交戦権の否認と「自衛行動権」の問題
鈴木英輔
憲法第9条の解釈問題のうち、第1項で「武力」による自衛権を認めたことにより第2項の「交戦権」をどのように取り扱うかがもっとも困難なものだと考える。国際法上、「交戦権」という名称の国家の権利は一般的に使われていないのが常識である。政府見解によると、交戦権とは「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であると定義している。その「総称」といわれる「権利」の中に含まれるものは1907年のハーグ交戦法規、戦争犠牲者の保護を規律したジュネーブ条約さらに慣習法に含まれている権利・義務である。具体的には、交戦相手国の兵士の殺害、兵器・軍事施設の破壊から海上封鎖、臨検、拿捕、占領地での軍政、捕虜としての地位と待遇、敵国領土内または敵軍の占領地帯内に存在する建物および工作物の破壊、敵国領土・占領地内での軍事情報の収集、敵国を利する行為に従事する中立国の船舶・航空機の臨検・拿捕などを執行する権利だ。
当初、政府は、「憲法に禁止しておるのは戦力であって武力ではない」と主張して、自衛のための武力を憲法第9条第1項で認めるために、第2項の「戦力」を第1項の「武力」から分離させた。そして、第2項の冒頭にある「前項の目的を達するため」は、第1項の「国際平和を誠実に希求」することに求められ、第2項後段の「国の交戦権は、これを認めない」にはかからないとして、交戦権の否認は全面的であると解した。つまり、侵略戦争でも自衛戦争でもどちらにも「交戦権」は否認されているということだった。それは、上述したような戦争遂行に関する諸々の権利が含まれる「このような意味の交戦権」を否認したのだ。ここまでは論理が通るのだが、攻めてくるものに、どのように武力を持って自衛のために対処すべきかという問題が残る。 つまり、「総称」としての「交戦権」を否認したが、攻撃してくる相手に対峙して自衛のために武力を行使するわけなので、そのために必要な武力による敵対行為遂行中の手段・方法等を規律する国際規則に服さなければならないのは当然である。したがって、1954年3月15日の衆議院外務委員会での岡崎外務大臣の答弁にあるように「交戦権がなければ人を撃退したり人を傷つけたりすることは全然できないのだという仮定に立つ」わけではなく、実際に争いが起きたときに「交戦権がなければ捕虜をつかまえられないというのは」おかしいのは当然である。しかし、1978年8月16日の衆議院内閣委員会での真田内閣法制局長官の答弁によると、「自衛のための武力行使」に相応して「自衛のための交戦権」と称すると、第2項の後段で交戦権は認めないと言っていることとの関係で、「非常に誤解を招く」ことになるという。この交戦権というのは、すでに述べたように「いわゆる国際法上交戦国が持っている、交戦国に与えられておる、占領地の行政をやるとか、あるいは敵性の船舶を拿捕するとか、そういうような交戦国に与えられておる国際法上の権利、それをひっくるめて交戦権」といっているので、「自衛のための交戦権」を持ち出すことは、「非常に誤解を招くので」、そういう表現を使わずに、「交戦権」と呼ばれる総称の傘下にある諸々の国家の権利・義務のうち「武力による自衛」に必要な権利を線引きして「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」の下で、これを「自衛行動権」と称したのだ。
いうまでも無く、国際法のヴォキャブラリーに「自衛行動権」などという概念も権利も存在しない。日本だけに通じる概念であって、その異様性は「武力」と「戦力」と「交戦権」とに共通な独善的な「解釈論理」である。憲法前文に掲げた高尚な理念とは裏腹に、国際平和への貢献も自らの手を汚さない範囲で線引きをする日本版「国際主義・国連中心主義」の欺瞞である。
本来、すべての交戦国・団体が遵守すべき武力紛争時における「武力」行動遂行に関する国際規範の総称としての「交戦権」は、敵対する交戦国のいずれかの行為・行動の起因が国際法上合法であるか違法であるかに拘わらず、同じように適用されるという現実を無視している。攻めてくる相手側が「交戦権」という総称の諸々の権利を保持し行使するときに、日本の自衛隊は守る側と同じ条件で戦ってくれと相手に願いでるのだろうか。ゴルフのコンペではあるまいし、攻撃してくる側が不利な条件を持って守る側にハンデを与えてくれるような、そんなことがあるわけが無い。不思議なことに、1981年4月14日の政府の統一見解では、「実際上、その実力の行使の態様がいかなるものになるかについては、具体的な状況に応じて異なると考えられるから一概に述べることは困難である」という。守る側の「具体的な状況」とは、攻める側の戦力とその動向をを踏まえた上での守る側が「置かれた時間的、空間的環境で具体的に判断」されるものであろう。そして守る側の「実力の行使の態様」は攻める側の戦力に対して相応せずして「自衛のために必要な最小限度の実力」の行使にはなりえないことは明白である。これが「自衛のために必要な最小限度の実力の行使」を支える「自衛行動権」といわれるものの実態なのだ。まして、「わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものである」と詭弁を使う。
1954年3月15日の衆議院外務委員会で岡崎外務大臣が「法律とか、国際法とかいうものは、国のため、人間のために存在しているのでって、それが何でもかんでも人間を縛ってしまうという考えではない」という点に注意を喚起したことを思い出すべきだ。今までの政府統一見解は法理論としては、無味乾燥な言葉の分析に終始する統語論的修辞学に基づいており、既に上で見たように論理が堂々巡りする循環論法である。事実上の「再軍備」を憲法第9条の中で正当化しなければならないという組織上の使命があったことは十分理解できるとしても、言葉の分析と言葉相互間の整合性に囚われ、実際に起きている政治状況の変更を無視し組織の創り出した解釈の一貫性を大事にしたのだ。吉田総理の意向を組み入れた佐藤達夫法制局長官の「非武装平和主義」の呪縛に囚われて、身動きができなくなった結果が「別の観念」論である。###