元アジア開発銀行法務局次長、1994-2002年、総裁特別顧問、2003年、業務評価局局長、2003-04;元関西学院大学総合政策学部教授、2009-13年。最近の発表された著作には “Japan: Farewell to ‘One Country Pacifism’” in The Diplomat;“Non-State Actors in International Law in Policy Perspective” in Math Noortmann et al. (eds.), Non-State Actors in International Law (Oxford, Hart Publishing, 2015) 33-561 などがあります。