新安保法制の残された課題:もう一つの新しい憲法解釈の必要性

 

新安保法制の残された課題:

もう一つの新しい憲法解釈の必要性

 

鈴木英輔✴

   2015年9月19日未明に安全保障法制関連法案が参議院で可決成立しました。これで、1960年の旧日米安全保障条約改定以来、日米同盟関係の懸案事項であった「片務性」が、集団的自衛権の行使を合憲とする国際法と国際慣行に合った正しい解釈を採択することによって、やっと是正されることになりました。 それと同時に、断片的に事が起こるたびに新たな活動とその権限を明記した特別時限立法を必要としなければならなかったというバラバラな法律が乱立していた混乱状態を正し、安全保障法制を各々の個別立法が相互に整合し一貫性を持つ恒久法として改正・整備されたことは、大変喜ばしいことだと考えます。

   これにより今まで日本の自衛隊の参加した国連PKO部隊はその自らの身の安全を外国のPKO部隊に守ってもらっているという屈辱と、逆に国連PKOの同僚であるべきその外国のPKO部隊の救援にも行くことが許されない、という利己的な自分勝手な拘束から解放されることになり、国際社会から日本のPKO部隊が非難されるような肩身の狭い思いをする必要もなくなりました。新しい日本の安全保障法制の歴史的な第一歩が踏み出され、やっと、新たな責任ある日本の姿が形成され始めたのです。

I.

 但し、集団的自衛権の新たな解釈が確立しても、責任ある主権国家として国際の平和及び安全を維持するために、憲法第9条第2項の「戦力」と「交戦権」という概念を、どのように対処すべきか、という根本的な問題が残っているのです。最もきれいな処理の仕方は憲法第9条第2項をきっぱりと削除すればよいのですが、憲法改正が困難であるという現実を踏まえれば、新たに解釈の変更をするしか他に良い策はない、というのも現実です。この問題を積極的に解決するために、日本の安全保障を国際の平和と安全との一環として捉えて、憲法第9条第1項と第2項を法政策論的に統合・整理し直す解釈の必要があると考えます。

 憲法第9条第1項と第2項との解釈が統合されていないことは、1952年11月に法制局見解が最初に出た時からの根本的な問題として認識されていました。つまり、「戦力」の保持は「侵略の目的たると自衛の目的たるとを問わず」禁止されている、とした同条第2項の解釈と、「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えるもの」という「『戦力』に至らざる程度の実力」を保持して、これを「直接侵略防衛のように供することは違憲ではない」としたことから始まった、同条第1項の下での自衛行動を容認する解釈との間にボタンの付け違いを生じ、本来、第1項と第2項は「不離一体の規範をなすと解するのが合理的なもの」であるべきだ、と当時の法制局次長高辻正己氏が述べていたのです。

 しかし。高辻氏の懸念は第9条第2項の「戦力」に関するものであり、「交戦権」に対する考察が全く欠落しているのです。したがって、同条第1項と第2項との全体的な解釈に関する統合性が欠如していることは、良く引用されるカール・シュミットの主権の定義でもある「例外状態に関して決定を下す権利」を持たないといわれるほどに、日本の国際法上の主権国としての能力を著しく損なってきたのです。碩学佐々木惣一博士が説くように、「国家は、自己の目的を達するがために如何なる行動をすることが必要であるかを、任意に定め、任意に行うものとして存在する活動体である」にも拘らず、自衛戦争能力の有無を判断する理解が混乱しているからです。

 憲法第9条の解釈問題の内、第1項で「武力」による自衛権を認めたことにより第2項の「交戦権」をどのように取り扱うかがもっとも困難なものだと考えられてきました。憲法第9条第1項の解釈として現在までに公式見解として落ち着いてきた解釈は、自衛のための「武力の行使」は禁じられていないと判断されており、「その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持」できる、と解釈しています。但し「自衛戦争」とまで切り出していないのは、文言にこだわり、「武力」を「実力」と言い換えることでその場を逃げるのと同じように、「自衛行動権」などという意味不明な概念の「創作ごっこ」をしているのが悲しい現実なのです。そこで本稿では、そのような、つまらない「ことば遊び」はもうきっぱりと止めることにして、普通の言葉で具体的に話をしましょう。

 佐々木惣一博士が『日本国憲法論』(1949年)の中で、第1項の「戦争の放棄」に関して「国際紛争を解決する手段としては、戦争を放棄するのだから、国際紛争を解決する手段としてではなく戦争をおこなうことは、これを放棄しない」と述べているように、「憲法第九条第二項の、交戦権を認めないと定めることを根拠として、同条第一項を解して、戦争は、国際紛争を解決する手段以外の手段としても、これを放棄するものと、考えてはならぬ」と戒めているのです。しかし、そう云われても、「それならば何故に、第2項後段でわざわざ『国の交戦権は、これを認めない』としたのか、納得のゆく説明は与えにくい」と小林直樹教授に指摘されてきました(『憲法第九条』(1982年))。

 まして、後に「自衛のためにする戦力保持は禁止されたものではない」(『改訂日本国憲法』、1954年)という結論に到着した佐々木博士も、当初は「わが国がかくのごとく戦力の保持を放棄するのは、前示の戦争の放棄、及び武力威嚇又は武力行使の放棄という目的を達するためにするのである」と説明しており、その理由を「軍その他戦力を保持するならば、戦争をしたり、武力の威嚇又は行使をしたりすることが、起きるかも知れぬからである」と懸念していたのです。(『日本国憲法』、1949年) 但し、この見解は当時まだGHQの言語統制 の下で「閉ざされた言語空間」で発表されたものであり、必ず検閲を受けていたということを理解しておくことが大事だと考えます。

 国際法上、「交戦権」という名称の国家の権利は一般的に使われていないのが常識なのです。政府見解によると、交戦権とは「交戦国国際法上有する種々の権利の総称」であると定義しています。その「総称」といわれる「権利」の中に含まれるものは1907年のハーグ交戦法規、戦争犠牲者の保護を規律したジュネーブ諸条約さらに国際慣習法に含まれている権利・義務なのです。具体的には、戦時国際法と呼ばれる交戦相手国の兵士の殺害、兵器・軍事施設の破壊から海上封鎖、臨検、拿捕、占領地での軍政、捕虜としての地位と待遇、敵国領土内または敵軍の占領地帯内に存在する建物および工作物の破壊、敵国領土・占領地内での軍事情報の収集、敵国を利する行為に従事する中立国の船舶・航空機の臨検・拿捕などを執行する権利です。 

 当初、政府は、「憲法に禁止しておるのは戦力であって武力ではない」と主張して、自衛のための武力を憲法第9条第1項で認めるために、第2項の「戦力」を第1項の「武力」から分離させたのです。岡崎勝男外務大臣は1959年3月15日、衆議院外務委員会で、「自衛のための武力の行使」に関しての質疑に対して、「自衛のために武力を行使する」のであって、「憲法に禁止しておるのは戦力であって武力ではない」と延べ「自衛のために武力を使うことはさしつかえない」と答弁していたのです。そして、第2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」は、第1項の「国際平和を誠実に希求」することに求められ、第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」とする交戦権の否認は全面的であると解していたのです。つまり、侵略戦争でも自衛戦争でも、どちらにも「交戦権」は否認されているということだったのです。それは、上述したような戦争遂行に関する諸々の権利が含まれる「このような意味の交戦権」を否認したのです。「自衛のための戦争」は憲法第9条第1項で禁じられていない、と主張した佐々木博士も、「交戦権を認めない」というのは、「他の国家に対して、戦争に関して国際法上に存する意思の主張を為す力を用いない」ことを言うのであり、そのことは「戦争という事実行動を為さない、ということではない」という歯切れの悪い区別を使って説明をしようと試みましたが、あまり説得力はなかった、と言われていたのが実情でした。

 憲法第9条第2項にある「前項の目的を達するため」という文言は、第1項の国際紛争を解決する手段としての戦争や武力行動をとらないという目的を貫徹して実現するための「戦力」の不保持であり、「交戦権」の否認であるわけです。従って、佐々木博士が説くように「ただ漠然と戦力を保持しないと定めたのではなく、国際紛争を解決する手段としての戦争や武力行動やに用いるものとしての戦力を保持しない、と定めた」のです。よって「国際紛争を解決する手段としてではない、自衛のために用いるものとして戦力を保持することは、同条第2項の放棄するところではない」のです。

 ここで一つ問題が出てきます。攻撃してくるものに、どのように武力を以って自衛のために対処すべきか、という問題が残るわけです。 もちろん武力の行使を以て攻撃してくる敵と争いを交えるのですから、自衛のための戦争をするのです。つまり、「総称」としての「交戦権」を否認したのですが、攻撃してくる相手に対峙して自衛のために武力を行使するわけなので、そのために必要な武力による敵対行為を遂行する手段・方法等を規律する国際法規に服さなければならないのは当然なことなのです。したがって、1954年3月15日の衆議院外務委員会での岡崎外務大臣の答弁にあるように「交戦権がなければ人を撃退したり人を傷つけたりすることは全然できないのだという仮定」に立つわけではないのです。実際に争いが起きたときに「交戦権がなければ捕虜をつかまえられないというのは」おかしいのは当然なのです。にも拘らず、「交戦権」と呼ばれるものが具体的に、どのような様態を持っているかの追求がほとんどないのです。わずかに佐々木博士が「交戦する権利なのか、又は、交戦している国家が戦争について或る行動を為すという権利なのか学者の所説は一定していない」と述べているぐらいです。 

II.

 1978年8月16日の衆議院内閣委員会での真田秀夫内閣法制局長官の答弁によると、「自衛のための武力行使」に相応して「自衛のための交戦権」と称すると、第2項の後段で交戦権は認めないと言っていることとの関係で、「非常に誤解を招く」ことになると説明しています。この交戦権というのは、すでに述べたように「いわゆる国際法交戦国が持っている、交戦国に与えられておる、占領地の行政をやるとか、あるいは敵性の船舶を拿捕するとか、そういうような交戦国に与えられておる国際法上の権利、それをひっくるめて交戦権」といっているので、「自衛のための交戦権」を持ち出すことは、「非常に誤解を招くので」、そういう表現を使わずに、「交戦権」と呼ばれる総称の傘下にある諸々の国家の権利・義務のうち「武力による自衛」に必要な権利を線引きして「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」の下で、これを「自衛行動権」と勝手に称したのです。 つまり、誤解を招かないように説明責任を全うすべき職責があるのにもかかわらず、その責任を放棄しているわけです。

 いうまでも無く、国際法のヴォキャブラリーに「自衛行動権」などという概念も権利も存在しないのです。日本だけに通じる概念であって、その異様性は「武力」と「戦力」と「交戦権」と「集団的自衛権」とに共通な独善的な日本版「解釈論理」なのです。憲法前文に掲げた高尚な理念とは裏腹に、国際平和への貢献も自らの手を汚さない範囲で線引きをする「一国平和主義」で、日本版「国際主義・国連中心主義」の欺瞞なのです。 

 本来、すべての交戦国・団体が遵守すべき武力紛争時における「武力」行動遂行に関する国際規範の総称としての「交戦権」は、敵対する交戦国のいずれかの行為・行動の起因が国際法上合法であるか違法であるかに拘わらず、交戦国双方に対して同じように適用されるという現実を無視しているのです。攻めてくる相手側が「交戦権」という総称の諸々の権利を保持し行使するときに、日本の自衛隊は守る側と同じ条件で戦ってくれと相手に願いでるのでしょうか。ゴルフのコンペではあるまいし、攻撃してくる側が不利な条件を持って守る側にハンデを与えてくれるような、そんなことがあるわけが無いのです。

 もちろん、実際には「国際法上の交戦国としての待遇は日本の自衛隊だって受けるし、また、義務は守らなければならぬと思います」と答弁をする真田法制局長官は、「ただ日本の憲法の制約があるから交戦権という言葉は使わない」ことにしているという。この理由付けは「集団的自衛権」の保持を認めるが、その行使は憲法の制約上できないという論理と全く一貫性にかけているのです。

不思議なことに、1981年4月14日の政府の統一見解では、「実際上、その実力の行使の態様がいかなるものになるかについては、具体的な状況に応じて異なると考えられるから一概に述べることは困難である」と綺麗ごとを言っているわけです。守る側の「具体的な状況」とは、攻める側の戦力とその動向を踏まえた上での守る側が「その国のおかれた時間的、空間的環境で具体的に判断」されるものなのです。そして守る側の「実力の行使の態様」は攻める側の戦力に対して相応せずして「自衛のために必要な最小限度の実力」の行使にはなりえないことは明白です。これが「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」を支える「自衛行動権」といわれるものの実態なのです。そもそも憲法第9条第2項では「一定の標準により戦力の保持という行動範囲を限定して」、その範囲に属する戦力を保持しないと規定しているのであって、自衛のための戦力はその限定された範囲に入っていないのです。その目的によって「峻別されるべき戦力」を「漠然と同一な戦力」と混同することにより、「戦力なき軍隊」から「近代的戦争遂行に役立つ程度の装備及び編成を備えたもの」としての「戦力」に至らぬ「実力」を経て「自衛のために必要な最小限度の実力」へと混同した概念の同一線上で「戦力」が語られてきたのです。まさに机上で頭の中だけで練り上げられた言語論法に過ぎないのです。まして、「わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである」と詭弁を使う異様な態度に言葉を失います。そこには、一般に戦争法とか戦時国際法と呼ばれる戦争遂行に関する権利・義務を規定している法規範に交戦当事国双方は服さなければならない、という現実を無視しているのです。

 1954年3月15日の衆議院外務委員会で岡崎外務大臣が「法律とか、国際法とかいうものは、国のため、人間のために存在しているのであって、それが何でもかんでも人間を縛ってしまうという考えではない」という点に注意を喚起したことを思い出すべきなのです。今までの政府統一見解は法理論としては、無味乾燥な言葉の分析に終始する統語論的修辞学に基づいており、論理が堂々巡りする循環論法に過ぎないのです。言葉の分析と言葉相互間の整合性に囚われ、実際に起きている政治状況の変更を無視し組織の創り出した解釈の一貫性を大事にして来た結果なのです。1952年11月25日の法制局見解に象徴される吉田総理の意向を組み入れた「戦力」の保持は禁止されているという佐藤達夫法制局長官の「非武装平和主義」の呪縛に囚われて、身動きができなくなった結果が「別の観念」論なのです。これこそが日本の「一国平和主義」解釈の源流なのです。

 このような自らを袋小路に押し込めるような神学的原理主義を排除して、開かれた主権国家として国際社会で責任ある行動と貢献が出来るように憲法第9条第2項の解釈を第1項の解釈と整合性を持つものにしなくてはならないのです。この新たな作業のために、もう一度碩学佐々木惣一博士の「自衛戦争・自衛戦力合憲」論を紐解くことで得るものは大きいと考えます。佐々木博士は1951年1月21日付けの『朝日新聞』に発表した論文「再軍備問題と憲法」の中で、第9条第1項にある「戦争」や「武力行使」を以下のように説明しています。   

     「憲法第九条第一項では、国家は国際紛争を解決する手段としての戦争を    せ ず紛争を解決する手段として武力による威嚇または武力行使をしない、という態度を採ることを定めている。かかる態度をとることが第九条第二項にいわゆる「前項(第一項)の目的」である。・・・・ 第一項で戦争をしないとするのは、国際紛争解決の手段としての戦争をしないとするのであるから、第二項で、第一項の戦争をしないという目的を達するために、戦力を保持しない、とする場合のその戦争が第一項で放棄されている戦争、すなわち国際紛争解決の手段としての戦争であること、法規解釈の論理上当然である。ゆえに自衛手段としての戦争に用いるものとしての軍備を有することは、憲法上許される。」

 さらに、第2項の「戦力」については以下のように処理しています。   

     「国家としては、自己の存立を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは、国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから、憲法はこれを禁じていない。このことは、わが国が世界平和を念願としている、ということと何ら矛盾するものではない(佐々木惣一『改訂日本国憲法』、1954年)。」 

 佐々木博士の上記の見解はGHQ言論統制が解除された後のものです。「閉ざされた言語空間」から解放された発言はより明瞭に自らの信念を表現しているのです。同じような主旨の見解は、砂川事件最高裁の補足意見で田中耕太郎判事も「平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法9条2項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない」と述べているのです。

III.

 以上のような解釈の基になる根拠を第2項にある「交戦権」との整合性を論理的につけるためには、第2項の「交戦権」を第1項で放棄されている「戦争」や「武器の行使」と同じ次元で、つまり憲法で限定された「範囲」の中で考えるべきなのです。つまり、第2項で認められていない「交戦権」は、第1項で禁じられている「戦争」や「武力の行使」に係わるものであって、自衛手段としての戦争や国連決議による集団安全保障の一環としての強制措置としての武力の行使の遂行にまつわる交戦権は認められている、と理解することが目的論的解釈論として合理的なのです。 砂川事件田中耕太郎判事の補足意見でも「字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない」と注意を喚起しているのです。 

 このように憲法第9条第2項にある「交戦権」を第1項で禁じられている「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」に対応する「交戦権」は第2項で否認されているが、自衛のための「交戦権」は当然のこととして否認されていないのです。まさに佐々木博士が述べるように「憲法はその範囲を限定して放棄している」のです。従って、「国際紛争を解決する手段としてでなく、戦争をし、武力による威嚇をし、武力を行使することは、憲法はこれを放棄していない」のです。何故ならば、すでに述べたように、自衛のために武力行使を以って国を防衛する、ということは、実際には兵器・武器を以って攻撃相手と戦火を交える、ということであり、国際法上は武力抗争の直接的当事者の開戦行為の合法性や違法性にはまったく関係なく、交戦当事国双方は、戦争状態にあるときに、そこに従事する人・組織の全てを戦時国際法又は現在の「武力紛争法」と呼ばれる法規範(jus in bello)に服させなければ成らないのです。これが佐々木博士の説く「戦争という事実行動」を規律する法規範に服することは、「他国に対して、戦争に関して国際法上存する意思の主張を為す力」という意味の「交戦権」とは違うものである、と理解すれば、佐々木博士の戦争をする「行動」と戦争する「意思主張」との区別が具体的な意味を持つわけです。

 この戦時国際法と対になっているものが戦争自体の合法性・違法性を定める「戦争権」とも云うべき戦争又は武装兵力の行使に訴えることが許される条件を規定する法規範(jus ad bellum)で、これが佐々木博士の言う「戦争に関して国際法上存する意思の主張を為す力」なのです。現代国際秩序の下では、国連憲章第2条第4項での武力行使の禁止と、その例外事項である自衛権の行使(第51条)と国連決議による強制措置(第42条)がその核心的要素をなしています。 もちろん、「戦争」事態は違法なものとなりましたから、昔のように国家の戦争を行なう権利は現在の国際法秩序ではなくなりました。したがって、もう戦時国際法の必要はなくなったと明言する国際法学者も日本にはいたくらいです。

 しかし実際には、「戦争」という言葉を使う、使わないに関係なく武力抗争は発生します。ひと昔でも。不戦条約の下で戦争が禁止されたことを受け、「戦争」という言葉の使用を避けて「北支事変」から始まり「上海事変」を加えて「支那事変」と呼んでいたのです。事実、今でも地球上のどこかで戦争は起きているのです。その戦争状態での軍事活動を規律するのが戦時国際法であり、当然のこととして自衛隊はその国際法規範に服するのです。そもそも戦時国際法の基本的な目的がどこにあるかといえば、戦争の悲惨さ・犠牲・危害を出来る限り避け・軽減するために戦争遂行の行為・行動を規制したのです。国連憲章に基づく「戦後国際秩序」では「戦争」という言葉が使用されなくなったので、戦時国際法の変わりに「国際人道法と呼ばれる理由がそこにあるのです。

 自衛隊はその本来の国防という任務の遂行に関してジュネーヴァ諸条約を含めた戦時国際法に服す義務が課されているわけです。その具体的な結論は、1978年8月16日の衆議院内閣委員会での受田新吉委員の質疑に対する真田法制局長官の答弁にあるように、自衛隊は軍隊であり自衛官は兵士なのです。日本だけが自衛隊は軍隊ではない、と主張して、自衛官の身分を危険にさらけ出しているのです。

 もちろん、佐々木博士のように、憲法第9条を「戦争を放棄した日本の世界的使命」として、世界の平和に積極的に貢献するために「自らの自己の活動を限定し、戦争をしないといふ風に、放棄している」のであって、「単に、わが国が戦争の惨害を逃れたい、といふようなことのみから出て、戦争を放棄」しているわけではなく、「世界の平和の実現に役立つ」ために「先ずわが国自身が戦争を放棄」しているのである、と主張した時もありました(「世界平和と日本」、『朝日評論』、1949年11月号)。しかしこの主張は国防を放棄し「非武装平和主義」に徹することと同じはないのです。すなわち「自衛のためにする戦力保持は禁止されたものではない」のですから、その自衛権を発動して武力を行使することは、まさしく攻撃してくる敵国と交戦状態に入らざるを得ないるわけで、日常の言葉を使えば、戦争をせざるを得ないことなのです。ですから佐々木博士自身も、上に記した「再軍備問題と憲法」の中で「自衛手段としての戦争に用いるものとしての軍備を有することは憲法上許される」と結論を下しているのです。

 つまり、憲法第9条第2項での「戦力」とは、 佐々木博士が説くように「同条第一項で放棄している戦争や或は武力行動、詳しく言うと、国際紛争を解決する手段としての戦争や武力行動やに備えるものとしての戦力である。従って、同項のいう『戦力を保持しない』というのは、第一項で放棄した戦争や武力行動に備えるものとしての戦力の保持をしないというのである。ただ単に戦力を保持することをしない、というのではない」のです。

 しかし晩年には、佐々木氏は、憲法第9条の戦争放棄を規定したことは「決して日本だけが守るべき規定」ではなく、他の国々に対しても「戦争放棄という意志を、理想を、進んでは実際上の行動をとるように」日本が働きかけることが「世界生活理想に対する日本国民の憲法上の責務」だと説いていました(「日本国民の世界生活と日本憲法))、1955年)。もちろん、「戦争放棄」の規定は憲法第9条第1項であり、ケロッグ・ブリアン条約から国連憲章第2条第4項にまでつながっているものです。しかし、世界の平和は一国だけが平和であれば実現し得るものではなく、他の国々も同じように平和を念願することを必要とします。よって、自国が他国の侵略を受けた場合に、それに対抗して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもあるのです。

IV.

 「平和主義」は一様ではないのです。無政府主義に繋がる絶対平和主義から私的、公的平和主義の分岐論を通じて最後には例外として暴力手段に訴えることを許容する平和優先主義など平和主義は多様です。それでも、平和主義論者に一般的に共通なのは、「平和主義」と「非平和主義」のごとく、あたかも「平和的手段」と「非平和的手段」との間に何らの継続性がないことです。一般に「戦争」は「平和」との反語として理解されており、「平和」に対峙する概念と見なされています。あたかも、そのような二つの概念が別々に存在しているように考えられていること自体に問題があるのです。「平和主義とは、平和的手段を持って平和という目的を達成しようとする主義主張」であり、「平和的手段」とは「非暴力手段」のことだとだと断定するとき、そこには、マックス・ヴェーバーのいう国家が「暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である」(『職業としての政治』)という認識は全くないのです。ヴェーバーの言うように、「政治が権力――その背後には暴力が控えている――というきわめて特殊な手段を用いて運営されるという事実」を理解すれば、平和主義者の提案する「非暴力戦略」の「市民的防衛」の実態が察しられます。「市民的防衛」とは市民が「集団行動として行う非暴力抵抗」であって、その「非暴力抵抗」は軍隊ではなく市民が主体となって「侵略軍を国境の外で撃退するのではなく、国境の中で撃退するという戦略をとる」ものなどと机上の空論を夢見ているに過ぎないのです(松本雅和『平和主義とは何か』2013年)。この戦略を遂行する具体的な方法は何かといえば、「パレードや監視のような非暴力的プロテスト、ボイコットやストライキのような非協力、非暴力的占拠や第二政府の樹立のような非暴力的介入」があると説明されています。 しかし、これら列挙されたどの方法を見ても、ある特定の指導者が不在のままに、組織化されていない烏合の衆だけでは実行に移すことができないものばかりです。国防戦略を遂行するためには、たとえそれが市民の手によって行われるものであっても、ある一定の組織と指導者を必要とするのです。まさに政治組織の形成と政治的支配権力の掌握です。そこでの決定的な手段は暴力であるという事実はたとえ市民的防衛集団でも避けられない現実なのです。

 いかなる暴力も、いかなる状況でも拒否するということは、暴力を勝手に行使する相手に屈することであり、無抵抗以外の手段をとらなかったという無作為が招く結果に無関心になることです。政治においては、暴力こそが決定的な手段であるということを無視しているのです。政治は権力の行使であり、その背後には暴力が控えているのであって、「倫理」の問題はこの権力の行使に関する目的と、その手段との間の緊張関係をどのように捉えるかに尽きるのです。なぜならば、政治には「暴力によってのみ解決できるような課題がある」からです(マックス・ヴェーバー、前掲)。 にもかかわらず、すべての暴力の行使を非道徳的であると拒否するものは、自らの手を汚さずに済ますという「綺麗ごと」でしかないのです。しかも暴力の行使の決断とその遂行の責任を「非平和主義者」と批判する他人に転嫁するということです。「若者を戦場に送るな!」と叫びながら平和主義を主張する人たちは、日米安保条約の下で若いアメリカ人兵士が日本の防衛戦争に参加するという現実には全く何の関心も払わないという利己的で身勝手な精神構造に気が付かない人たちなのです。

 敗戦後70年、「非武装平和主義」などという空想から覚醒して、独立国として、他人任せではなく、自ら主体的に自国の防衛を自らの手で担う決意と責任と、それに見合う努力をするときが今来たのです。###

  

フィリピン共和国アテネオ・デ・マニラ大学ロー・スクール教授。元アジア開発銀行法務局次長、総裁特別顧問、業務評価局局長、元関西学院大学総合政策学部教授

 

 

 

日本国憲法が示す「積極的平和主義」の法理

日本国憲法が示す「積極的平和主義」の法理 

 鈴木英輔  

現在国会で審議されている「安全保障法制」案を裏付ける「積極的平和主義」とはどのような理念に基づき構成されて、日本国憲法の掲げる国際協調主義と平和主義とに対してどのような位置づけがされるべきであるのか、憲法上の法理から考えて見ましょう。  「積極的平和主義」の理念を法理として明確に展開したのは、砂川事件最高裁の判決の田中耕太郎裁判長の補足意見なのです。以下に「積極的平和主義」の理念の裏づけとなる法理を補足意見の中より抜粋のかたちで重要点を直接に引用します。この補足意見を読めば、いかに今までの内閣法制局の解釈がおかしいものであるか分かるはずです。 *************************************** 
 抜粋始まり 

 「. . . 一国の自衛は国際社会における道義的義務である。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきではない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。  
   およそ国内的問題として、各人が急迫不正の侵害に対し自他の権利を防衛することは、いわゆる『権利のための戦い』であり正義の要請といい得られる。これは法秩序全体を守ることを意味する。このことは国際関係においても同様である。防衛の義務は特に条約をまつて生ずるものではなく、また履行を強制し得る性質のものでもない。しかしこれは諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的な道徳秩序すなわち国際共同体の理念から生ずるものである。」

 「. . . . 。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない。  
憲法九条の平和主義の精神は、憲法前文の理念とあいまつて不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによってわが国が平和と安全のための国際共同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去って普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法九条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。」 

 「. . . 平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法九条二項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない。 「要するに我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる『自国のことのみに専念』する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。  
「我々は『国際平和を誠実に希求』するが、その平和は『正義と秩序を基調』とするものでなければならぬこと憲法九条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち『法の支配』と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。」   

 抜粋終わり *************************************************************************************  この1959年の補足意見にある法理は、日本が責任ある主権国家として、国際の平和と安全の維持のために積極的に貢献する義務を説いているのです。そのために安保法制の整備は必要不可欠なものなのです。その中には、当然なこととして、日本国内だけで通用するような「日本版集団的自衛権」の理解ではなく、国際慣習法国連憲章により確立されたグローバル・スタンダードとして認められている集団的自衛権に関する基本的な概念の前提である「集団的自己」を認識することなのです。そして、そのような国際的理解の下で、国際司法裁判所が下した「ニカラグア事件」の判決にあるように、集団的自衛権の発動が合法であると見なされるための二つの条件を受け入れることなのです。それは、第一に、攻撃された被害国が外国から攻撃を受けたという声明を公に発表したこと。第二に、その被害国から支援の要請があること。この二つの要件に加えて、判決は、「他の国は自らの状況分析に基づき集団的自衛権を行使することはできない」、と念を押しているのです。 残念なことに、国会審議の内容は、日本の領海、接続水域、排他的経済水域での外国船舶による頻繁な違法行動の日常化という危機をそっちのけにして、無益な神学論争に明け暮れているのです。そんな神学論争の一翼を担ってきたのが、つい最近まで主張されていた内閣法制局の間違った日本国内だけで通用する「日本版集団的自衛権」の理解なのです。###

「一国平和主義」との決別と責任ある積極的な国際貢献のために

一国平和主義」との決別と

責任ある積極的な国際貢献のために

 

鈴木英輔∗

 

はじめに

 日本の安全保障政策論議が空虚で非生産的な状況にあるのは、憲法第9条の起草時点から正文採択時点に於ける本来の目的、特に第9条第2項の一切の軍備と国の交戦権の否認を文字どうりに受け入れる原理主義派と、憲法公布以降に起きた事情変更を踏まえた解釈を受け入れている現実派との認識の差があまりにも大きいからです。

    前者は、1946年憲法公布当時に与えられた解釈をそのまま受け入れて、堅持することが憲法を護ることだと信じる立場の人であり、その当時の吉田茂首相自身が述べた第9条の解釈、「戦争放棄に関する規定は、直接には自衛権を否定していないが、第9条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、放棄した」、という解釈が正当でかつ正統なものであるという確信です。この確信は、吉田発言以降、日本の国内外の政治環境の変化にまったく無関係に維持されているものです。まして、砂川事件最高裁判決に見られるように、自衛隊の存在が憲法第9条に違反するかどうかの判断は「終局的には、主権を有する国民の政治的批判にゆだねられるべきものである」という法理にも意に介せず、第9条原理解釈を神学的な信念をもって自衛隊違憲論を教条的に唱えているからです。この信仰ともいえるような確信は「創造論」に喩えられるもので、いわゆる自ら「憲法第9条を護るのだ」と自負する人たちに代表される原理主義です。

    後者の現実派は、1950年の朝鮮戦争の勃発という日本をめぐる国際環境の劇的な事情変更に対応するために、本来ならば憲法第9条を改正すべきもの、と考えていますが、政治的かつ心情的にその実現性は難しいという現実の社会状況を踏まえて、第9条の解釈を修正して国際政治状況の変化・要求に現実的に対処しようとしてきた人たちです。これは為政者として現実の政治をつかさどるものとして当然な責任の執り方なのです。それだからこそ、自衛隊違憲非武装中立を主張していた野党第一党の社会党の党首が連立内閣首班となったときには、自衛隊合憲、日米安保条約堅持という以前の主張を覆す見解を発表したのです。

    そもそも、憲法第9条第2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」という修辞句も、その修正案を起草した本人の考えとは違った形で最終的に収まり、警察予備隊から始まり、保安隊を経て自衛隊へと、その度に憲法解釈を積み重ねることによって、日本は「攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的および原則に従って平和と安全を増進すること意外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負う」ための政策を決定し、執行する努力を重ねるために現在も新しい解釈を創り引き繋いていくのです。その一連の解釈の中でも憲法第9条原理主義は、その「武力行使の禁止」を教義とする国家利己主義を基に「一国平和主義」を作り出してきたのです。その象徴ともいえるものが、集団的自衛権の行使の禁止でした。今回の新しい憲法第9条解釈は、今まで禁止されていた集団的自衛権の行使を合法化するもので、紆余曲折して流れてきた長い憲法解釈史の中で最も新しいマイルストーンなのです。

    本稿では、日本の「平和主義」のシンボルといわれる憲法第9条の存在にも拘らず、どのように憲法第9条の改正なくして、政府は日本の防衛力を増大・強化してきたのか、憲法第9条の解釈の変遷を吟味し、何故自衛隊は法的には警察と変わらない地位に置かれているのかを説明し、日本の「集団的自衛」という概念の理解は国際法上の変態であり、日本だけに通用する異様な理解であることを明らかにして、憲法公布以来一連の「武力の行使」に対する解釈を継続させてきた基本的な教義が国家利己主義に基づくものであり、それこそ拒否すべきものであることを明らかにします。結論としては、「一国平和主義」との決別を全うすると同時に、日本の安全保障を国際の平和と安全の維持の一環として捉える政策を、国際社会において責任ある国家として遂行するために、憲法第9条第1項と第2項を統合する新しい解釈を創り出すことを勧めます。  

 

 I. 憲法9条の解釈の変遷   

戦後、敗戦国日本は国際法上主権国家にのみ与えられているいくつかの基本的権利を放棄して国家の再建に乗り出しました。その復興の道のりは容易なものではなかったのです。その当時の日本の政策決定者は、憲法第9条の文言に則るように新しい政策を創り出し, それと同時に日本の変化する国際環境の現実に有効的に対応してかなければならないという、一見相互に矛盾しているような作業を遂行することを強いられたのです。そのような状況の下で日本の安全保障の議論というものは以下に述べるるように、その度に紆余曲折しており、そこには言語分析を伴った文理解釈とその結論を正当化する詭弁の痕跡を残してきたのです。そして、70年を経た今日でも、相変わらずに空虚で非生産的な悲しい状態が続いているのです、

    日本国憲法第9条を何回読み返しても、「自衛権」という言葉は見つからないのです。それどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、「自衛」という概念に言及しているものはなんら存在しないのです。したがって、「非武装・平和主義」に陶酔していた新憲法採択時において、吉田茂首相をも含む多くの人が、日本は「自衛権」をも放棄したと考えていたということがあったのです。憲法公布の時点ですら、その主体である日本国は敗戦国として連合国の占領下に置かれており、日本国政府のすべての権威・権限は連合国最高司令官の権威・権限に従属していたのですから、あえて、時の政府の首相が連合国最高司令官の意向に反するような意見を述べるというようなことは考えられなかったのです。まして、1952年3月、吉田茂首相は参議院予算委員会の証言で、「自衛のための戦力」といえども、再軍備に違いないから、憲法改正を必要とすおる」と言明してたのです。さらに、1954年12月鳩山内閣も、自衛隊憲法に違反してはいないが、政府は憲法に関する誤解を避けるために機が熟すれば、憲法改正のために適切な処置を講ずるであろう、と以下のような政府見解を出していたのです。

 「第一に、憲法自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。法はこれを否定していない。従つて現行憲法のもとで、わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である。

二、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。二、他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

  自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。自衛隊は軍隊か。自衛隊は外国からの侵略に対処するという任務を有するが、こういうものを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかしかような実力部隊を持つことは憲法に違反するものではない。  自衛隊違憲でないならば、何ゆえ憲法改正を考えるか。憲法第九条については、世上いろいろ誤解もあるので、そういう空気をはつきりさせる意味で、機会を見て憲法改正を考えたいと思つている」。

 では、どうして、憲法に全く書かれてない「自衛権」なるものが出てきたのでしょうか。さらに、どうして「自衛権はあるけど、自衛のための武力行使違憲である」といわれていたのが、どうして武装した部隊を設けることが違憲ではないことになったのでしょうか。

 日本側から積極的な意味で「自衛権」なる言葉が発せられたのは、マッカーサー連合国最高司令官が1950年元旦に出した「年頭声明」の中で、日本国憲法自衛権を否定したものではない、と表明した時点からなのです。何故かと言えば、日本を取り巻く国際環境が変化したからです。ますます米ソの冷戦の激化が進み始め、それまでの対日占領政策(非武装化・国力弱体化)に全面的な修正をなさざるを得なくなったからです。1950年の朝鮮戦争の勃発という劇的に変化した国際環境に対応するため、新たな憲法解釈を施したわけです。1951年のサン・フランシスコ講和条約や同年の日米安全保障条約で「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を明確に規定したこと自体が、日本にとって地殻変動に匹敵する大事件だったのです。これこそがマッカーサー元帥に一つの心配事を植え付けたのです。それは、講和条約が効力を発揮して日本が独立を取り戻した後の憲法第9条の行方を懸念し始めたのです。そこでマッカーサーは野党の革新勢力が国会の衆・参議院いずれか一院で最低3分の1の議席を占めるように奨励し支援をしたのです。そうすることにより憲法第96条が要求する「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」を得ることができずに憲法の改正の発議が出来ないようにしたのです。その結果、今でも憲法の改正は一度もおこなわれていないのです。 

  教条的原理主義者の論理では、憲法は文言で表された規範が主権者の意思であり、その文面に忠実に則るのが「立憲主義」であり、護憲の理念であると確信しているわけです。つまり憲法第9条の文面に記載されているものの「正統」な解釈は「武力行使はできない」という解釈だけであり、それ以外の意味づけは違法な解釈であると確信しているのです。

  しかし、実際の世の中では、どの法律条文でも、その条文を一つの事実関係に適用するのには、人の解釈を必要とするのです。法規範というものは、一定の数値と必要な情報を法規範装置に入力すれば自然と答えが出てくるような自己完結的な自律的規範ではないのです。また、同じ条文を一字一句いくら速く、あるいはじっくりと読んでも、何度読み返しても、正しい解答は出てこないのです。生身の人間が該当する条文を読み、理解し、解釈して適用するものだからです。その解釈の基になったのが、独立を回復した主権国家として日本国が保持する国際法上の「自衛権」の認定でありました。第二次世界大戦後の世界秩序を構築した基本法である国連憲章第51条にある国際慣習法を踏まえた権利です。1951年9月に署名されたサン・フランシスコ講和条約第5条(c)項も国際法上の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を明確に規定していたのです。当時新たな憲法解釈によって自衛権を保持することになった事実に対して「立憲主義の否定である」などつまらないうわ言を発するものはいなかったのです。

 その後の警察予備隊の創設から保安隊を経て自衛隊にいたる変質は、そのたびに国際環境・状況の変化に対応しながら憲法解釈によって自衛力の増強と任務・役割の拡大がなされてきたのです。安全保障に関する議論は憲法第9条の文言と現実に執られている政策との乖離を整合させるために、絶えず苦悩に満ちた詭弁や紆余曲折の説明を軌跡に残してきたのです。憲法第9条第2項の核心的問題に言及することを避けて来たからです。何故ならば、憲法前文が描く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという虚構の世界では「われらの安全と生存を保持」するために持つべき自らの手段は否定されたのです。「安全と生存」 を担保すべき強制力が不在なのですから、日米安保条約はその制度上の不備・欠陥を補完したのです。そして米軍による戦力の補填に関しては,最高裁判所憲法9条第2項の言う「その保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国軍隊はたとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力に該当しないと解すべきである」と判断したのです。つまり、最高裁の意見では、米国の補填による「戦力」は合憲だが、「自衛隊」は「わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であるので違憲という結論になってしまうこともありうるのです。そういう状況の中で、日本の漸増的防衛責任は第9条の文脈では居場所を失う虞があったのです。そこで、第9条第2項に関して新たな創造的な憲法解釈を必要としたのです。

  問題は、この「戦力」の保持に関する解釈が「自衛隊は戦力なき軍隊」から始まり「自衛の為の戦力は憲法の禁ずる戦力ではない」また「自衛のための必要最小限度」の兵力という所に至るまで「まるで三百代言のような、ごまかしの論弁をしておりました」と吉田首相の私設軍事顧問であった辰巳栄一氏に言わせるごとく、憲法解釈を通じて詭弁を弄してきたのです。現在、憲法解釈によって集団的自衛権の行使を容認することを「立憲主義の否定だ」などと、のたまう御偉い先生方は、柄谷行人氏の「憲法九条戦争放棄、軍備放棄を唱えていることは明からですが、実際には、それを適当に解釈して、現状を肯定してきた。だから、憲法を守るといっても、欺瞞的です」という批判を噛み締めるべきなのです。もっとも、「護憲」を主張するお偉い先生方には、「知の利権」とも云うべきものが絡んでいるのでしょう。自分の人生を「九条を守る」ために研究してきたその知的投資の成果としての知的財産が新しい憲法解釈によって潰されることに耐えられないのでしょう。

  本論の冒頭で述べたように、最高裁の1959年「砂川事件判決」以来、裁判所は、自衛隊の存在が憲法第9条に違反するかどうかの判断は「統治行為」に属し、それが「一見極めて明白に違憲、違法と認められるものでない限り司法審査の対象ではない」という最高裁の判決を踏襲しており、「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものである」としているのです。従って、自衛隊憲法第9条第2項の「戦力」に当るかどうかについては、裁判所の司法審査の及び得ないところであるとし、最高裁は、自衛隊の合憲性の判断を行わないまま訴訟を終結させたのです。

  独立した主権国家としての日本を徹底して弱体化する原点が憲法第9条であったとき、その“聖域化”を成功させたのが検閲によって創り出された「閉ざされた言語空間」だったのです。その「言語空間」から創り出された政策論は総て“聖域”に含まれている憲法改正を必要とするような政治性の高い核心的な問題は上手に避けて議論されてきたのです。それが多くの日本の政治家も、政治学者・憲法学者も含めて、彼らの姑息な「リアリズム」であったのです。しかし実際には為政者も、それを支えるべき官僚も、啓蒙すべき学者も、それぞれ「交戦権」が第9条第2項で放棄されている事実が国際関係や国際政治の実際の現場でどのような結果をもたらすのかを吟味する人は数少なく、多くの人は、憲法にある「交戦権」と言う「ことば」の解釈を机の上でアカデミックな研究対象として来たに過ぎなかったのです。 まさにそれは「国ごっこ」をしてたにすぎなかったのです。

 

II.「警察」と「軍隊」の狭間で

  マックス・ヴェーバーの格言の如く、主権国家が主権国家たる所以は「国家が暴力行使への『権利』の唯一の源泉とみなされている」からです。したがって、本来、国家の軍隊というものは、国を防衛するという目的のために執るべき手段に関しては原則的に無制限なのです。そのうえで、軍隊の権限は国際法により禁止されている特定の事項を遵守することが古今東西文化を越えて国際的な慣行になっているのです。残念ながら、日本はこの国際法の慣行を踏襲していないのです。

  1950年に朝鮮戦争を契機とした警察予備隊が創設された政治的状況は、警察予備隊を「警察以上」で「軍隊以下」という中途半端で曖昧な性格に造りあげたのでした、新しい警察予備組織に既存の警察官職務執行法を準用するしか他に道はなかったのです。ただ、実際は「軍隊」であり、「兵隊」なのですが、「警察」と呼んだことが、官僚の癖で、その後の論議を本来の目的を無視した言葉使いの一致・一貫性を求める言語論法に置きかえてしまったのです。

   警察予備隊も、保安隊も、警察組織としての能力では対処できない事態に対応する補完的組織として作られたものでした。ですから、それぞれが則る法体系は警察と同じようにポジティヴ・リスト方式という、組織が執るべき行動、行使すべき権限全てを法律で明記する方式を採用していました。現在の自衛隊も、保安隊を引き継いているのですから同じポジティヴ・リスト方式を採用しているのです。 その結果、絶えず変化する国際環境・政治状況の要請に対応するために必要な新たな活動は、新しい法律を作り出さなければならないのです。既存の法律に特定の権限が明示的に記載されていなければ何も出来ない、という愚鈍な法理により国防さえも危険に晒されているのです。この異常な状態は現場の指揮官に理不尽な責任を負わせる結果になっているのです。たとえ、事が起きるたびに新しい法律を増殖していっても法律で想定したこととは異なる不測の事態は発生するのです。

   現在の自衛隊の根本的な問題は、一つの独立した主権国家の軍隊に対して通常与えられている法的地位や処遇を受けていないことです。自衛官は一般市民と同じように民間人として民事・刑事両裁判所の管轄権に服しており、民間人ではない兵士としての規律によって裁かれるべき軍法会議や軍事裁判所というものも、憲法第76条第2項により「特別裁判所」の設置が禁止されているので、兵士としての処遇も受けていないのです。武器の使用に関しても自衛隊の行動は警察官職務執行法によって規制されているのですが極めて厳しい拘束を受けているわけです。自衛隊は手許にある膨大な破壊力にも拘らず、法的には警察と同じ立場に置かれているわけです。通常であれば、自衛隊は軍隊であり、ネガティヴ・リスト方式に基づき国際法に則って行動をすべき組織であるべきなのです。それが出来ないところに「兵隊ごっこ」をしてると云われる所以があるのです。佐々木惣一氏が言うように、自衛官に対して、その「任務に関する特別の矜持と、特別の責任」があることを自覚する必要があるのです。

   現在衆議院での可決を終わった安保法制案が持つ意義は、憲法第9条第2項を改正せずに、一貫したヴィジョンに基づいてではなく、場当たり的に進行する出来事に対して反応するために、一本一本創り出されてきた既存の法制度を、「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」の二本の法律にまとめ、既存の法制度が持つ不十分な点や取り扱われていない空白な問題点を正すことにあります。 敗戦後、日本の安全保障法制度の中で最も重要な法案が実質的質疑はおこなわれずに、無意味で非生産的な言語上の揚げ足を取ることに始終したことが、悲しい現実だと考えます。むやみに「戦争」を煽り、「戦争に巻き込まれる」論を空回りさせ、「戦争法案」と叫びつつ自衛官のリスクをポーズを以って「心配ごっこ」をする裏には、「武力行使」を以って国を護るということは「戦争」が出来なければ自衛隊の存在価値がないという簡単な事実さえも認識されていないのです。佐々木氏が指摘するように「観る立場より戦争を考えている」のではなく、「自分がこれに当たるという立場より考えるのでなくては、真に戦争のことを考えるとはいい得ない」のです。一つ明らかになったことは、安全保障の実態を無視する教条的原理主義者の教義に対して実際の政策論がかみ合う可能性が皆無であることを再確認させられたことだと考えます。

   この安保法制法案審議の最中(6月12日)亀井静香氏は「ジジイだからといってこういう危機に黙っておるわけにはいかん!」と気勢を上げていましたが、一体どんな「危機」の話だったのでしょうか。「立憲主義の危機」などとありもないことを作り上げて文理解釈によって危機感を煽り立てる危機なのです。そこには、日本の領海や排他的経済圏(EEZ)の周りで起きている外国船舶による不法活動を懸念することもなく、中国の海警局による頻繁な領海・継続区域・EEZの侵犯にも別に心配をするわけでもないのです。尖閣諸島の周りの接続水域どころか領海を頻繁に中国海警局の執法船が侵犯していても、日本の海上保安庁の巡視船は、不法侵入する中国海警局公船に対して、警告を発することしか出来ないでいるのです。その警告を無視して不法な測量や調査を推し進めていても、日本の巡視船はその不法行為を止めることも、何も出来ないでいるのです。そのような、まさに危機状況にある現実に対して、何をすべきかという実質審議は何もなされないままで、机上の「立憲主義」の神学論争が行なわれているのです。国家の安全保障を議論すべき時に、今起きている現実の安全保障上の危機は棚に上げて、安保関連法案が具体的にどのように東シナ海南シナ海に於ける不法活動を防ぐことができるのか、あるいは自衛隊国連PKO活動に参加する上で、どのように、より効果的にその責務を果たすことができるのかなどの実質的な質問は一切ないままに、集団的自衛権に関する全く不毛な神学論争に明け暮れるのは、なんという政治家としての不作為なのでしょうか。

   亀井氏は「日本は戦後、国際的に、いわゆる普通の国ではない国ということを国是として進んできた」と断言したのです。敗戦後、占領下で「閉ざされた言語空間」の中で新憲法を採択する以外にすべがなかったために、「いわゆる普通の国ではない」ということを受け入れなければ成らなかったことがジジイに成った今でも続いていrのです。その敗戦後の壮年期の政治家としての無作為を正当化するための「危機」の話なのでしょうか。「安全保障環境を整えることは国家の最重要課題だ。しかし、僕は今の国会に国の運命絵を委ねる気にはなれない」と橋下大阪市長が嘆くのはもっともなことなのです。ほぼ同じころに、民主党長妻昭代表代行が旨いことをいっていました。6月12日の衆院厚生労働委員会の渡辺博通委員長の入室を実力行使で阻止し、議事を妨害したことに関し、暴力による妨害を正当化したことを、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」と。まさに、同じことが尖閣諸島の現在の危機に当てはまるようです。

   中国は尖閣諸島近くに一大基地を造ることが既に明らかになりました。尖閣諸島から最も近い温州市に建設すると報道されています。長妻氏のいうように、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」でしょう。これほどの危機が切羽詰っているのにも拘らず、中国に媚を売るだけで自国の安全保障に真摯に向かい合っていないのです。藤井裕久氏の如く、「中国の肥大化が危惧されているが、これは対立的軍事同盟ではなく、国際連合による対応を第一義とすべきである」, とのんきなことをいっています。不法な、国際法や国際慣行にことごとく違反する中国の南沙諸島の埋め立て、軍事基地化に対して国連が何をしたとお考えなのでしょうか。ご教示をお願いしたいものです。

 

III. 国際社会と「集団的自己」

   6月15日に憲法学者長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授と小林節慶應義塾大学名誉教授が、わざわざ日本外国特派員協会に出向き記者会見を行ないました。両教授は、政府・与党が今国会での成立を目指す安全保障関連法案について、笹田栄司早稲田大学政治経済学術院教授とともに、6月4日に行われた衆院憲法審査会で「違憲」との認識を表明していたのです。その中で長谷部教授は「核心的な部分、つまり集団的自衛権を容認している部分は明らかに憲法違反であり、他国軍隊の武力行使自衛隊の一体化、これをもたらす蓋然性が高いからです」と鬼の首を取ったように集団的自衛権の行使は違憲であると断言したのでした。

   しかし、両教授の「違憲」という結論を導く前提となるべき集団的自衛権の概念が具体的にどのような意味を持つものであるか、両教授ともに全く間違えているのです。前提が誤っておれば、必然的にその結論は間違っているのです。そもそも内閣法制局の解釈自体が間違っているのですから、国際法の専門家でない両教授を責めてもしょうがないのですが、得意になって外国特派員の前ではしゃいでいるお偉い先生方の議論に冷や水を掛けるようで申し訳ないと思いますが、なぜ間違っているかをこれから明らかにしたいと思います。

   基本的な問題は、つい最近までの内閣法制局の解釈によると、日本は集団的自衛権を保持しているが、憲法は日本を防衛する個別的自衛に限り武器の使用が許されているので、集団的自衛権を行使することはできないということでした。では、どのような神学的前提を持って集団的自衛権を保持しているという結論に至ったのでしょうか。そもそも、内閣法制局にとって、日本が「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を保持していることは国連憲章第51条とサン・フランシスコ講和条約第5条(c)項で認められているために、それを否定するような立場にいないことを十分に理解しているのです。そのような認識に立てば、自分の解釈が何ら矛盾しているとは感じないのです。権利を認めることと、その権利を行使することは別々のことなのです。自ら「憲法を護るんだ」という人たちにとっては、「武力の使用禁止」という教義を遵守する必要があるからです。したがって、外国の防衛のために武力を行使することは違憲であると主張するほか手はないのです。そのような創造論的神学では、日本の刑法ですら、他人の防衛は自衛権の行使であると認められているのにも拘らず、「自衛」という概念の「自己」の範囲を日本だけに限定しなければならないのです。この原理主義者の解釈が如何に歪なこじ付けであるかを、国際司法裁判所の判決を踏まえて詳しく見てみましょう。

   集団的自衛権の有権的解釈は1986年の国際司法裁判所(ICJ)の「ニカラグア事件」の判決に示されています。第一に、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」は国連憲章第51条に規程されているだけではなく、「その内容が国連憲章で確認され、影響を受けたとしても」、集団的自衛権というものは、国連憲章以前に、既に国際慣習法として確立していると強調しているのです。その意味するところは、慣習法は実定法(条約)とは別々に平行して存在しており、実定法で慣習法と同じ権利を扱っていても、一方が他方を無効にするのではないということです。第二に、「集団的自衛権」という概念は、個別的な自己(自国)の防衛権(自衛権)と同一線上にあり、自己(自国A)に対しては直接攻撃されていないけれども、自国(A国)と密接な関係にあるB国に対する攻撃をA国への攻撃と見なして、B国の防衛のために参戦するのが「集団的自己」(collective self)の防衛権というものです。ICJが「ニカラグア事件」の判決の中で集団的自衛権の内容を明らかにするのに、米州機構憲章にある「米州の一国の領土保全又は領土不可侵あるいは主権又は政治的独立に対するいかなる侵略行為も、米州の他の全ての諸国に対する侵略行為」とみなされることにあるということを教示しているのです。それと同時に、集団的自衛権の発動要件として、A国(自国)と密接な関係にあるB国への攻撃が発生しても、そのB国が攻撃されたという宣言と、A国に対してB国の防衛に支援してほしいというB国からの要請がなければ、A国は集団的自衛権を行使できないと規定しているのです。さらにICJは、国際慣習法は第三者の国、A国が自らの状況分析に基づき集団的自衛権を行使することを許していないと念を押しているのです。 

   ところが、日本国だけが、摩訶不思議なことに、内閣法制局の統一見解に見られるように、国際慣習法として認められている「集団的自己」という概念を実際には否定しているのです。日本は主権国家として集団的自衛権を有する、と認めることは「集団的自己」つまり、密接な関係にある外国との安全保障上の一体化によって成り立つ「集団的自己」の確立を認めることなのです。にも拘らず、国連憲章にも明記されているし、国際慣習法として確立しているので、敢えてその事実に逆らって否定することも出来ないので、集団的自衛権は保持しているといい、その中身の一番重要な、この「一体化」をことごとく否定しているのです。実際には、集団的自衛権を有すると公言することは単なるリップ・サーヴィスをしているのに過ぎなかったのです。そこに、内閣法制局の解釈の欺瞞があるのです。この欺瞞こそカントが言う「すべてのことに自分の理性を公的に使用する自由」を失い、組織のしきたり、伝統、先例、上司の意向・指示などに縛られて、「理性の私的使用」に拘束されたまま今でも旧習を固守しようとしているのです。

   内閣法制局の都合のよい憲法解釈によると、集団的自衛権は、個別的自衛権とは違い、攻撃されていない第三者の国が自国の防衛のためではなく、攻撃された外国の防衛にはせ参じるものでるという話にしたのです。そこには、守るべき「集団的自己」(collective self)という前提が欠落しているのです。つまり、直接攻撃されていないA国が、何故攻撃されているB国の防衛のために参戦するのかという意義を理解していないのです。守るべき自己を対象とする「個別的自衛権」の延長線上にある「集団的自衛権」は、他国の利益と自国の利益を一体化することによって、B国への攻撃を自国(A国)に対する攻撃と見なし、集団的自己を防衛するという概念が前提にあるのです。 

   集団的自衛権の基本的な概念である「集団的自己」の防衛の基礎には、「自己同一認識」(self-identification)という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することにあります。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的にまたは集合的に、新たな、より大きな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される「共同体」なのです。それが「集合的自己」なのです。現在の極度に密接化した世界的な相互依存と瞬時に世の中の出来事のインパクトが身にしみるというグローバル化の世界では、益々「集団的自己」に対する認識が深まるのは当然なことなのです。日本が莫大なODA予算を組み立てて外国に経済援助をし、災害時に救済の手を差し伸べるのも、逆に、日本が災害に見舞われたときに、外国から救援に来てくれるのも、同じ「集団的自己」の認識があるからです。まさに、集団的自衛権の基になるものは、他者への「一体化」を通して「自己」を展開的に拡大して、集団的自己として拡大された主体を形成するものなのです。内閣法制局憲法解釈は、必須条件であるその「一体化」を否定するものなのです。2004年1月に秋山収内閣法制局長官は、「自国」と「外国」とを峻別した法制局独自の「集団的自衛権」の概念を以下のように端的に言明しています。

   「お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に  対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます」。

      この2004年の秋山法制局長官の見解と1959年ということは45年前に出た田中耕太郎最高裁長官の見解が如何に乖離しているか比べてみましょう。

    「一国の自衛は国際社会における同義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係にあるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への強力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。」  

   「自己同一認識」の展開的拡大としての「集団的自己」という考えは別に新しい概念ではなく、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、急迫不正の侵害に対して、「他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由として成立していますし、第37条でも、緊急避難の対象として「他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、他人と共に危機感を共有して「一体化」するからこそ、惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をする行為を対象にしているわけなのです。残念ながら内閣法制局の「自己同一認識」の「自己」に対する理解は、日本の刑法ですら採っていない理解に基づく旧態依然とした硬直した理解に基づくものなのです。その理解は「自己」を一人の個人又はつの国家のみに限定したハンス・ケルゼンの亡霊に取り憑れているからです。

   集団的自己という考えを認めることをしないで、内閣法制局により創りだされた神学的方法論は、日本と外国という二分法に則っているのです。この神学的二元論は、集団的自己を否定しており、その自己陶酔した論理は 日本以外の諸外国とともに共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際協調主義に不可欠な基本的な認識が欠けていることです。「一国平和主義」なのです。その結末が国連武力行使を伴う制裁措置やPKOへの参加と集団的自衛権憲法上での否認なのです。この基本的な認識の欠如により導かれたものが、驚くこと無かれ、独善的な「一体化」否定論なのです。まして、憲法前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と戒め、この「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と断言しているのにも拘らずにです。内閣法制局の「一体化」を否定する論理は憲法が歌う「国際協調主義」を根本から否定するものなのです。

 

IV. 「武力行使の禁止」という教義

日本が直面する安全保障の実際の課題に対処することなく、自ら「憲法第9条を護るのだ」と自負する人たちは、禁止されている「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段」という文言の下で何が許容されているかを詳しく分析する、というあたかも神学論のような論議に夢中になっているのです。そして、その神学的な結論というものは、当然のこととして、武力の行使は、自衛のため、つまり、攻撃を受けた日本の防衛のみに限り許されるとか、国連PKO活動での武力の使用は国際紛争解決のための国権の発動であるので禁止されているというように、神学論の結論は実際に現場で起きていることとはまったく無関係な論議なのです。その結果、国連PKO活動に国際協力の一環として派遣された自衛隊の部隊は、外国の部隊、つまり他の国連加盟国の派遣兵士の善意によって自らの身辺の保護を受けている、というのが悲しい現実なのです。それでも、自ら「憲法第9条を護るのだ」という人たちにとっては、この異常事態をおかしいとか理不尽だと考えることはないのです。そういう人たちにとっては「武力の使用禁止」は信仰の対象と同じことで、「創造論」を信じる人に似たようなもので、その信仰には理性とか科学的根拠などは必要としないのです。敗戦後70年になる現在でも日本の安全保障政策の議論を空虚なものにしているのが憲法第9条の「武力による威嚇または武力の行使」の禁止という一般規範なのです。武力行使の禁止によって、すべての「武力」が違法であるという議論がまかり通るようになったのです。法規範が何を目的としているかという吟味はそこにはなく、言語的な一貫性のみを追及するという無味乾燥な表面的な文理解釈で満足しているのです。その典型が、禁止されている「武力」という言葉は使用できないので、「武力」を「実力」という言葉に置き換えるという欺瞞的な作業でした。 

 『日本国語大辞典』によると「実力」とは、「武力や腕力など実際の行為、行動で示される力」と定義されています。さらに「実力行使」は「目的達成のために武力など実際の行動を持ってする手段に訴えること」、と定義付けられています。すでにお解かりのように、内閣法制局の解釈は同義反復というもので(tautology)、異なった言葉で同じ意味を反復することでは、なんら新しい意味を与えたことにはならないのです。「武力」を「実力」と言い換えただけなのですので、逆に言えば、憲法第9条では「実力の行使」は禁じられているのです。こんな結果になるのは、武力の使用目的を考えないからです。武力でも実力でも、それは単なる手段であって、その行使の目的とプロセスに対して中立なのです。使い方により合法にも違法にもなりうるものです。誰が誰に対して使用するのか、何の目的のために使うのか、どのような状況のもとで使用するのかなど、様々な異なった状況が「武力の行使」に関して存在するのです。そのようなそれぞれ異なった事実関係を無視して、「武力」は悪であると断定して、その言葉の使用すら忌避するのは目的価値を考慮しない不毛な言語論法にすぎないのです。

   自ら「憲法第9条を護るのだ」と自負する人たちは、憲法第9条の「武力行使の禁止」の教義を絶対視して、自国の平和以外のための武力行使は禁じられているという利己的なおかしな結論を正当化する教条的テクニックを創り出し、結果的にその教義は国際協調主義を根本から否定しているのです。砂川事件判決の補足意見で田中耕太郎裁判長が述べていることが正鵠を射ています。、

   「憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からではなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛をぜんぜん考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心を持たない態度も、憲法前文にいわゆる『自国のことのみに専念』する国家利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。」

   自ら「憲法第9条を護るのだ」と自負する人たちの神学的教義は「平和主義」という名を借りた国家利己主義であって普遍的な平和の構築を裏切るものなのです。

 

V.責任ある積極的な国際貢献のために

   集団的自衛権の新たな解釈を確立しても憲法第9条第2項の「戦力」と「交戦権」という概念を、責任ある主権国家として国際の平和及び安全を維持するために、どのように対処すべきかという根本的な問題が残っているのです。この問題を積極的に解決するために、日本の安全保障を国際の平和と安全との一環として捉えて、憲法第9条第1項と第2項を論理的に統合・整理しなおす解釈の必要があると考えます。

   憲法第9条の解釈問題の内、第1項で「武力」による自衛権を認めたことにより第2項の「交戦権」をどのように取り扱うかがもっとも困難なものだと考えられてきました。憲法第9条第1項の解釈として現在までに公式見解として落ち着いてきた解釈は、自衛のための「武力の行使」は禁じられていないと判断されており、「その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持」できる、と解釈しています。但し「自衛戦争」とまで切り出していないのは、文言にこだわり、「武力」を「実力」と言い換えることでその場を逃げるのと同じように、「自衛行動権」などという意味不明な概念の「創作ごっこ」をしているのが悲しい現実なのです。そこで本稿では、そのようなつまらない「ことば遊び」はもうきっぱりと止めることにして、普通の言葉で具体的に話をしましょう。佐々木惣一教授が第1項の「戦争の放棄」に関して「国際紛争を解決する手段としては、戦争を放棄するのだから、国際紛争を解決する手段としてではなく戦争をおこなうことは、これを放棄しない」と述べているように、「憲法第九条第二項の、交戦権を認めないと定めることを根拠として、同条第一項を解して、戦争は、国際紛争を解決する手段以外の手段としても、これを放棄するものと、考えてはならぬ」と戒めているのです。しかし、そう云われても、「それならば何故に、第2項後段でわざわざ『国の交戦権は、これを認めない』としたのか、納得のゆく説明は与えにくい」と指摘されてきました。

   まして、後に「自衛のためにする戦力保持は禁止されたものではない」という結論に到着した佐々木氏も。当初は「わが国がかくのごとく戦力の保持を放棄するのは、前示の戦争の放棄、及び武力威嚇又は武力行使の放棄という目的を達するためにするのである」と説明しており、その理由を「軍その他戦力を保持するならば、戦争をしたり、武力の威嚇又は行使をしたりすることが、起きるかも知れぬからである」と懸念していたのです。

   国際法上、「交戦権」という名称の国家の権利は一般的に使われていないのが常識なのです。政府見解によると、交戦権とは「交戦国国際法上有する種々の権利の総称」であると定義しています。その「総称」といわれる「権利」の中に含まれるものは1907年のハーグ交戦法規、戦争犠牲者の保護を規律したジュネーブ諸条約さらに慣習法に含まれている権利・義務なのです。具体的には、戦時国際法と呼ばれる交戦相手国の兵士の殺害、兵器・軍事施設の破壊から海上封鎖、臨検、拿捕、占領地での軍政、捕虜としての地位と待遇、敵国領土内または敵軍の占領地帯内に存在する建物および工作物の破壊、敵国領土・占領地内での軍事情報の収集、敵国を利する行為に従事する中立国の船舶・航空機の臨検・拿捕などを執行する権利です。 

   当初、政府は、「憲法に禁止しておるのは戦力であって武力ではない」と主張して、自衛のための武力を憲法第9条第1項で認めるために、第2項の「戦力」を第1項の「武力」から分離させたのです。そして、第2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」は、第1項の「国際平和を誠実に希求」することに求められ、第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」とする交戦権の否認は全面的であると解していたのです。つまり、侵略戦争でも自衛戦争でもどちらにも「交戦権」は否認されているということだったのです。それは、上述したような戦争遂行に関する諸々の権利が含まれる「このような意味の交戦権」を否認したのです。

   ここで一つ問題が出てきます。攻撃してくるものに、どのように武力を以って自衛のために対処すべきかという問題が残るわけです。 もちろん戦争をするのです。つまり、「総称」としての「交戦権」を否認したのですが、攻撃してくる相手に対峙して自衛のために武力を行使するわけなので、そのために必要な武力による敵対行為を遂行する手段・方法等を規律する国際法規に服さなければならないのは当然なことなのです。したがって、1954年3月15日の衆議院外務委員会での岡崎外務大臣の答弁にあるように「交戦権がなければ人を撃退したり人を傷つけたりすることは全然できないのだという仮定」に立つわけではないのです。実際に争いが起きたときに「交戦権がなければ捕虜をつかまえられないというのは」おかしいのは当然なのです。しかし、1978年8月16日の衆議院内閣委員会での真田内閣法制局長官の答弁によると、「自衛のための武力行使」に相応して「自衛のための交戦権」と称すると、第2項の後段で交戦権は認めないと言っていることとの関係で、「非常に誤解を招く」ことになると説明しています。この交戦権というのは、すでに述べたように「いわゆる国際法交戦国が持っている、交戦国に与えられておる、占領地の行政をやるとか、あるいは敵性の船舶を拿捕するとか、そういうような交戦国に与えられておる国際法上の権利、それをひっくるめて交戦権」といっているので、「自衛のための交戦権」を持ち出すことは、「非常に誤解を招くので」、そういう表現を使わずに、「交戦権」と呼ばれる総称の傘下にある諸々の国家の権利・義務のうち「武力による自衛」に必要な権利を線引きして「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」の下で、これを「自衛行動権」と勝手に称したのです。 

   いうまでも無く、国際法のヴォキャブラリーに「自衛行動権」などという概念も権利も存在しないのです。日本だけに通じる概念であって、その異様性は「武力」と「戦力」と「交戦権」と「集団的自衛権」とに共通な独善的な「解釈論理」なのです。憲法前文に掲げた高尚な理念とは裏腹に、国際平和への貢献も自らの手を汚さない範囲で線引きをする「一国平和主義」で、日本版「国際主義・国連中心主義」の欺瞞なのです。 

   本来、すべての交戦国・団体が遵守すべき武力紛争時における「武力」行動遂行に関する国際規範の総称としての「交戦権」は、敵対する交戦国のいずれかの行為・行動の起因が国際法上合法であるか違法であるかに拘わらず、同じように適用されるという現実を無視しているのです。攻めてくる相手側が「交戦権」という総称の諸々の権利を保持し行使するときに、日本の自衛隊は守る側と同じ条件で戦ってくれと相手に願いでるのでしょうか。ゴルフのコンペではあるまいし、攻撃してくる側が不利な条件を持って守る側にハンデを与えてくれるような、そんなことがあるわけが無いのです。

   不思議なことに、1981年4月14日の政府の統一見解では、「実際上、その実力の行使の態様がいかなるものになるかについては、具体的な状況に応じて異なると考えられるから一概に述べることは困難である」と綺麗ごとを言っているわけです。守る側の「具体的な状況」とは、攻める側の戦力とその動向をを踏まえた上での守る側が「置かれた時間的、空間的環境で具体的に判断」されるものなのです。そして守る側の「実力の行使の態様」は攻める側の戦力に対して相応せずして「自衛のために必要な最小限度の実力」の行使にはなりえないことは明白です。これが「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」を支える「自衛行動権」といわれるものの実態なのです。まさに机上で頭の中だけで練り上げられた言語論法に過ぎないのです。まして、「わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである」と詭弁を使う異様な態度に言葉を失います。

   1954年3月15日の衆議院外務委員会で岡崎外務大臣が「法律とか、国際法とかいうものは、国のため、人間のために存在しているのでって、それが何でもかんでも人間を縛ってしまうという考えではない」という点に注意を喚起したことを思い出すべきなのです。今までの政府統一見解は法理論としては、無味乾燥な言葉の分析に終始する統語論的修辞学に基づいており、既に上で見たように論理が堂々巡りする循環論法に過ぎないのです。事実上の「再軍備」を憲法第9条の中で正当化しなければならないという組織上の使命があったことは十分理解できるとしても、言葉の分析と言葉相互間の整合性に囚われ、実際に起きている政治状況の変更を無視し組織の創り出した解釈の一貫性を大事にして来た結果なのです。吉田総理の意向を組み入れた佐藤達夫法制局長官の「非武装平和主義」の呪縛に囚われて、身動きができなくなった結果が「別の観念」論なのです。これこそが日本の「一国平和主義」の源流なのです。

   このような自らを袋小路に押し入れるような神学的原理主義を排除して、開かれた主権国家として国際社会で責任ある行動と貢献が出来るように、憲法第9条第2項の解釈を第1項の解釈と整合性を持つものにしなくてはならないのです。この新たな作業のために、もう一度、碩学佐々木惣一氏の「自衛戦争・自衛戦力合憲」論を紐解くことで得るものは大きいと考えます。佐々木氏は第1項にある「戦争」や「武力行使」を以下のように説明しています。

    「憲法第九条第一項では、国家は国際紛争を解決する手段としての戦争をせず、国際紛争を解決する手段として武力による威嚇または武力行使をしない、という態度を採ることを定めている。かかる態度をとることが第九条第二項にいわゆる「前項(第一項)の目的」である。・・・・ 第一項で戦争をしないとするのは、国際紛争解決の手段としての戦争をしないとするのであるから、第二項で、第一項の戦争をしないという目的を達するために、戦力を保持しない、とする場合のその戦争が第一項で放棄されている戦争、すなわち国際紛争解決の手段としての戦争であること、法規解釈の論理上当然である。ゆえに自衛手段としての戦争に用いるものとしての軍備を有することは、憲法上許される。」

   さらに、第2項の「戦力」については以下のように処理しています。

     「国家としては、自己の存立を防衛するの態度をとるの必要を思うことがあろう。これに備えるものとして戦力を保持することは、国際紛争を解決するの手段として戦力を保持することではないから、憲法はこれを禁じていない。このことは、わが国が世界平和を念願としている、ということと何ら矛盾するものではない。」

   以上のようなな解釈の基になる根拠を第2項にある「交戦権」との整合性を論理的につけるためには、第2項の「交戦権」を第1項で放棄されている「戦争」や「武器の行使」と同じ次元で考えるべきなのです。つまり、第2項で認められていない「交戦権」は、第1項で禁じられている「戦争」や「武力の行使」に係わるものであって、自衛手段としての戦争や武力の行使の遂行にまつわる交戦権は認められている、と理解することが合理的なのです。

   ここで忘れてはならないことは、自衛のために武力行使を以って国を防衛する、ということは、実際には兵器・武器を以って攻撃相手と戦火を交える、ということであり、国際法上は武力抗争の直接的当事者の開戦行為の合法性や違法性にはまったく関係なく 戦争状態にあるときに、そこに従事する人・組織の全てが遵守すべき権利義務を規定するものを戦時国際法(jus in bello)と呼ぶのです。それを憲法第9条第2項では「交戦権」と呼んだに過ぎないのです。この戦時国際法と対になっているものが戦争自体の合法性・違法性を決める第1項の「戦争権」とも云うべき(jus ad bellum)ものです。そもそも戦時国際法の基本的な目的がどこにあるかといえば、戦争の悲惨さ・犠牲・危害を出来る限り避け・軽減するために戦争遂行の行為・行動を規制したのです。国連憲章に基づく「戦後国際秩序」では「戦争」という言葉が使用されなくなったので、戦時国際法の変わりに「国際人道法と呼ばれる理由がそこにあります。 

   自衛隊はその本来の国防という任務の遂行に関してジュネーブ諸条約に代表される戦時国際法に服す義務が課されているわけです。その具体的な結論は自衛隊は軍隊であり自衛官は兵士なのです。 日本だけが自衛隊は軍隊ではない、と主張して、自衛官の身分を危険にさらけ出しているのです。###

フィリピン共和国アテネオ・デ・マニラ大学ロー・スクール教授。元アジア開発銀行法務局次長、業務評価局長、関西学院大学総合政策学部教授。法学博士(国際法)。

非ヨーロッパ国家による「世界史の転換」の試みの失敗と大東亜戦争の意味すること

非ヨーロッパ国家による「世界史の転換」の試みの失敗と

大東亜戦争の意味すること

 

鈴木英輔

 

はじめに

グローバリゼーションの波がうねっている今日この頃であっても、世の中の思考の仕方、理念・原則の実践の仕方、嗜好、生活様式などは、いくら「世界は一つ」と謳歌しても一様には成らなかったのです。非ヨーロッパ世界の独立により高山岩男(こうやままいわお)のいう「世界史の転換」が起こったのです(高山岩男『世界史の哲学』こぶし書房、2001年)。国際連合が「植民地独立付与宣言」を総会で採択したのは1960年12月14日であって、その時の総加盟国数はわずか99カ国でした。 

   1839年から始まった英国と清国のアヘン戦争はアジアと西洋との100年戦争の始まりと呼ばれた戦争だったのです。 それは、高山岩男のいうように「自己の特殊な歴史的世界の原理」、つまりヨーロッパという一個の特殊的世界の原理を「そのまま連続的に延長拡大して、普遍的原理でもあるかの如く考える一元論」の実践でした(高山、前掲)。その原理は15世紀中ばから17世紀の「大発見時代」(“The Age of Discovery”)とへと繋がり、18、19世紀の「帝国主義時代」へと延長拡大されていきました。そもそも日本で“The Age of Discovery”というヨーロッパの特殊的世界の立ち位置からの見方を退け、それとは別に「大航海時代」という新たな名称を創り出し使用することこそがヨーロッパ的世界一元論に対する非ヨーロッパ国家日本からのささやかな抵抗であったのです。

   日本が執ったその抵抗の歴史は開国の時点から既に始まっていました。現在、「主権国家」として「他の主権国家」から承認されなければ国連の加盟国になれないと同じように、18世紀後半以降の世界の中で、「大航海時代」を拓いてきた技術、知識、財力と未知の世界へ行くという気概を持っていた「文明国」と認められる「国」だけが同等の待遇を受けられたのです。つまり、柄谷行人の言うように、「主権国家という観念は、主権国家として認められない国ならば、支配されてもよいことを含意する。ヨーロッパの世界侵略・植民地支配を支えたのはこの考えである。ゆえに、そのような支配から脱するためには、諸国は自ら、主権国家であると主張し、それを西洋列強に承認させなければならない」(柄谷行人、『世界史の構造』岩波書店、2010年)、という現実がありました。「文明国」として承認されなければ、「国際的水準」に見合う統治能力を否定されたのでした。それが近代の国際法にのっとって日本が結んだ最初の条約である日米修好通商条約に規程された「治外法権」の設定と「関税自主権」の喪失という形で現れたのでした。この屈辱的な「不平等条約」の改正こそが歴代内閣の大きな課題となったのです。「治外法権」つまり「領事裁判権」の撤廃は1894年の日英通商航海条約の締結を待たなければ成し遂げることはできず、「関税自主権」の方は、さらに1911年まで交渉を重ねる努力を強いられたのです。この「不平等条約」の種本がどこに在ったかといえば、アヘン戦争を終結した1842年の南京条約でした。

   その「不平等条約」を西欧列強に拡散する手法が「最恵国待遇条項」(Most Favoured Nation Treatment Clause)と呼ばれるもので、「文明国」である仲間同士は、その仲間内のどの国でも、第三国とよりよい条件で条約を結んだときには、同じ様に良い待遇を他の仲間同士に与えることにするという条文です。但し、この「最恵国待遇条項」というのは、「文明国」同士の間で適用されるものでした。したがって、日米修好通商条約の条文には、アメリカがよりよい特権や待遇を他の諸国に与えた時には、同じように日本にも同等な特権や待遇を与えるとは規定されていなかったのです。この「最恵国待遇」原則も一方的に「文明国」の利益のためだった不平等極まりない条文だったのです。その結果、次々と西欧の列強と「不平等条約」が結ばれたのでした。それが「世界史」の流れだったのです。本稿では、その「世界史の転換」を考えてみたいと思います。

 

I.

国際連合の創設時点、1945年における加盟国、つまり主権国家として認められている国の数はたった51カ国でした。ですが、そのうちのフィリピンはまだ1946年7月4日まで正式に独立国としての宣言もしていなかったし、同じようにインドもイギリスから独立したのは1947年8月15日であったのです。本来ならば、主権国家でないものは国連加盟国には、成れないはずなのです。これも植民地宗主国が連合国の大国であったからできた話なのです。2011年に国連の監督の下にスーダン共和国から分離・独立した南部スーダンが最も新しい加盟国となり、現在の加盟国数は193カ国にもなったのです。どこにこの差が出てきたのかというと、その多くのアジア・アフリカ諸国はかつては欧米の植民地であったという歴史的事実なのです。そこには、高山が云う新たな「世界史の転換」を求める動きがあったのです。それが大東亜戦争という植民地宗主国英国、米国、オランダを相手にした戦いであったことは否定できないのです。

   アジアに焦点を定めれば1940年時点の真の独立国は日本、タイの二カ国だけだったのです。「植民地アジアでは、インドネシアもマレーもインドシナもみなこれまで西ヨーロッパのための大きな所得生産者であった。しかもそれが生産する物質はゴム、錫、石油、ボーキサイト、晩や、キニーネなどという国際的重要性を持つ戦略物質であった」と当時米国随一のアジア通であったオーエン・ラティモアが『アジアの情勢』のなかで淡々と述べています。フィリピンは米国の植民地、ミャンマービルマ)、マレーシア、シンガポール、香港、インド、パキスタンスリランカ(セイロン)は英国の植民地、インドネシアはオランダの植民地だったのです。カンボジアラオス、ヴェトナムはフランスの植民地でした。日本は当時、対中国国民政府軍への米英の援助を阻止するために、時のヴィッシー政権との合意の下で日本軍は仏印に進駐したのでした。但し、ヴィシー政権というものは、ナチ・ドイツがフランスを占領することにより成立したもので、他の世界からは承認されていない政府だったのです。日本にとってインドシナ進攻こそ最大の失策だったのです。

   その戦いを遂行するプロセスの中で、対戦相手の領土である植民地を攻撃し、占領したわけです。それを「侵略」と呼ぶならば、日本軍が攻撃する前に既に植民地として宗主国の利益のために経営されていたこれら欧米の植民地は、どのような経緯を通じて欧米宗主国の植民地になったのか考えるべきなのです。「非文明国」又は「未開の地」として欧米宗主国に略奪されていたのです。「正しい歴史認識」を主張するお偉い方々は、当時のアジアには、日本とタイの二カ国以外の他の国や民族・部族は、欧米宗主国に征服され、支配され、隷属させられていたのだということを忘れているようです。ドナルド・キーンが欧米の植民地支配からの解放をもとめ、自国の独立を戦い抜こうと決心していた植民地の原住民指導者たちの姿をリアリスティックに描いています。

    

 「日本人が東南アジアに作った政府は、よく「傀儡(かいらい)政権」と呼ばれた。これは各政府が無能な人物によって率いられ、その主な仕事は日本からの命令を実行に移すことにあるという意味だった。しかし、当の「傀儡」たちの名前を一瞥すれば、この命名がいかに見当違いなものであるかがわかる。日本が支援したビルマ、フィリピン、インドネシア各政府の首脳(それぞれバー・モウ、ホセ・ラウレル、スカルノ)は、いずれも傑出した人物で、日本の敗戦後も各国で高い地位を維持し続けた。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)は自由インド仮政府首班を自任し、インド独立のために献身的に働き、しかも断じて日本の卑屈な追従者ではなかった。これらの指導者たちは、いかなる困難があろうとも、日本との協力によって自分たちの国の植民地支配を終わらせることができると考えていた(キーン、『日本人の戦争』、前掲)。」

 

 もちろん、これらの指導者は、「大東亜共栄圏」を主唱し「大東亜新秩序」を創りだそうとした「大日本帝国」のなかには、朝鮮と台湾が組み入れられていて、その住民は「大日本帝国臣民」として扱われていたことも知っていました。さらに、「八紘一宇」や「五族協和」というスローガンの下で日本が創り上げて、支配していた「満州国」が存在していたことも周知のことだったのです。にも拘らず「彼らが日本を支持したのは、大東亜共栄圏に属する国々に独立を与えるという約束を日本が本気で果たすと信じたからだった」、とドナルド・キーンは断言しているのです。

 こういう話は戦勝者の「太平洋戦争史」の中には出てこないのです。所謂「正しい歴史認識」を甲高く叫ぶ御仁は、敗戦後の「閉ざされた言語空間」が創りだした虚構の世界から未だに抜け出すことが出来ずにいるのです。その結果、東南アジアのすべての国々が欧米宗主国の桎梏の下に置かれていたことを全く忘れているのです。

 当時のアジア諸国の実状は、ヨーロッパ中心の世界一元論の下で、欧米諸国は宗主国として自国の姿を植民地に移植し自国との同一化を押し進めたのが実態でした。これは、高山が云う「無自覚な世界一元論」の原理を「連続的に延長拡大」してきた結果でもあったわけです。日本が世界史の転換を求めたのは、多元的な世界史的世界の構築には、ヨーロッパという特殊的世界とは別に非ヨーロッパの一つの別な特殊的世界の創造が必要であったからです。何故ならば、「特殊性の自覚は同時に普遍性の目覚め」であり、「普遍的世界或は世界史的世界の成立には、却ってその半面に特殊的世界の確立」が供わなければならないからです(高山、前掲)。そこに創り出された地域的秩序が「大東亜共栄圏」というものでした。そしてその大義のために戦ったのが「大東亜戦争」だった、といわれました。しかし、多元的な世界史的世界を追求する「世界新秩序の原理」(西田幾太郎『世界新秩序の原理』青空文庫(2004年))は欧米の一元論的な「帝国主義」ではないと言いつつも、英国の植民地が英語を話し、オランダの植民地でオランダ語が使用され、米国の植民地でアメリカ英語が以前の支配言語であったスペイン語に取って代ったのと同じように日本の占領下においても日本語教育が強制されたのでした。(但し朝鮮においては日本は、その植民地政策の一環としてハングルの使用を復活させ漢字・ハングル混じり文の奨励を進めました。)つまり、日本も欧米の植民地宗主国と同じように自国の「万世一系」と「八紘一宇」の世界観を強制的に押し付けるという「帝国主義」を実践することに忙しくて、欧米宗主国からの独立を求めて日本に協力した被統治者の希望や期待は踏みにじられたのでした。従って、「『大東亜戦争』を植民地解放戦争とみるよりは、むしろ植民地再編成をめざす戦争とみるほうが、事実に即している」と批判されたのです(上山春平『大東亜戦争の意味―現代史分析の視点』中央公論社、1964年)。

 それでも大東亜戦争の大義の一つは大東亜共同宣言に掲げてあるようにアジアの解放と人種差別撤廃を目指したものだったのです。かつて、国際連盟規約採択過程で、「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」という「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとした日本の提案も、パリ講和会議の議長であった米国ウィルソン大統領の反対にあい否決されたという苦い経験をしてたのです。これは、昭和天皇をして「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時、之を抑へることは容易な業ではない」と記録させているほど日米間の禍根となっていたのです(『昭和天皇独白録』、文春文庫(1995年))。日本が大東亜共栄圏を謳い、大東亜新秩序というものを建設することを明らかにした大東亜共同宣言は、欧米宗主国の植民地に対する主権の回復を唱えた米英の「大西洋憲章」に対抗するために出されたものだったにも拘らず、その作成過程においては「植民地に生きる」当事者である大東亜会議の参加者のさまざまな修正案を悉く退けたという日本の独善的な宣言に終わりました。それが満場一致で採択された宣言といわれたものでした。だからといって、ビルマのバー・モウ首相、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースにしても、南京政府汪兆銘(おうちょうめい)にしても、その全ての人が各々確固たる政治信念を持っていた立派な人物であり、単に傀儡政権と切り捨てられるものではなかったはずです。日本が彼らを利用したと同じように彼らも日本を自分の国の独立のために利用したのでした。そこには基本的な共通意識として、ヨーロッパ的一元論の世界への非ヨーロッパ世界の従属からの解放と漸次対等な存立を求める行動があったことは否定できないのです。オーエン・ラティモアの評価がそのことを裏付けています。「日本が立派にやり遂げたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀的構造を破壊することであった」と(オーエン・ラティモア『アジアの情勢』河出書房(市民文庫))。結果としては、

   

   「これまでかつて武装したことのなかった植民地諸民族は武器を所有しだした。かれらは領土のもろもろの部分を支配するようになった。新聞やラジオを自分たちの手におさめた。日本人の下では、かつて財力と権力とをふるった人々のなかの一部のものはその金力や特権を、また時にはその両方を、失った。新しい人々が勢力を得たのであった(同上)。」 

 

 大東亜戦争には敗れたといえども、戦時中に日本が占領した欧米の植民地は、その大義に沿って欧米宗主国から解放され、オランダによるインドネシアの、フランスによるインドシナの再植民地化の試みにも拘らず、すべての植民地(香港を除く)が新たな独立国となったのです。

 

II.

 日本は、幕末以来、怒涛の如く押し寄せる帝国主義から身を護るため帝国主義を身につけ、独立を維持してきました。その結果として帝国主義国家にならざるを得なかったのです。そして「世界史の転換」の戦いに無残にも敗れたのです。 

 歴史は勝者が自らの行為を正当化するものなのです。田原総一郎が言うように、「敗戦というのは決定的な結果であり弁明のしようのない致命的な失敗なのである。どうも私たち日本人には、連合軍がきめつけた“侵略戦争”というよりは敗れる戦争をしたことこそが致命的な失敗という認識が希薄なようだ」と(田原総一郎『なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか―アジア主義者の夢と挫折』、PHP研究所、2011年)。その勝者の歴史認識を徹底的に敗者である日本人に“洗脳”させたのが敗戦後の日本を占領支配したGHQだったのです。連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の政策の第一弾が民間情報教育局の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の一環として作成された『太平洋戦争史』が「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した」のだということを認識すべきなのです(江藤淳『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫、1994年)。この『太平洋戦争史』は昭和20年(1945年)12月8日から全国の新聞紙上に10回にわたって掲載された占領政策用の宣伝記事であったのです。この連載の開始の日付が12月8日というのは、たまたま偶然のことではないことは明白なことです。そして、その一週間後、GHQは、12月15日に出された神道の国家からの分離、神道教義から軍国主義的、超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除を目的としたGHQ覚書、「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(所謂「神道指令」によって、「『大東亜戦争』、『八紘一宇』ノ如キ言葉及日本語ニ於ケル意味カ国家神道軍国主義超国家主義ニ緊密ニ関連セル其他一切ノ言葉ヲ公文書ニ使用スル事ヲ禁ス、依テ直チニ之ヲ中止スヘシ」としたのです。これによって「大東亜戦争」という用語の使用が禁止されたのです。 同時に、徹底した言語統制を実施しました。連合国の占領下のことですので、この指令に服すことは致し方ないことだったのです。

 ここで「大東亜戦争」という名称について一つ確認しておきましょう。「大東亜戦争」は1941年(昭和16年)12月12日に、以下のような文面で閣議決定されたものです。

   

   「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス。」 

 

 これを受けて、内閣情報局は「大東亜戦争と称する所以は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」と同日発表しました。この呼称が政府の公式名称であり、前記のGHQの指令が出るまで使用されていたのです。そしてサン・フランシスコ講和条約の発効に伴い、「神道指令」も1952年4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」によって、その効力を失いました。しかしこの「神道指令」は「別に法律で廃止又は存続に関する措置がなされない場合においては、この法律施行の日から起算して180日に限り、法律としての効力を有するものとする」の規定によって自然失効した訳です。

 「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのです。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではないのです。しかし、所詮、「勝てば官軍、敗れば賊軍」の世界なのです。GHQの熾烈な事前検閲によって強制的に勝利者の「太平洋戦争史」のみを許すという「閉ざされた言語空間」の中で育まれてきた「特異」な歴史観が醸成されてきた訳です。熾烈かつ執拗なGHQの事前検閲の下で、時がたつに従って、強制的に押し付けられた歴史観は不思議なもので「自発的な」もの、「習慣的な」ものに成ってしまったのです。事前検閲は既に述べたように、1945年10月から実行され1948年7月まで続いたのですが、それ以降は「事後検閲」に移行しました。

 検閲が「事前」に行なわれるのか、「事後」に執行されるのかには、大きな差があったのです。「事前検閲」は発行・出版以前の編集者としてのゲラ刷りの最終校正を検閲に提出するので、たとえバッサリ切られても、その箇所を再度校正し直せば済む事で、それに掛かるコストも時間も我慢できるものでした。それに比べ「事後検閲」は最終校正を済ませ、その最終校を実際に印刷し、発行・出版した後に完成品を検閲に差し出すのでした。その場合のリスクは計り知れないものがあったのです。従って、本来のGHQの検閲官の判断を忖度しながら「自己検閲」をするわけです。リスクを出来るかぎり排除しようとすれば、それだけ「自己検閲」を通過するためのバーは高くならざるを得なかったのです。つまり、自らGHQの掲げた検閲基準よりも厳しい基準を設定し、その基準に恭順したのです。そしてその習慣が新聞、雑誌、その他のマスコミ・メディアに従事する記者、報道者、編集者のみならず、学術研究者の脳裏にも内在化されていったのです。上山春平はその原因を以下のように説明しました。

 

   「私たち日本人は、自分の思想や行動が社会に安全なものとして通用するかどうかという点について、じつに鋭敏な感覚をもつ国民ですから、ときの権力がいわば言論活動の枠として示したものにたいしては、驚くべきほど忠実にふるまったのです。そしていつのまにか、その枠が占領軍によって強制されたものであるということを忘れて、自分の考えであるかのように思いこむようになっているむきが多いのではあるまいか、という気もいたします(上山、前掲)。」

 

 そのような状況の下で、勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が「追放をまぬがれた言論人の虎の巻となり言論界の常識となって、今日にいたっている」のです(同上)。その傾向に拍車を掛けたのは云うまでもなく、GHQの検閲のために日本語を英語に翻訳するために雇われた、一時8000名を越える知識人たちで、その多くの人がマスコミや大学の職場に戻ったり、あらたに就職して行ったのです。こうして世代を超えて勝利者の「太平洋戦争史」の解釈が今でも受け告げられているのです。

 従って、サン・フランシスコ講和条約の発効と共に主権を回復した時点で、「神道指令」の強制力は既に失効したにも拘らず、政府はなんら手を打たず、あたかも「神道指令」が効力を持つ如く「今次の戦争」、「先の戦争」、或は「第二次世界大戦」など、「太平洋戦争」という名称は使用してなくとも自らの歴史観を取り戻すことはしなかったのです。この恥ずべき状態が今でも継承されているのです。

 異色な歴史作家、関祐二によると、近代日本は、二回過去を捨て去っているといいます。最初は明治維新であり、二度目は「第二次大戦後のことだ」と記しています。関によれば、明治維新が創りだした「『王政復古』は、純粋な古代天皇制への復古ではなく、実際には西洋的で一神教的な天皇への変貌であった」といい、二度目に過去を捨て去ったのは、「戦後のインテリ層は、連合国が押し付けた『すべての責任は日本にある』という歴史観に『迎合』し、過去の日本を拒絶してしまった」からだと説いています(関祐二『呪う天皇の暗号』新潮文庫、2011年)。結果として「大東亜戦争」という名称は日陰者めいた扱いを受けてきました。この扱いは、自衛隊を「日陰者」扱いするのと同じことであったのです。そこには、上山春平によると「『太平洋戦争』史観を鵜のみにする反面、「『大東亜戦争史観には一顧だにあたえようとしないという二重の錯誤の根」があるのです。つまり、「大東亜戦争史観とその国家利益との関係は克明に検証され批判されてきたにも拘らず、その批判の基準として持ちいれられた「太平洋戦争」史観や「帝国主義戦争」史観などはに対しては、それらの各々の戦争が当然持っている国家利益との結合に関しては真摯な批判的考察はなされる事なく、「額面どうり普遍的な人類的価値尺度」として受け入れられてきたのです。その結果、「大東亜戦争史観とそれに対峙する「太平洋戦争」史観等に対する評価がゆがんだことによって「二重の錯誤」が生じたというのです(上山、前掲)。 

 従って歴史というものが、覇者の行為の正当性と、その大義の正統性を世に広く知らしめることであり、それが覇者の権威・権力の維持に繋がることは明らかなのです。『日本書紀』の編纂を通して如何に藤原氏が千数百年もの間日本に君臨してきたか、そして「為政者が過去の自家の『犯罪行為』を隠蔽するためにも、歴史書の編纂は必要なもの」であることを誰よりもよく熟知しているはずの関祐二すら(関祐二『藤原氏の正体』新潮文庫、2008年)、「大東亜戦争」という名称は使わずに、あえて「第二次大戦」という用語を使用するのです。その原因は、単に上山の言う「二重の錯誤」が在るためだけではないのでしょう。占領時代にGHQの統治に服してる間に、やむを得ざる処世術として「太平洋戦争」という名称を採用しているのなら理解も出来ます。しかし、独立を講和条約締結後に取り戻したにも拘らず、その後70年もの間いまだにその「錯誤」を認識せず、「太平洋戦争」史観の「覇者の論理」をそのまま後生大事に抱え込んでいるのは異常なのです。なぜこのような異常な状態が継続しているのでしょうか。 

 それは、ちょうど藤原氏が「華の貴族」として権威・権力を欲しいままにし、現在も「エスタブリッシュメントとして、日本社会に隠然たる影響力を及ぼしつづけている」ことを許すような空間が存在するのです。関はそれを「藤原の呪縛」と呼んでいます。それと同じようにGHQが占領政策を成功裡に遂行するために強いた言論統制こそ、「大東亜戦争史観や「太平洋戦争」史観の客観的な批判・考察を許さない環境を創りだした元凶であり、それは、「いうまでもなく現行憲法、とくにその第9条は、今日にいたるまで『一切の批判』を拒絶する不可侵の “タブー”として、日本の国民心理を拘束しつづけている」のです(江藤淳『1946年憲法―その拘束 その他』文春文庫、1995年)。この「タブーの呪縛」こそが日本の歴史観を歪めてきたのです。まして、そのような「閉ざされた言語空間」の下で日常生活を敗戦の凄惨さから取り戻そうと苦労している多くの人の心の片隅には、「あのように頑迷な独善主義の陸軍が温存され、戦時中病的に異常な様相へと高められた神国史観、天皇史観も残り、旧民法のもとに旧家族制度が存続し、農地改革婦人参政権も行われない戦後の日本を想定した場合、無条件降伏のもったプラス面」もあるという思いを実感として持っていたことは否定できないのです(大島康正「大東亜戦争と京都学派―知識人の政治参加について―」、西田幾多郎その他『世界史の理論―京都学派の歴史哲学論考』、燈影社、2000年)。そういう状況の下で、多くの人は戦時の苦しみからの解放感とともに、その惨めな結果をもたらした国の政策に加担したことを慙愧した結果としての「平和主義」であり、「民主主義」であり、国家の否定としての「世界」であり「個人」だったのです。

 

III.

敗戦後の知的混乱と既存の価値体系の否定から生じる精神的衝撃と動揺は、「一億総懺悔」という無責任の論理を以って戦時の各界の指導者層(政府、政界、官僚、軍部、学会、新聞等)が持つ責任は、中堅層や一般市民が持つ責任との間には雲泥の差が存在することをまったく無視し、「その責任の感じ方、または引責の方法についての考へ方は、各人に信ずるところがあり、それを、とやかくあげつらふべきでない」と自ら取るべき責任を包み隠したのです(朝日新聞天声人語」、1945年9月6日)。まして、「一億総懺悔」論理の実践者は本来ならば自ら取るべき責任を他に転嫁し、その責任追及の役割を極東国際軍事裁判東京裁判)に委ねたのです。日本の指導者層が責任を取らないということは、「覇者の論理」に乗ることであったのです。その結果は、必然的に「太平洋戦争」史観は砂地に水が流れるように浸透していったのです。この間、「覇者の論理」を押し付けられた当事者である日本政府の方からは別にこれという意見は出されず、以前と同じように「今次の戦争」、「先の大戦」または「第二次世界大戦」という呼称をあたかも第三者の如く使用することに甘んじていたに過ぎなかったのです。無作為の受け入れなのです。(無作為といえば、余談ですが、橋下大阪市長のいわゆる「慰安婦問題」発言に関して、政府は米軍当局の占領開始直後に出された“慰安婦”の提供施設の設置要求に応えるべく、「特殊慰安施設協会」を設立した事実に第三者のごとく沈黙を保つのと同じことなのです。)   

 それでも「太平洋戦争」という呼称は定着したように見えたのですが、革新勢力の方からの異論は「15年戦争」に始まり、今や「アジア・太平洋戦争」という呼称にまで発展しました。その中で、最も衝撃的であったのは、信夫清三郎の論文「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」でした(信夫清三郎「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」『世界』1983年8月号)。信夫は、「日本の歴史学者は、『太平洋戦争』という呼称で何を見据えようとしているのであろうか」と疑問を呈したことでした。もし、それが「大東亜戦争」の呼称から逃れるために、「太平洋戦争」の呼称を「科学的に必ずしも正確な名称とはいえない」と認識しつつも、「次善の方法」として「便宜的」に使用するのは、「怠慢」、「怯懦」であると、家永や歴史学研究会編『太平洋戦争史』などを批判したのです。そのうえで、ドナルド・キーンの論文「日本の作家と大東亜戦争」に言及して、キーンが自国製の「太平洋戦争」という呼称を使わず「大東亜戦争」という呼称を使用しても、それが大東亜戦争の肯定や支持を意味するものではないことを明らかにして、「私は、過去には『太平洋戦争』の呼称を用いたこともあるが、目下は戦争の実体を最も広く蔽いうるものとして『大東亜戦争』の呼称を用いている」と主張したのです。もっとも、それ以前に信夫は、「日本の歴史学は、通例、『大東亜戦争』のことを『太平洋戦争』と呼んでいる。 [中略] 対米英戦争は、まさしく『支那事変』の矛盾のなかから日本が突入した戦争だから、戦争の歴史的性質を正しく把握するためには、『太平洋戦争』というよりは『大東亜戦争』と呼ぶ方が正確である」と1982年の著書『大東亜戦争への道』で説明していました。信夫の論文に啓発されたのか、「15年戦争」という呼称を創りだした鶴見俊輔自身も、最近ではもっぱら「大東亜戦争」と自然に呼んでいるのです。 

 「大東亜戦争」という名称を使用することは、それが実際に起こった歴史なのだ、という事実を、善かれ、悪しかれ、総体として受け止めることなのです。この戦争を「大東亜戦争」と激論の末に決定した軍部の指導者、その戦争の遂行にさまざまの政策決定をしてきた政治家・官僚、その戦争に参加した又はさせられた将兵、兵士を送り出した家族、戦況を日々報道した新聞、ラジオの記者・編集者、その報道に一喜一憂した一般市民、その戦争の現代的意義と歴史的重要性を論じた一般・学術雑誌・書籍の著者・編集者など、その時代を生きた人の実体験として、その戦争は政府の公式文書でも民間の一般文書でも例外なく「大東亜戦争」と呼ばれれていたのです。その事実に蓋をして、「太平洋戦争」という呼称を使うことが「正しい歴史認識」であり、「正義」であるというのは、単に戦勝国の論理をそのまま請け負っていることと同じことなのです。たどり着く所は、悪いのは軍部、特に陸軍であり、国民は無辜の犠牲者だという詭弁を恥じもなく都合よく受け入れているのです。ドナルド・キーンの嘆きをもう一度吟味するのも価値があると思います。

   

    「この本(『日本人の戦争――作家の日記を読む』)が生まれるきっかけとなった数々の日記はすべて公刊されていて、戦前戦中戦後の時代史の研究家にはよく知られたものである。しかし意外にもこれらの日記は、日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨極まりない三年間について語る人々によって、時代の一級資料として使われたことがほとんどない(ドナルド・キーン『日本人の戦争』、前掲)。」

 

 既に述べたように、上山春平は戦勝国の「太平洋戦争」の解釈を無条件で受け入れ、反対に「大東亜戦争」の解釈を悉く否定する論理を「二重の錯誤」と呼んでいたのです。何故ならば、「大東亜戦争史観と国家利益との関係に関しては克明な批判がなされたが、その批判の根拠又は考察の基準となった「『太平洋戦争』史観」や「『帝国主義戦争』史観」などは「普遍的な人類的価値尺度」として額面どうりに受け入れられてきたが、それらとの史観と「特定の国家利益との暗黙の結合」については批判的な考察がなされてこなかったからだと批判したのです。そこにそれぞれの史観に対する「評価のアンバランス」が生じ「二重の錯誤」につながったと結論付けていました。さらに上山は、このような「二重の錯誤」を打破せねばならぬとする根拠を以下の六つの要点にまとめていました。

     1.国家が人類社会における最高の政治単位をなすかぎり、二つ以上の国家の利益が妥協の余地なき対立に追いこまれたばあい、戦争という暴力的解決の道をえらぶほかはない。

     2.こうした状況のもとでは、武装自衛権ないし交戦権は国家主権の不可欠の要素をなす。

     3.そのかぎりにおいて、国家は暴力装置をそなえた潜在的戦争勢力にほかならない。

     4.戦争勢力としての国家が、戦争行為のゆえに他国を倫理的に非難したり法的に処罰したりするのは背理である。

     5.しかるに、核兵器の発達にともなって、国家利益の暴力的貫徹の手段としての戦争が人類絶滅の危険をはらむにいたり、国家利益を人類全体の利益に従属させることが緊急の課題となってきた。

     6.この課題を解決するには、それぞれの国民が自国の国家利益を粉飾するイデオロギーの虚為にめざめ、国家的価値尺度の相対性を確認することが先決問題である。

 最も重要な教訓は「大東亜戦争」にしても「太平洋戦争」にしても、それぞれの国家利益に密接に繋がる価値・理念や世界観をあたかも普遍的な価値・理念であると考え、それを第三者の国々・民族に押し付けたことなのです。日本の価値・理念や世界観もアメリカの価値・理念や世界観もそれぞれ相対的であって特殊的なものなのです。まして、現代の世界秩序が主権平等の原則に基づき互恵の関係の上に成り立っているわけですから、各々の国家は相互に相手国の価値・理念や世界観に対して尊敬と対等な権利を認めるといううことだと考えます。

 徹底的なGHQによる言語統制下に浸透して行った「勝者の論理」とその「歴史認識」は世界史の継続性は勿論のこと、日本の歴史の継続性すら封印してきたのです。『日本国語大辞典 第二版第10巻』によると「捏造」とは「事実でないことを事実のようにこしらえて言うこと。ないことをあるようにいつわってつくりあげること」と説明されています。「太平洋戦争」とはまさに捏造された用語なのです。 

 

IV.

同じ民族間の争いであっても、その戦いの原因、戦いを遂行するための目的、その戦いが持つ意義、そして争いが終焉した後に生じた変化を踏まえた上での歴史的な評価も、それぞれの戦争の当事者は異なった歴史観歴史認識を持っているのが自然であり、お互いの生活慣習・環境、風土、気候、地勢、宗教、伝統、歴史など、そのすべてを抱えている地域や国の違いを考えれば当然なことなのです。岡田英弘によれば「歴史は文化であり、人間の集団によって文化は違うから、集団ごとに、それぞれ『これが歴史だ』というものができ、ほかの集団が『これが歴史だ』と主張するものと違うということも起こりうる」のです(岡田英弘『歴史とはなにか』文春新書、2001年)。

 1951年に勃発した朝鮮戦争に対する韓国と北朝鮮とのそれぞれの歴史観は同じである筈がなく、むしろ正反対であるに違いないのです。にも拘らず、相手に対して「正しい歴史認識」が欠如しているなどと批判はしていないのです。同じようなことは、南北戦争を経験したアメリカについても、セルビアから内戦を通じて独立した「コソボ共和国」についても云えるはずです。ましてや、われわれ自身の経験も例外ではないのです。

 明治維新に対する歴史認識は、会津の人の認識と長州・薩摩の人が持つ認識との間には埋めることができないほどの差があるはずだ。京都守護職の職務を勤め上げた松平容保が抱く長州・薩摩の手法に対する義憤は計り知れないものがあったはずです。鳥羽・伏見の戦いが、もとをただせば岩倉具視による勅書捏造と、それに乗じた薩長の出兵と、その出陣を正当化する「錦の御旗」を岩倉具視が創作した、つまり、今流行のことばで言えば、捏造したことによって始まったものだったのです。「王政復古」の名の下に「新政府」が宣言された時には、まさに、坂口安吾が言うように、薩摩・長州・公家の倒幕指導者は「天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」のです。そこには、会津が長年の京都守護職の務めを通じ、孝明天皇の厚い信任を得てきたことも、会津が薩摩と共に長州と戦ったことも勝手に忘れ去られていたのです。度重なる理不尽な要求を会津に突きつけることこそ、会津に「朝敵」という烙印を押しつけるための手段だったのです。岡田英弘が『歴史とはなにか』で、「歴史というものは、それぞれの政治権力の中心で書かれるものだ。権力の正当化が、歴史本来の使命である」と述べるように、ひとことで云うならば、「勝てば官軍。敗れば賊軍」なのです。そして、勝利者の歴史が書かれたのです。

 マックス・ウェーバーが第一次世界戦争後の経験を踏まえていみじくも言ったように「勝者は、道義的にも物理的にも、最大限の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な状勢を買い取ろうという魂胆がある」と結論を下していました(マックス・ウェーバー『職業としての政治』岩波文庫、1980年)。従って、「世界史の転換」を求めた大東亜戦争に敗れた日本は、「太平洋戦争」という勝利者の歴史観を「閉ざされた言語空間」の中で教え込まれてきたのです。それは、勝利者にとっての歴史認識であり、敗者にとっての歴史認識ではないはずです。今、流行りの「正しい歴史認識」とは、相手側と同じ歴史認識を持つことでしよう。まして一国の歴史認識を他国との歴史認識との交渉の対象とすることなど言語道断です。そんな理不尽なことはありえないのです。従って、日本の教科書編纂に当たって近隣諸国の主張に配慮するという所謂「近隣諸国条項」などという代物を採択したことは一大失策であったのです。過去の出来事を現在の道徳観念の正悪基準から判断・評価すべきではないし、ましてや、「過去の真実の探求」のための知的作業のプロセスの中に政治が介入して、何が歴史的真実であるかを時の政治的都合により決定されることなどは、思想・言論・表現の自由がない全体主義国家がやることであって、自由を尊ぶ民主主義国家がやるべきことではないことは当然なことです。### 

 

集団的自衛権の行使は合憲である---マニラから安倍首相と高村副総裁への後方支援

集団的自衛権の行使は合憲である---

マニラから安倍首相と高村副総裁への後方支援

 

 鈴木英輔❋

 安保法制の国会審議の趨勢に潮目が変わったなどと歓喜する群集が出てきている今日この頃、敗戦後70年になるこのときに、「一国平和主義」からの決別を鮮明にし、国際社会で責任ある国としての日本の安全保障に関する法体制を整えようとしている安倍首相と高村副総裁の決意と尽力に対してエールを送るとともに、更なる理論的後方支援をマニラから行ないたいと思います。

I.

 日本国憲法第9条を何回読み返しても、「自衛権」という言葉は見つからないのです。それどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、「自衛権」という言葉に言及しているものはなんら存在しないのです。したがって、「非武装・平和主義」に陶酔していた新憲法採択時において、吉田茂首相をも含む多くの人が、日本は「自衛権」も放棄したと考えていたということがあったのです。憲法公布の時点ですら、その主体である日本国は敗戦国として連合国の占領下に置かれており、日本国政府のすべての権威・権限は連合国最高司令官の権威・権限に従属していたのですから、あえて、時の政府の首相が連合国最高司令官の意向に反するような意見を述べるというようなことは考えられなかったのです。まして、1952年3月、吉田茂首相は参議院予算委員会の証言で、「自衛のための戦力」といえども、再軍備に違いないから、憲法改正を必要とすると言明してたのです。さらに、1954年12月鳩山内閣も、自衛隊憲法に違反してはいないが、政府はは憲法に関する誤解を避けるために機が熟すれば、憲法改正のために適切な処置を講ずるであろう、と以下のような政府見解を出していたのです。 

 「第一に、憲法自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権   利である。憲法はこれを否定していない。従つて現行憲法のもとで、わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である。  二、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。二、他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

  自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。  自衛隊は軍隊か。自衛隊は外国からの侵略に対処するという任務を有するが、こういうものを軍隊というならば、自衛隊も軍隊ということができる。しかしかような実力部隊を持つことは憲法に違反するものではない。  自衛隊違憲でないならば、何ゆえ憲法改正を考えるか。憲法第九条については、世上いろいろ誤解もあるので、そういう空気をはつきりさせる意味で、機会を見て憲法改正を考えたいと思つている」。(昭和29年12月22日鳩山内閣政府見解。第21回国会衆議院予算委位階第2号)

 では、どうして、憲法に全く書かれてない「自衛権」なるものが出てきたのでしょうか。さらに、どうして「自衛権はあるけど、自衛のための武力行使違憲である」といわれていたのが、どうして実力部隊を設けることが違憲ではないことになったのでしょうか。

 日本側から積極的な意味で「自衛権」なる言葉が発せられたのは、マッカーサー連合国最高司令官が1950年元旦に出した「年頭声明」の中で、日本国憲法自衛権を否定したものではない、と表明した時点からなのです。何故かと言えば、日本を取り巻く国際環境が変化したからです。ますます米ソの冷戦の激化が進み始め、それまでの対日占領政策(非武装化・国力弱体化)に全面的な修正をなさざるを得なくなったからです。劇的に変化した国際環境に対応するため、新たな憲法解釈を施したわけです。

 どの法律条文を一つの事実関係に適用するのにも、人の解釈を必要とします。法規範というものは、一定の数値と必要な情報を法規範装置に入力すれば自然と答えが出てくるような自己完結的な自律的規範ではないのです。生身の人間が該当する条文を読み、理解し、解釈して適用するものです。その解釈の基になったのが、独立を回復した主権国家として日本国が保持する国際法上の「自衛権」の認定でありました。第二次世界大戦後の世界秩序を構築した基本法である国連憲章にある国際慣習法を踏まえた権利です。1951年9月に署名されたサン・フランシスコ講和条約第5条(c)項は国際法上の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を明確に規定していたのです。当時新たな憲法解釈によって自衛権を保持することになった事実に対して「立憲主義の否定である」などつまらないうわ言を発するものはいなかったのです。

 その後の警察予備隊の創設から保安隊を経て自衛隊にいたる変質は、そのたびに国際環境・状況の変化に対応しながら憲法解釈によって自衛力の増強と任務・役割の拡大がなされてきたのです。安全保障に関する議論は憲法第9条の文言と現実に執られている政策との乖離を整合させるために、絶えず苦悩に満ちた詭弁や紆余曲折の説明を軌跡に残してきたのです。憲法第9条第2項の核心的問題に言及することを避けて来たからです。何故ならば、憲法前文が描く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという虚構の世界では「われらの安全と生存を保持」するために持つべき自らの手段は否定されたのです。「安全と生存」 を担保すべき強制力が不在なのですから、日米安保条約はその制度上の不備・欠陥を補完したのです。そして米軍による戦力の補填に関しては,最高裁判所憲法9条第2項の言う「その保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国軍隊はたとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力に該当しないと解すべきである」と判断したのです。つまり、最高裁の意見では、米国の補填による「戦力」は合憲だが、「自衛隊」は「わが国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」であるので違憲という結論になってしまうこともありうるのです。そういう状況の中で、日本の漸増的防衛責任は第9条の文脈では居場所を失う虞があったのです。そこで、第9条第2項に関して新たな「創造的」な憲法解釈を必要としたのです。

 

II.

問題は、この「戦力」の保持に関する解釈が「自衛隊は戦力なき軍隊」から始まり「自衛の為の戦力は憲法の禁ずる戦力ではない」また「自衛のための必要最小限度」の兵力という所に至るまで「まるで三百代言のような、ごまかしの論弁をしておりました」と辰巳栄一に言わせるごとく、憲法解釈を通じて詭弁を弄してきたのです。現在、憲法解釈によって集団的自衛権の行使を容認することを「立憲主義の否定だ」などと、のたまう御偉い先生方は、柄谷行人氏の「憲法九条戦争放棄、軍備放棄を唱えていることは明からですが、実際には、それを適当に解釈して、現状を肯定してきた。だから、憲法を守るといっても、欺瞞的です」という批判を噛み締めるべきなのです。もっとも、「護憲」を主張するお偉い先生方には、「知の利権」とも云うべきものが絡んでいるのでしょう。自分の人生を「九条を守る」ために研究してきたその成果としての知的財産が新しい憲法解釈によって潰されることに耐えられないのでしょう。

 最高裁の1959年「砂川事件判決」以来、裁判所は、自衛隊の存在が憲法第9条に違反するかどうかの判断は「統治行為」に属し、それが「一見極めて明白に違憲、違法と認められるものでない限り司法審査の対象ではない」という最高裁の判決を踏襲しており、「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものである」としているのです。従って、自衛隊憲法第9条第2項の「戦力」に当るかどうかについては、裁判所の司法審査の及び得ないところであるとし、最高裁は、原告の主張を斥け、自衛隊の合憲性の判断を行わないまま訴訟を終結させたのです。

 独立した主権国家としての日本を徹底して弱体化する原点が憲法第9条であったとき、その“聖域化”を成功させたのが検閲によって創り出された「閉ざされた言語空間」だったのです。その「言語空間」から作り出された政策論は総て“聖域”に含まれている憲法改正を必要とするような政治性の高い核心的な問題は上手に避けて議論されてきたのです。それが多くの日本の政治家も、政治学者・憲法学者も含めて、彼らの姑息な「リアリズム」であったのです。しかし実際には為政者も、それを支えるべき官僚も、啓蒙すべき学者も、それぞれ「交戦権」が第9条第2項で放棄されている事実が国際関係や国際政治の実際の現場でどのような結果をもたらすのかを吟味する人は数少なく、多くの人は、憲法にある「交戦権」と言う「ことば」の解釈を机の上でアカデミックな研究対象としてして来たに過ぎなかったのです。 まさにそれは「国ごっこ」をしてたにすぎなかったのです。

 先日(6月12日)亀井静香氏は「ジジイだからといってこういう危機に黙っておるわけにはいかん!」と気勢を上げておられましたが、一体どんな「危機」のお話なのでしょうか。尖閣諸島の周りの接続水域どころか領海を毎日の如く中国海警局の巡視船が侵犯していても、日本の海上保安庁の巡視船は、不法侵入する中国海警局公船に対して、警告を発することしか出来ないでいるのです。その警告を無視して不法な測量や調査を推し進めていても、日本の巡視船はその不法行為を止めることも、何も出来ないでいるのです。そのような、まさに危機状況にある現実に対して、何をすべきかという実質審議は何もなされないままで、机上の「立憲主義」の神学論争が行なわれているのです。国家の安全保障を議論すべき時に、今起きている現実の安全保障の危機は棚に上げて、集団的自衛権に関する全く不毛な神学論争に明け暮れるのは、なんという政治家としての不作為なのでしょうか。亀井氏は「日本は戦後、国際的に、いわゆる普通の国ではない国ということを国是として進んできた」とのたまうていらしたのです。敗戦後、占領下で「閉ざされた言語空間」の中で新憲法を採択する以外にすべがなかったために、「いわゆる普通の国ではない」ということを受け入れなければ成らなかったことがジジイに成った今まで続いてきたのです。その敗戦後の壮年期の政治家としての無作為を正当化するための「危機」のお話なのでしょうか。「安全保障環境を整えることは国家の最重要課題だ。しかし、僕は今の国会に国の運命絵を委ねる気にはなれない」と橋下大阪市長が嘆くのはもっともなことなのです。

 先日、民主党長妻昭代代表代行が旨いことをおっしゃっていました。6月12日の衆院厚生労働委員会の渡辺博通委員長の入室を実力行使で阻止し、議事を妨害したことに関し、暴力による妨害を正当化したことを、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」と。まさに、同じことが尖閣諸島の現在の危機に当てはまるようです

 中国は尖閣諸島近くに一大基地を造ることが既に明らかになりましいた。尖閣諸島から最も近い温州市に建設するといいます。長妻氏のおっしゃるように、「お行儀よく見過ごせば国益がかなわない」でしょう。これほどの危機が切羽詰っているのにも拘らず、中国に媚を売るだけで自国の安全保障に真摯に向かい合っていないのです。藤井裕久氏の如く、「中国の肥大化が危惧されているが、これは対立的軍事同盟ではなく、国際連合による対応を第一義とすべきである」とのんきなことをおっしゃっています。不法な、国際法や国際慣行にことごとく違反する中国の南沙諸島の埋め立て、軍事基地化に対して国連が何をしたとお考えなのでしょうか。ご教示をお願いしたいものです。

 

III.

 6月15日に憲法学者長谷部恭男早稲田大学法学学術院教授と小林節慶應義塾大学名誉教授が、わざわざ日本外国特派員協会に出向き記者会見を行ないました。両教授は、政府・与党が今国会での成立を目指す安全保障関連法案について、笹田栄司早稲田大学政治経済学術院教授とともに、6月4日に行われた衆院憲法審査会で「違憲」との認識を表明していたのです。その中で長谷部教授は「核心的な部分、つまり集団的自衛権を容認している部分は明らかに憲法違反であり、他国軍隊の武力行使自衛隊の一体化、これをもたらす蓋然性が高いからです」と鬼の首を取ったように集団的自衛権の行使は違憲であるとのたまうのでした。

 しかし、両教授の「違憲」という結論を導く前提となるべき集団的自衛権の概念が具体的にどのような意味を持つものであるか、両教授ともに全く間違えているのです。前提が誤っておれば、必然的にその結論は間違っているのです。そもそも内閣法制局の解釈自体が間違っているのですから、国際法の専門家でない両教授を責めてもしょうがないのですが、得意になって外国特派員の前ではしゃいでいるお偉い先生方の議論に冷や水を掛けるようで申し訳ないと思いますが、なぜ間違っているかをこれから明らかにしたいと思います。

 集団的自衛権の有権的解釈は1986年の国際司法裁判所の「ニカラグア事件」の判決に示されています。第一に、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が国連憲章第51条に規程されているだけではなく、既に国際慣習法として確立していると判断が下っているのです。その意味するところは、慣習法と実定法(条約)とは別々に平行して存在しており、実定法で同じ権利を扱っていても、一方が他方を無効にするわけではないということです。第二に、「集団的自衛権」という概念は、個別的な自己(自国)の防衛権(自衛権)と同一線上にあり、自己(自国A)に対しては直接攻撃されていないけれども、自国(A国)と密接な関係にあるB国に対する攻撃を自国への攻撃と見なして、B国の防衛のために参戦するのが「集団的自己」(collective self)の防衛権というものです。国際司法裁判所が「ニカラグア事件」の判決の中で集団的自衛権の内容を解明するのに、米州機構憲章にある「米州の一国の領土保全又は領土不可侵あるいは主権又は政治的独立に対するいかなる侵略行為も、米州の他の全ての諸国に対する侵略行為」とみなされることにあるということを教示しているのです。それと同時に、集団的自衛権の発動要件として、A国(自国)と密接な関係にあるB国への攻撃が発生しても、そのB国から攻撃されたという宣言と、A国に対してB国の防衛に支援してほしいという要請がなければ、A国は集団的自衛権を行使できないと規定しているのです。

 ところが、日本国だけが、摩訶不思議なことに、内閣法制局の統一見解に見られるように、国際慣習法として認められている「集団的自己」を実際には否定しているのです。日本は主権国家として集団的自衛権を有する、と認めることは「集団的自己」つまり、密接な関係にある外国との安全保障上の一体化によって成り立つ「集団的自己」の確立を認めることなのです。にも拘らず、国連憲章にも明記されているし、国際慣習法として確立しているので、敢えてその事実に逆らって否定することも出来ないので、集団的自衛権は保持しているといい、その中身の一番重要な、この「一体化」をことごとく否定しているのです。実際には、集団的自衛権を有すると公言することは単なるリップ・サーヴィスをしているのに過ぎなかったのです。そこに、内閣法制局の解釈の欺瞞があるのです。

 内閣法制局の都合のよい憲法解釈によると、集団的自衛権は、個別的自衛権とは違い、攻撃されていない第三者の国が自国の防衛のためではなく、攻撃された外国の防衛にはせ参じるものであるという話にしたのです。そこには、守るべき「集団的自己」(collective self)という前提が欠落しているのです。つまり、直接攻撃されていないA国が、何故攻撃されているB国の防衛のために参戦するのかという意義を理解していないのです。守るべき自己を対象とする「個別的自衛権」の延長線上にある「集団的自衛権」は、他国の利益と自国の利益を一体化することによって、B国への攻撃を自国(A国)に対する攻撃と見なし、集団的自己を防衛するという概念が前提にあるのです。

 敗戦後70年になる現在でも日本の安全保障政策の議論を空虚なものにしているのが憲法第9条の「武力による威嚇または武力の行使」の禁止という一般規範なのです。武力行使の禁止によって、すべての「武力」が違法であるという議論がまかり通るようになったのです。法規範が何を目的としているかという吟味はそこにはなく、言語的な一貫性のみを追及するという無味乾燥な表面的な文理解釈で満足しているのです。その典型が、禁止されている「武力」という言葉は使用できないので、「武力」を「実力」という言葉に置き換えるという欺瞞的な作業でした。 

 『日本国語大辞典』によると「実力」とは、「武力や腕力など実際の行為、行動で示される力」と定義されています。さらに「実力行使」は「目的達成のために武力など実際の行動を持ってする手段に訴えること」と定義付けられています。すでにお解かりのように、内閣法制局の解釈は同義反復というもので(tautology)、異なった言葉で同じ意味を反復することでは、なんら新しい意味を与えたことにはならないのです。「武力」を「実力」と言い換えただけなのですので、逆に言えば、憲法第9条では「実力の行使」は禁じられているのです。こんな結果になるのは、武力の使用目的を考えないからです。武力でも実力でも、それは単なる手段であって、その行使の目的とプロセスに対して中立なのです。使い方により合法にも違法にもなりうるものです。誰が誰に対して使用するのか、何の目的のために使うのか、どのような状況のもとで使用するのかなど、様々な異なった状況が「武力の行使」に関して存在するのです。そのようなそれぞれ異なった事実関係を無視して、「武力」は悪であると断定して、その言葉の使用すら忌避するのは目的価値を考慮しない不毛な言語論法にすぎないのです。

 

IV.

本題に戻りましょう。政府の統一見解によると、「集団的自衛権」の定義は「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利を有するとされている」と規定されています。この定義では、主権国家として日本も集団的自衛権を保持しているように見せかけていますが、実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法集団的自衛権の存在を認めていないというのです。今までの集団的自衛権の論議は、攻撃の対象が「自国」であるか「外国」であるかによって決定されるという二元論に立脚するものです。つまり、「自衛権」というものは「自国」を防衛するものであって、「外国」の防衛にはせ参じるということは、憲法第9条第1項で許されている「自衛のため」に合わないので「集団的自衛権」は行使できないという論理なのです。「行使できない 」というと、集団的自衛権は保持しているが、自らの意思でその権利を使わないことを決定したという響きがあります。しかし、現実にはこの統一解釈には「集団的自己」という概念が存在しないのです。内閣法制局の表面的な文理解釈では、極めて理不尽な限定的な定義を恣意的に与えることによって、集団的自衛権の行使を全く出来ないようにしたのです。

 内閣法制局による憲法第9条の解釈には、日本以外の諸外国とともに共有する利益・価値観の認識や、その共通な認識に基づいて協調し行動を起こすという国際協調主義に不可欠な基本的な認識が欠けていることです。「一国平和主義」なのです。その結末が国連武力行使を伴う制裁措置やPKOへの参加と集団的自衛権憲法上での否認なのです。この基本的な認識の欠如により導かれたものが、驚くこと無かれ、独善的な「一体化」否定論なのです。まして、憲法前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と戒め、この「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」と断言しているのにも拘らずにです。内閣法制局の「一体化」を否定する論理は憲法が歌う「国際協調主義」を根本から否定するものなのです。

 集団的自衛権の基本的な概念である「集団的自己」の防衛の基礎には、「自己同一認識」(self-identification)という自己自身の姿をほかの人の姿とに一体化することにあります。一人の「個人」から家族、仲良しな友達との一体感、同窓、同郷、同胞とそして「世界市民」のもとである「ひとつの世界」へと、ひとつの小さな「個」が複合的にまたは集合的に、新たな、より大きな集団を形成するプロセスの中で発生・創り出される目的、利害関係、情感、期待、危機感などの共有を軸として形成される「共同体」なのです。それが「集合的自己」なのです。現在の極度に密接化した世界的な相互依存と瞬時に世の中の出来事のインパクトが身にしみるというグローバル化の世界では、益々「集団的自己」に対する認識が深まるのは当然なことなのです。まさに、集団的自衛権の基になるものは、他者への「一体化」を通して「自己」を展開的に拡大して、集団的自己として拡大された主体を形成するものなのです。内閣法制局憲法解釈は、必須条件であるその「一体化」を否定するものなのです。2004年1月に秋山収内閣法制局長官は、「自国」と「外国」とを峻別した法制局独自の「集団的自衛権」の概念を以下のように端的に言明しています。

「お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます」。

現在論じられている「集団的自衛権」の論理は根本的にその基本概念が間違っているのです。「自己同一認識」の展開的拡大は別に新しい概念ではなく、日本の刑法でも第36条は正当防衛として、急迫不正の侵害に対して、「他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」は違法性阻却事由としているし、第37条でも、緊急避難の対象として「他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため」と、他人と共に危機感を共有して「一体化」するからこそ、惻隠の情に動かされて自己以外の他人の利益の防衛・保護をする行為を対象にしているわけなのです。残念ながら内閣法制局の「自己同一認識」の「自己」に対する理解が、日本の刑法ですら採っていない理解に基づく旧態依然とした硬直した理解に基づくものです。その理解は「自己」を一人の個人又は一つの国家のみに限定したハンス・ケルゼンの亡霊に取り憑かれているからです。 

 

そこで、老婆心ながら、以下の書籍と論文をお勧めいたしたく存じます。

佐瀬昌盛『新版 集団的自衛権 ― 新たな論争のために』(一藝社、2012年)

鈴木英輔「内閣法制局の『集団的自衛権』に関する解釈を超えて:日米安全保障体制の再検討」、『総合政策研究』、第46号、pp27-66。<http://hdl.handle.net/10236/12211>

 

フィリピン共和国マニラのアテネオ・デ・マニラ大学ロー・スクール教授。元アジア開発銀行法務局次長、業務評価局局長、関西学院大学総合政策学部教授

 

 

The Post-War International Order with Chinese Characteristics and the "Enemy State" Clauses of the United Natuons Charter

Here is my new article which might interest you. Eisuke Suzuki

"The Post-War International Order with Chinese Characteristics and the "Enemy State" Clauses of the United Nations Charter"
<http://hdl.handle.net/10236/13326>