みんなが忘れていること
みんなが忘れていること
「植民地アジアでは、インドネシアもマレーもインドシナもみなこれまで西ヨーロッパのための大きな所得生産者であった。しかもそれが生産する物質はゴム、錫、石油、ボーキサイト、晩や、キニーネなどという国際的重要性を持つ戦略物質であった」と当時米国随一のアジア通であったオーエン・ラティモアが『アジアの情勢』(Owen Lattimore, The Situation in Asia, 1949、小川修訳、河出書房、1953年)のなかで淡々と述べている。そして「日本が立派にやりとげたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀的構造を破壊することであった」と客観的な評価を下している。
大東亜戦争は、アジアにおける欧米植民地宗主国、つまり、米国、英国、オランダを相手にした戦いであった。その戦いを遂行するプロセスの中で、対戦相手の領土である植民地を攻撃し、占領した。それを「侵略」と呼ぶならば、日本軍が攻撃する前に既に植民地として宗主国の利益のために経営されていたインドシナ、ビルマ、インド、マレー、インドネシア、パプア・ニューギニア、フィリピン、香港などはどのような経緯を通じて欧米宗主国の植民地になったのか。「非文明国」又は「未開の地」として欧米宗主国に略奪されたのだ。「正しい歴史認識」を主張するお偉い方々は、当時のアジアには、真の独立国というのは日本とタイの二カ国だけであったわけで、その他の国や民族・部族は、欧米宗主国に征服され、支配され、隷属させられていたのだということを忘れているようだ。ドナルド・キーンが欧米の植民地支配からの解放をもとめ、自国の独立を戦い抜こうと決心していた植民地の原住民指導者たちの姿をリアリスティックに描いている。
"日本人が東南アジアに作った政府は、よく「傀儡(かいらい)政権」と呼ばれた。これは各政府が無能な人物によって率いられ、その主な仕事は日本からの命令を実行に移すことにあるという意味だった。しかし、当の「傀儡」たちの名前を一瞥すれば、この命名がいかに見当違いなものであるかがわかる。日本が支援したビルマ、フィリピン、インドネシア各政府の首脳(それぞれバー・モウ、ホセ・ラウレル、スカルノ)は、いずれも傑出した人物で、日本の敗戦後も各国で高い地位を維持し続けた。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1945)は自由インド仮政府首班を自任し、インド独立のために献身的に働き、しかも断じて日本の卑屈な追従者ではなかった。これらの指導者たちは、いかなる困難があろうとも、日本との協力によって自分たちの国の植民地支配を終わらせることができると考えていた。"(ドナルド・キーン『日本人の戦争――作家の日記を読む』文芸春秋、角地幸男 訳、2009年、50頁。)
もちろん、これらの指導者は、「大東亜共栄圏」を主唱し「大東亜新秩序」を創りだそうと行動を開始した「大日本帝国」のなかには、朝鮮と台湾が組み入れられていて、その住民は「大日本帝国臣民」として扱われていたことも知っていた。さらに、「八紘一宇」や「五族協和」という理想の下で日本が創り上げて、支配していた「満州国」が存在していたことも周知のことだった。にも拘らず「彼らが日本を支持したのは、大東亜共栄圏に属する国々に独立を与えるという約束を日本が本気で果たすと信じたからだった」と、ドナルド・キーンは断言する(同上)。
こういう話は戦勝者の「太平洋戦争史」の中には出てこないのだ。所謂「正しい歴史認識」を甲高く叫ぶ御仁は、敗戦後の「閉ざされた言語空間」が創りだした虚構の世界から未だに抜け出すことが出来ずにいるのだ。その結果、東南アジアのすべての国々が欧米宗主国の桎梏の下に置かれていたことを全く忘れているのだ。